咽郷雑記

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

平成29年の釣りシーズンの開幕です。

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 例年なら連休明けに初釣行するところですが、今年は中々気温が上がらず水温も低そうなので、釣行は延期して下見に行くと、予想通り市内各釣り場とも寒さに強いガシラとメバルがわずかにあがっているだけで、ベラの姿はまったくありません。

 かなり気温が上がってきた5月31日になって「須磨海釣り公園」に出向きました。水温は低い上に強風でカカリ竿しか出せないという悲惨な状況下で3時間半苦闘しましたが、獲物12尾でさみしく納竿。

 ベラが盛んに餌を追うようになるにはまだまだ時間がかかりそうです。

初釣行の釣果

初釣行の釣果

 

行幸啓の話(その4)  後日談

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 安土城考古博物館を無事出発された両陛下は、ホテルレークビワで御昼食をとられ、午後は琵琶湖栽培漁業センター、第一びわこ学園を御視察になり、琵琶湖ホテルに御宿泊されました。

 翌日の近江神宮御参拝で滋賀県内の行幸啓の日程は全て終わり、車列は逢坂山を越えて京都府に入り京都駅に到着、両陛下は京都駅から新幹線で次の御視察先である愛知県に向かわれました。その間、小石が車列の上を飛ぶことはなく、警備責任者の首も無事だったようです。

・恩賜のたばこ

 行幸啓の翌日、職員に「恩賜のたばこ」が一箱づつ配られたので、早速封を切ると菊の御紋章がプリントされたたばこが10本入っていました。

 小生は喫煙しないので、知り合いの町役場の係長にプレゼントすると部下の女性職員と共にありがたく押し頂いて一服したととたん二人共ひどくせきこみました。

 しばらくして回復した係長は「こんなきついたばこは久しぶりやハイライトちゃうか?」と言い、10分以上せきこんでいた女性職員は息も絶え絶えに「もういりません」と火を消しました。

 「恩賜のたばこ」はたばこの健康被害が広く周知されるとともに批判が増え、平成18年末に廃止されたそうです。

・思わぬ副産物

 行幸啓からしばらくして博物館、県庁、役場、警察の担当者が一堂に会して反省会が行われました。

 その席上、地元警察署の担当者から

「行幸啓前に安土山と観音寺山で不審者対策のために山中くまなく山狩りを行ったが、その際身元不明遺体が数体見つかった。遺体や周辺の状況からいずれも自殺遺体と思われる。現在、各地の警察署に行方不明者や犯罪被害者等の紹介を行っており、遺体の特定ができるかもしれない」

 という報告があったそうです。

・慰労会

 行幸啓が終わり11月になりましたが、11月は元々館の行事が多く忙しかったのでそれらが一段落した12月始めに行幸啓の慰労会と忘年会を兼ねて職員全員で芦原温泉に一泊旅行に行くことになりました。

 休館日前日の夕方、館員の数名が車を出し全員が分乗して博物館を出発、旅館に着くなり宴会に突入しました。一次会は和やかに行儀よくお開きになったのですが、カラオケスナックに場所を変えた二次会は普段生真面目な管理職達も次々リクエストし、酒も進み、大変な盛り上がりです。

 遅くまで飲みつかれた翌朝の朝食後、往路と同様車に分乗して帰路につきましたが、敦賀まで晴れていた空も県境を超えて余呉町に入った頃には冬の曇り空となり、木之元町ではワイパーを最強にしても前がよく見えないくらい激しい「しまけ」(時雨のこと)になりました。

 同乗の館長が「次は雪かな?」と言うと運転していた課長が「結構寒なってきたんで、次は雪になりますやろ」と答えます。

 さらに南下して虎姫町に入る頃に「しまけ」は止みましたが、姉川の橋の上から、うっすらと雪化粧した伊吹の頂を雲間に見た時「お山に三日雪が降れば、里に雪が降る」ということわざをふと思い出しました。(この項終わり)

行幸啓の話 (その3)

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・当 日

 当日朝6時前、まだ外は暗いのに館長に起こされ、寝ぼけ眼で指し示された窓を見ると外に人影があります。恐る恐る通用口から出て人影に近づくと白い割烹着に「日赤奉仕団」の襷をかけた小母さん達20人位が入口前に佇んでいました。挨拶をして話を聞くと「両陛下が車を降りられた時の様子が最もよく見える場所を取るために4時起きでやってきた」とのことでした。

 6時を過ぎた頃からは続々と人が集まり始め、7時には「車寄せ前」の「特等席」はすっかり埋まり、少しでも前に出ようとする人垣を警察官が押し戻しています。8時になると「入り口前広場」を取り囲むように人垣が出来、町道の方にもかなり人が集まってきたようです。

 9時半を過ぎ、町道の西の方で「拍手」と「歓声」が沸き起こるのが聞こえ、それがだんだん館に近づいて来ます。そして、ついに「本物の行幸啓の車列」が視界に入ってきました。しかし、小生はそれを合図に「事前に決められた業務」のため館内の別の場所に移動するために残念ながら「御到着場面」は見られませんでした。

 後ろ髪引かれる気持ちで移動した小生の持ち場は事務所の机を片付けて作られた「臨時の茶汲所」で、両陛下と「随行の方々」への呈茶のために既に数名の職員が「てんてこ舞い」で茶を淹れています。

 私も茶碗を並べたり薬缶を運んだりしていましたが、しばらくして、数人の足音が廊下を通り過ぎ「御休息室」のドアの閉める音がすると、ほどなく侍従の方が両陛下の入室を告げにきました。

 それを受けて事務員2名が、緊張の面持ちで両陛下に御茶をお持ちし、続いて別室の随行の方々にも他の職員が手分けして御茶を運びます。

 それから数分後、また廊下を足音が通り過ぎ、両陛下が展示室に入られたことが確認されると、今度は守衛室で万一の事態(地震・火事など)に備えての待機です。

 三つの展示室を見学しながら移動する「御一行」の動きは各室の監視カメラにより守衛室のモニターに映し出されるので「ガードマン」と「県職員」が「見学時間配分表」と突き合わせて時間チェックをしますが、滞在時間は各室とも1分程度しか誤差がなく「館長、やるやん」と感心しきりです。

 そして、三番目の展示室の監視カメラから人影が消えるとすぐに入り口付近から歓声が聞こえてきて、数分後「出発された」との連絡が守衛室に入ったので、入口に行くと町道を走去る車列の最後尾が見えました。

 町道の規制も解かれ、「車寄せ前」や「沿道」の人も帰りはじめたので「御休憩室」に行ってみるとスタッフが交代で「臨時の玉座」に座り記念写真を撮っていましたが、まもなく片付けが始まります。

 借りてきた「応接セット」を県内各施設に運搬するためのトラックが通用口に横付けされその脇を機動隊のバスや関係車両が続々と帰ってゆきました。

 夕方近くになって片付けが概ね終了したので、スタッフ全員が「入口ロビー」に集められ、館長から労いの言葉を受けました。県庁や役場から来ていた応援組が帰庁してしまうと、がらんとした館内は「祭りの後」のようなさみしさに包まれ、無人の「入口前広場」を吹き抜ける秋風も冷たさを増したようです。

行幸啓の話 (その2)

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・準 備2

 天皇・皇后両陛下や県知事の代役、宮内庁、警察、役所の関係者が御料車、警備車、県の公用車を伴って参加するリハーサルも行われました。

 当日の開始時間、館内から外を眺めていると長い車列が町道に現れ、構内に入り「車寄せ」に到着、両陛下と随行員が下車し、安土町長、安土町議会議長の御出迎えを受けますが、随行員の中に皇后陛下に付き従う「白いスーツを着た小柄な女性SP」がいるのが目に留まりました。

 県庁から応援に来たある職員は「あのSPのハンドバックには拳銃が入っていて、テロリストが襲ってきたらぱっと取出して射殺するんや」言っていましたが、後で調べると行幸啓の警備をするのは「皇宮警察」の「皇宮護衛官」で警視庁や道府県警所属のSPではありません。ハンドバック内に拳銃が入っていたかどうかも不明です。

 両陛下が御休息される部屋は殺風景なので「壁に絵をかけよう」ということで課長の知合いの「県展入選実績のある素人画家」のところに自信作を借りに行き、行幸啓前日には県内の諸施設から借りてきたソファやテーブル、「松の盆栽」と共にセットし、カーテンも厚手の物に取替え、夕方遅くになり漸く受入準備が整いました。

 当時、小生は独身の気楽な身の上だったので前泊に志願し、同じく前泊する館長や県庁からの応援職員達と夕食の弁当を食べていると、行幸啓全体の警備責任者が現れ「回り合わせでこんな役つけられてしもたわしほど運の悪い男はありまへん。もし明日、車列の上をちっこい石が一個ポーンと飛びますやろ。被害がのうても私の首もポーンと飛びますんや。明後日、車列が逢坂山(滋賀県と京都府の境)を越えるまで生きた心地がしませんわ」と愚痴を言うので、館長は「もう少しの辛抱や」と慰めています。

 機動隊は観音寺山中腹にテントを張って野営、サーチライトをつけて徹夜の警備を行い、館長は「御先導・展示解説」の練習に余念がないようですが、小生は11時頃にはソファをベッド代わりに就寝しました。

行幸啓の話 (その1)

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・端 緒

 平成4年11月、旧蒲生郡安土町に「滋賀県立安土城考古博物館」がオープンしましたが、「運営」は「滋賀県教育委員会の外郭団体」が受託していて、「外郭団体」職員だった小生も同年度当該館に異動し、生まれて初めての博物館業務に取り組んでいました。

 開館記念行事も一段落つき、運営もペースに乗ってきた平成6年正月4日の「年頭式」で館長が「秋に行幸啓があるので、館員一同しっかり準備して、万事遺漏のないように」と興奮と喜びにあふれた顔で訓示したのです。

 小生は「天皇・皇后両陛下」がお出かけになることを「行幸」と言うと思っていましたが「行幸」とは「天皇」が御所を離れる時だけに使い「皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫」のお出かけは「行啓」という言葉をあてるため、天皇・皇后両陛下御揃いでのお出かけは、「行幸啓」という合成語を用いることをこの時初めて知った次第です。

 残念なことに件の館長は同年3月の人事異動で福祉施設に転出することが決まり「天皇・皇后両陛下に館内を御案内する栄誉」は儚く消えてしまいました。替わって着任した新館長は万事冷静な人で、行幸に向けての関連部局との打ち合わせや実地検証等の業務を自然体で淡々とこなしていました。

・準 備1

 秋になり「行幸啓日程」の公式発表が行われ、県内視察は10月26日から28日までの3日間で、博物館視察は2日目の27日午前中があてられることが周知されました。

 博物館の構内や沿道の清掃が盛んに行われ「行幸啓前日・当日」の「館長から平職員まで全員の業務分担」や「人員配置」も決定、主管課の県教育委員会文化財保護課や安土町役場の職員も参加する打ち合わせが何度も行われ、両陛下を御先導・展示解説を担当する館長も閑散時間を見計らって練習に励んでいます。

 「行幸啓」の1週間前になるといよいよ準備も本格化してきました。職員が退館する時には必ず守衛室のガードマンに声をかけ、その後職員駐車場の出入口に設置した「赤外線センサー」を職員が運転する「車や自転車」が横切る時、センサーが反応し、守衛室に設置した「ブザー」が鳴ることで、「職員が確実に構外へ出たこと」をチェックできるシステムが導入されました。

 主要道から分岐して水田の中を博物館の正門まで伸びてくる町道の両側には花が植えられたプランターが数メートルおきに置かれました。これは沿道の人垣が車道にはみ出さないための境界線代わりになるものです。

 県警の機動隊は博物館のすぐ近くにそびえる観音寺山と安土山の山狩りを始めました。3日前になると、全国各地から窓に鉄網のついたバスが何台も駐車場に到着し、降り立った各地の機動隊員も山狩りに加わりました。

 鑑識の腕章を巻いた警察官も数名やってきました。その中にひときわ背の低い女性が混じっていて、ベテラン課員は「彼女は滋賀県警で一番背の低い婦人警官ですわ。でもぴったりの仕事があるんです」と言い、マンホール内部のチェックを命令しました。

 構内は電柱がなく水道、下水管に加えて電線、電話線も地中下されていて、大小様々な点検・修理用のマンホールがあります。彼女はかなり小さなマンホールでも蓋を開け潜り込んで行き、しばらくして「ほこり」や「クモの巣まみれ」になって出てくると「最奥部まで行きましたが異常ありません」と報告、確認済のものは「蓋を少しでも動かすと色が変わる特殊なテープ」で封印します。

 20個以上のマンホールに出たり入ったりする姿はモグラのようでしたが、翌日は警察犬を連れて構内を回っていたので警察犬の係もやっているようです。

元号法制化反対運動

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 昭和54年春。本来「ノンポリ大学生」だったはずの小生は「元号法制化」だけには大変な「危機感」を持っていて学内の立看で見た「元号法制化反対京都大集会」に自主的に参加することにしました。

 浮世離れした「ノンポリ」が「危機感」を持った理由としては、

①当時著名な「文化人」の多くが反体制的でありマスコミと共同で「元号が法制化されること」=「戦前のファシズム時代に逆戻りする」というプロパガンダを盛んに流していたこと。

②大学紛争はほぼ終焉を迎えていたとはいえ、社会党は衆議院で100議席以上を有する第2党、共産党も昭和54年の総選挙では39人の議席を得て意気盛んと、まだまだ反体制勢力が頑張っていて、学内には「社青同」(日本社会主義青年同盟=日本社会党の青年組織)、「民青」(日本民主青年同盟=日本共産党の青年組織)に所属する友人や先輩がおり、「学友会」も左翼勢力が支配していたので「元号法制化」の危険性を聞かされる機会が多かったこと

がありました。

 さて「大集会当日」になり、「学友会」「左翼系サークル」などは「集会参加」だけではなく、大学から円山公園音楽堂までの約7㌔の道をデモ行進をしていくということで、開会の2時間位前に校門前に集合し、シュプレヒコールをあげ、先導兼監視役の警察官2名と共に元気よく出発していきましたが、小生は遠い道のり歩いてゆくのは「しんどそう」なのでデモには参加せず、1時間後に大学最寄りの電停から市電に乗車、開場時間の少し前に会場につき、正門前で開門を持っていると、突然「過激派」5~6人が現れジグザグデモを開始しました。しかし5分足らずで解散し「大集会」参加者の集団に紛れて消えてしまいました。

 何か幻を見たような不思議な気持ちでいるうちに開場となったので、正門脇でしばらく待っていたのですが「デモ隊」はまだ到着していません。多分歩き疲れて途中で休んでいるのでしょう。幸い座席に他大学の知合いA君を見つけたので挨拶して隣に座ると、彼は母校から真面目にデモ行進してきたのですが「途中で公安警察にバチバチ写真を撮られたわ。就職にさしつかえるで」と笑っていました。

 日も暮れていて、司会者が登場し開会を告げ、いよいよ「大集会」が始まりました。会場は学生組織、労働団体、生協や市民グループなどで超満員。通路も人であふれています。

 壇上を見ると議長1名、副議長2名が中央にいて、右側は20人ぐらいの「議長団」が占拠していました。A君は「参加団体が多いから、各団体の幹部が壇上に上がって議長団をつくってるんや。議長になったら不規則な発言もでけへんやろ。会をスムースに進めるための知恵や」と教えてくれました。A君は「大集会」の「裏側」をよく知っているようです。

 形式通り議長、副議長、議長団の承認が終わると来賓の「戦前・戦中期に労働運動を戦い抜いた老活動家」が登壇し「アジトが特高のガサ入れにあって、全員がしょっぴかれた話」や「刑務所での取り調べ」の話を始めました。話は淡々としていますが、内容は凄惨そのもので参加者は物音も立てず聞き入っています。

 話が終わり万雷の拍手をもって降壇すると「労働組合ナショナルセンター」の「専従」が中央の状況を説明。学生団体の取組の報告、市民運動の紹介などがありましたが、まったく記憶に残っていないところをみると感動的な話ではなかったようです。

 報告がすべて終わると全員起立してシュプレヒコールをあげ「頑張ろう三唱」で散会し、「全体デモ行進」が四条通に繰り出しました。しかし、デモの終了時間がはっきりせず、小生は神戸から通学していたこともあり参加すると終電に間に合ない恐れがあるので、参加するA君と分かれて帰宅しました。

 それから数か月後元号法制化法案は成立し、戦いは敗北に終わりました。それ以後小生が「現状に危機感を覚え自主的に反対集会に参加する機会」はないままに馬齢を重ね現在に至っています。

情緒が安定している

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 小学生時代(昭和40年代)の「通信簿」には「五段階評価」の「各教科成績欄」とは別に「責任感」「協調性」「指導力」など本人の「性格評価」が記される欄がありこちらは(◎、〇、△)の「三段階評価」でした。

 小生の「性格評価」は〇か△ばかりで、6年間18学期を通して「◎」だった項目は「情緒が安定している」だけです。

 おとなしい性格でけんかもせず、授業中に騒いで怒られたこともなかったので、これこそが自分の「長所」で、評価は適切だとずっと思っていたのですが、最近になって「いつもぼーっとしていた」ことを好意的に書かれていただけではないかと思い始めました

 担任に質問された時は中々言葉が出ず、友達と話すときもペースは遅れ気味で、突っ込みに対する反応も悪いなど、様々な局面ほどぼーっとしていて周りのペースについてゆけないという「短所」を担任が見方を変えて好意的に評価してくれたのでしょう。

 ところで、このことを後輩の女性に話したところ彼女は1年から6年までずっと「マイペース」という欄に「◎」がついていて、ずっと前から「勉強や日常活動がのろのろとしていて、成果が出るのが遅れ気味だった」という意味に理解していたそうです。

 通信簿の「性格評価」には小学生の知恵では窺い知れない含蓄があるのです。

危うくボウズを免れる

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 昨年11月中旬の某日、北風が強く、気温は一ケタ代、潮も「小潮」という最悪の条件でしたが「残り少ない釣りシーズン中に一回でも多く釣行しておきたい」という思いから、無理を承知で出発。

 午後2時頃「ポートアイランド北公園」の釣座に着くと向かい風に撓む竿になんとか「サビキ仕掛け」をつけて沈めたのですが、潮もまったく動かず魚信も一向にありません。

 寒さが骨の髄までしみ込み、夕日も山の端に消え「いよいよ7年半ぶりのボウズで納竿か」と思い始めた矢先、待ちに待った魚信がありいつもよりゆっくりとリールを巻上げるとチャリコ(小さな真鯛)が一尾かかっていました。

 12月初めの「2016年シーズン最終釣行日」は気温・風速とも件の日と変わらないのに大潮だったせいかチャリコを20尾以上釣上げ、潮と釣果は密接に結びついていることを再認識しました。

 年が明け「ボウズなし」記録は8年目に突入。今年も伸ばし続けたいものです。

貴重な釣果

貴重な釣果

 

 

嫌いな言葉(2) 狭い意味で使われるようになった「絆(きずな)」

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『古語大辞典』(小学館 昭和58年)に記載された古語の「絆(きづな)」は、

1.鷹や犬などをつなぎとめる綱

2.親子兄弟など断ち難い愛情関係を紐にたとえたもの

の二つの意味があり、1の用例は平安時代、2は鎌倉時代の文献に見られることから、かなり以前から「物質的結びつき」「精神的な結びつき」の二つの意味があったことが分かります

 漢字の「絆」意味は元々「物質的な結びつき」だったようで、

『漢語林』大修館 平成十年 五版「絆」の項には

・牛馬の足をつなぐなわ ものをつなぎとめるもの 自由を束縛するもの

と書かれています。

 和語の「きずな」について『新明解国語辞典』第七版 2012年刊行には、

1、家族相互の間にごく自然に生じる愛着の念や親しく交わっている人同士に生じる断難い一体感

2、何らかのきっかけで生じた今まで比較的疎遠であった者同士の必然的な結びつき

のように「精神的な結びつき」の意味があてられていて、「漢字」と「和語」の意味には違いがあるようです。

 旧仮名遣いで「きづな」と書かれていた戦前は、語中の「つな(綱)」という言葉から、「語源」を推し量ることもできましたが、「四つ仮名の改悪」(昭和21年内閣第33号「現代かなづかい」により「ぢ、づ」と記されていた文字の多くが「じ、ず」に変わった) 以降は「きずな」と記され「語源」が分かりにくくなりました。

 「きずな」は本来「結びつける」ということが第一義で、「悲劇的な結びつき」の場合にも使われていました。しかし、東日本大震災の年の「今年の漢字」に「絆」選ばれた頃から「絆」一字で「精神的な美しい結びつき」という意味に限定して使う傾向が強くなってきました。

 歴史も古く、多様性もある言葉が本来の意味を失って狭い範囲に限定して用いられることが一般化していくことは良いこととは思えませんが、皆さんはどうお考えでしょうか?

嫌いな言葉(1) 「寄り添う」

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 「寄り添う」という言葉の意味を「新明解国語辞典 第七版 2012年刊行」で調べると「相手の体に触れんばかり近くによる」とあります。具体的には「横並びしている二人が、接触寸前の状態になっていること」をいうのでしょう。

 しかし、「加齢臭のきつい小父さん」や「目がちかちかするような刺激的な香水をつけた小母さん」に無理やり寄り添われたら迷惑ですし「初対面のきれいなお姉さん」が寄り添ってきたら、嬉しいよりも「なにか魂胆があるな」と警戒して身を引きます。

 逆に「公園のベンチにいる見知らぬ少女」に小生が寄り添っていったりしたら、不審者として通報され、駆け付けた警察官に事情を聴かれることは間違いなく、返答次第では連行されるかもしれません。

 「寄り添う」という行為には、「当事者同士の合意」が必要で、寄り添う姿が自然なのは「親子」「兄弟」「恋人・親友同士」に限られると思うのですが、「東日本大震災」以降「気持ちの上で寄り添う」という意味での使用が盛んになってきました。

 自治体の広報誌には「住民に寄り添う行政を実施します」、選挙公報には「被災者に寄り添う政策を提言する候補者○○です」などと書かれていたりしますが、ここには「寄り添い」の要件である「当事者同士の合意」が抜け落ちています。

 さらに、自治体の職員は税金で雇われた「公僕」なのですから「寄り添う」という非積極的な働きでは不十分で「国民の幸せ」のためには粉骨砕身すべきであり、議員も「法律」「条令」の「提案・審議」に全力を傾注し、国民生活を足元からしっかり支えなければなりません。

 近年マスコミまでが「国民に寄り添った報道」などといい始めました。了解もとらず勝手に寄り添うより、国民の膏血を搾り取る「頭の黒いネズミ」をあぶりだすことが、優先ではないかと思うのですがいかがでしょうか。

 小生はこの言葉が大嫌いで、聞くたびに上述の迷惑な「小父さん」「小母さん」を思い出し寒気がしてきます。