咽郷雑記

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

漢方薬の効き方(その1)

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 小生は、幼稚園の頃からアレルギー物質が原因の「濾胞性結膜炎」「アレルギー性鼻炎」「小児喘息」等の免疫異常疾患を患い「内科」「耳鼻科」「眼科」に月に何度も通うひ弱な子でした。

 成人する頃には「喘息」と「鼻炎」は何とか「小康状態」になったのですが「濾胞性結膜炎」(いつの間にか「花粉症」と名前を変えていました)は、治る兆しもなく、30歳を過ぎた頃からさらに悪化し「スギ花粉」時期には、デスクワークをしていると涙がぽたぽたパソコンのキーボードに落ち、仕事がはかどらないほどになりました。

 「眼科」で治療を受け、出してもらった目薬は、一時的に涙を止める効能はあるのですが、持続時間はわずかで、根本治療にはなりません。

 それでもしばらくは、こまめに目薬をさしていましたが、わずらわしさもあり「根本治療に取り組もう」という決心をして、京都にある漢方治療専門の病院を予約しました。

 当日、病院を訪れると、待合室は大変な混雑で、予約したのに30分くらい待たされ、ようやく診察室に入ると、担当医の長い問診、聴診器・打診の後「手首の3か所の脈診」「舌の裏表を観察」など漢方医独特の診察があり、ようやく「診療方針」の説明が始まります。

 まず、最初に

「治療薬には煎じ薬と粉薬があるが、煎じ薬の方の効き目が早い、どちらを選択するか?」

と聞かれたので、

 「煎じ薬でお願いします」

と答えると、

 「煎じ薬でも目に見える効能が現れてくるには2年から3年かかります。4年で1クールだと思って下さい」

と念を押されました。

 帰りに院内の「薬局」で薬をもらいましたが、煎じ薬1日分(食間2回)は、細かく刻んだ何種類かの薬草からなり、即席ラーメン大のビニール袋にぎっちり詰まっています。

 薬剤師から

 「土瓶に薬を入れ、水を1㍑注ぎ、弱火で煎じて、300ccまで煮詰めるように」

と言われたので、帰って早速実施してみると煮詰まるにつれて、面妖な匂いが漂ってきます。

 予定の300ccになったところで火を消し、少し冷まして、湯飲み注ぎ、飲もうとして口をつけると眼がチカチカし吐き気を催すほど強烈な匂いの攻撃を受けたので、思わずテーブルに置きました。

 数分後意を決して湯飲みを取ろうとするのですが、体中の臓器すべてが本能的に拒否反応を起こしているようで、手が出ません。

 しかし、長年苦しんだ花粉症を治すために蛮勇を振るい「どうとでもなれ」とこの「最高に体に悪そうな異質の液体」を一気に飲み干すと!!

 味蕾は完全に麻痺し、体全体がぶるぶる震え、全身の毛根が総毛立ち、寒気に襲われ倒れそうな状態に!

 数分経ってようやく、人心地が着いたのですが「これから毎日二回もこの難行を実施しなければならないのか」と思うと絶望感に打ちのめされました。(続く)

嫌いな言葉 「大丈夫?」

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   『新明解国語辞典 第7版』による「大丈夫」という言葉は本来、

「金銭の誘惑に負けたり、権威に屈したりしない、志の高い男子」

という意味があるそうです。

 まさに現在では「絶滅危惧種」というべき存在ですが、そこから転じた「大丈夫」の一般的な意味は、

①「危険や損失・失敗を招くおそれがないと断定できる状態※例(「この建物なら地震があっても大丈夫だ」「彼に任せておけば大丈夫だ」等)

②「良い結果になることを受けあう様子」※例(「大丈夫、君なら成功するよ」「なに大丈夫明日は晴れるさ」等)

の2件があげられていて、このような使い方は妥当で、問題はないのですが、

「大丈夫?」「大丈夫ですか?」

のように「疑問形」として用いられると、途端に相手に不快感を与える悪しき言葉になってしまうのはなぜでしょうか?

 取りあえず、その使用例をあげてみます。

①体調が悪い上にその日に限って仕事が超多忙で疲労困憊し、ようやく家にたどり着き玄関を入った時。

 出てきた家人に

「大丈夫?」

と聞かれた時、

「このぐたぐたな状態を見てよく『大丈夫か?』と聞けるな。お前の目は節穴か」

と、怒りがこみあげて来ませんか?

「えらいしんどそうやないの?」と率直に言ってくれた方が腹も立たず、素直に心境を吐露できると思うのですが。

②AEDの講習会に出た時

 「倒れている人を見つけたら駆け寄って、肩のあたりを叩きながら『大丈夫ですか?』と3回呼びかけてください」

と、教えられましたが、「意識朦朧状態」か「無意識状態」で倒れている「大丈夫ではない状態」の人に「大丈夫かどうか」3回も確認する必要があるのでしょうか?

 万が一、呼びかけが功を奏して奇跡的に意識が戻ってきたとして、もし患者が私なら「大丈夫ですか?」につられて「大丈夫です」と言ってしまいそうな気がします。

 この「大丈夫ですか?」は病人に「カラ元気を出すことを強要するよう」に思えることもあり、好きになれません。

「私の声が聞こえますか?」「肩を叩いていますが感じますか?」

と、端的に聞く方が適切だと思うのですが。

③コンビニやスーパーのレジで支払いをする時

 「小銭があるからちょっと待って」と銭入れを探し始めた途端、店員に「大丈夫ですか?」と言われると、

「たしかに小生は手先の動きが遅いかもしれないが、小銭の中から1円玉を数枚選り出すことぐらい数秒でできるわい」

と怒りがこみ上げてきませんか?

 以上の使用例から見て「大丈夫の疑問形」は、

・単なる気休め

・相手の「否定」を期待しての言葉かけ

・相手の「肯定」を期待しての言葉かけ

の、三つに分類されるようです。

 しかし、実際に使われた「大丈夫の疑問形」が、「三つの内どの意味なのか」は、「当事者を取り巻く状況や発言者の語調から類推するしかない」という、「京都弁」のような難解さがあり、そのことが聞き手に誤解を生じさせる原因になっています。

 そんなことを考えながら車を運転していて、ガソリンスタンドに入り、店員に

「満タン、現金で」

と告げると、

「はい、現金満タン、OK」

と元気な返事まではよかったのですが、一呼吸おいて

「吸い殻、ごみ大丈夫すか?」

とのご質問。

 御心配なく、私の「吸い殻」も「ごみ」も健康そのもの、大丈夫です!(怒り)

新幹線の思ひ出

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 現在、予土線の看板列車「0系新幹線型気動車」は地元の皆さん、鉄子・鉄男・通学生達を乗せて毎日四万十川沿いの鉄路を走っています。

 4年前の早春「同気動車」の試運転が予讃線で実施されることを鉄男のN君から聞いた小生は、デジカメを持って通過予定時間の少し前に伊予富田の駅に出向き、小松方面からやってきた「同気動車」の撮影に成功しました。

 ところで、実際の「0系新幹線」を初めて知ったのは東海道新幹線開通直前の昭和38年のことで、当時幼稚園のいわゆる「年長組」だった小生は友達(名前は忘れました)の「夢の超特急の模型を見せてあげる」という言葉に誘われて家に遊びに行き、そこで「0系の模型」に対面しました。

 模型の箱には「ひかり号」の文字はなく「夢の超特急」とだけ書かれていました。飛行機のように突き出た丸いフロントは在来線の特急にはなく「夢の超特急」にふさわしい未来の乗り物でした。

 本物の「0系」を見たのは東海道新幹線が開通した昭和39年。父が新大阪駅を見せに連れて行ってくれた時です。

 当日は阪急で梅田に行き大阪駅から在来線に乗り換え、新大阪に着くと、一旦改札を出て入場券を買い、新幹線の改札口から入場しましたが、駅構内のあまりに未来的な光景にまず度肝を抜かれます。

 戦前の駅舎をそのまま使っている「灘駅」や薄汚れた「大阪駅」と違い、沢山のガラス窓と照明を反射して輝く柱の間を通り抜け、長いエスカレーターに乗って真新しいホームに着くと、真っ白な高い天井が覆っています。

 そこには「0系新幹線ひかり号」が停まっていたはずでしたが、構内の光景に圧倒されてしまったたため「0系」の記憶はほとんど残っていません。

 父の「今度は乗せててやるから」という言葉も上の空に、未練たらしく何度も何度もホームを振り返りながら下りエスカレーターに乗ったものです。

 実際、新幹線に乗ったのは、それからずいぶん後、大阪万博の頃でした。

0系新幹線型気動車

0系新幹線型気動車

 

蜃気楼

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 年末、かなり冷え込んだ朝のことです。「JR西明石行電車」が須磨駅に停車した折、目の前に広がる大阪湾に蜃気楼が浮かんでいることに気が付きました。

 思わず目を凝らすと普段霞んで見えない対岸「泉佐野市」あたりのビル群が宙に浮かび、不自然なほど沢山の船が湾内を行きかっています。

 これらの姿は全てぼやけていて、じっと見ていると体がふらつくような気持ち悪さに襲われました。

 江戸川乱歩の名作「押絵と旅する男」の「男が富山湾の蜃気楼シーンを見て、平衡感覚に変調をきたすシーンから怪奇な物語が始まること」を思い出し、背筋がぞくぞくしてきて、おもわず視線を海から山に移動すると、ほどなく電車は須磨駅を発車。

 垂水の街に入るころには「平衡感覚」も「蜃気楼のために少し乱れた心」も正常になり、いつもと変わらない日常が戻ってきました。

「謹慎」の話

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 小生は子供の頃から内向的かつ依怙地な性格で、人付き合いが大の苦手でした。その性格は成長してからも変わることなく、現役時代も上司や同僚、部下との関係は齟齬ばかりでうまくいかず、しょっちゅうトラブルを起こして処分を受けましたが「降格」「減給」「左遷」の三件については回数が多く、慣れてしまったこともあり「まあ、しゃあない」と成り行きに任せておりました。

 定年退職間近になって、初めて5か月間の「謹慎処分」を受けました。

 「処分言い渡し」の翌日、今までいた事務所から「デスクだけが置かれた倉庫二階の洋室」に移され、本部の事務員が、週一回出勤簿チェックに来る以外、社員は誰も来ないさみしい環境で「プロジェクトの残務処理」を一人細々と行うのが、与えられた仕事です。

 ところが、実際「謹慎生活」に入ってみると煩わしい「部下の管理」や「月例報告」、役所からくる「無駄な質問票の処理」等から解放された上、倉庫一階を休憩場所に利用していた作業所のパートの方が、おやつ時間に「コーヒー」をサービスしてくれるという好待遇。精神状態は処分前より格段に良くなりました。

 そんなわけで「謹慎期間」も順調に?消化し、あっという間に年度末になりましたが、「謹慎」のおかげで「送別会」に参加せずに済み、後始末にやってきた「週一事務員」に挨拶しただけで退職出来たのは幸いでした。

 小生の経験した「送別会」は「天下り・再任用に係る退職者の今後の地位」「実力者転退職後の派閥の消長」「転退職上司に対する部下の積年の恨み」等の「危険因子」を含んで開催されることから大荒れになることが多く、とばっちりで怪我をしたこともあり、参加が憂鬱だったからです。

 退職当日、「お別れ」に来てくれた気骨ある同僚が退職記念にくれた「鉢植え」の枝は2年たって少し伸びました。秋には紅葉するので、眼福にあずかることが出来ます。

「 山月記上演」

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 「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」

 定年退職後、パート社員になってからも「8時間×週5日間」働いているので、兼好法師のように「日くらし硯にむかひて」ブログを執筆することはできず夕食後数十分程度パソコンに向かうのが関の山です。

 そんな中でも時々「あやしうこそものぐるほしい」ような気分が高じてくると「妄想の種を発芽させ、好き放題に成長させ、枝も伸び葉も茂り始めた頃になって、意味もなく剪定し、変梃な形の木にしてしまう」という、自己満足の「文芸作品」を生み出してしまうことがあります。

 「発芽」から「変梃な木」に成長するまで1年かかった「山月記のパロデイ」の「妄想の種」は

「主人公李徴が変身した虎の行状は、認知症の症状に似ているんじゃないの?」

という思い付きでした。

 「山月記、認知症」の文言でネット検索すると同じ思い持った先駆者として「ゆうあいクリニックの片山 敦理事長」や「下村徹氏」がおられますし「統合失調症、山月記」で検索すると松岡・うっでぃ氏、門倉貴史氏、ruisou氏が両者の関連を追及されています。

 なお、出来上がった愚作は「篋底深く秘して、娑婆には出さないでおこう」と一度は思ったのですが、既に「大魔神が戦国時代の堺に現れたら」という、小説とも映画台本ともつかないものをアップしたこともあり、恥さらしを承知の上で皆様に披露することにしました。どうぞ御笑覧下さい。

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「 山月記上演」

垂水区と須磨区(その2)

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 垂水区は、播州平野の西端にあたりますが、六甲山地の東端に繋がっていることから土地の傾斜がきつく、そこに刻まれる塩屋谷川、福田川、山田川などの河川はいずれも全長10km以下と短く、河口以外は海食崖が続いているので、水稲耕作に適した耕地は河口のごく狭い沖積地と川に両岸の細長い土地だけです。

 しかし、そんな小河川の一つである「福田川」河口西の海食崖の上に全長194m、県下最大、全国でも41位の大きさを誇る前方後円墳「五色塚古墳」が築造されています。

 「同古墳」に隣接して直径70mの円墳「小壺古墳」があり、周辺にもいくつか小古墳があることから、この崖の上は古墳築造の適地とされていたようです。

 「古墳の大きさ、数はそれを支える近辺の生産力の大きさを反映している」という「学説」がありますが、福田川流域の狭い平地の農業生産力がこの大古墳と古墳群を支えているとはとても思えませんし、農業生産の担い手が住んでいた集落遺跡も同川流域では確認されていません。

 ところで、日本書紀には「仲哀天皇の子である麛坂(かごさか)皇子、忍熊(おしくま)皇子が神功皇后を殺害するために淡路から石を運んで作った偽陵が播磨の赤石(明石)にある」という逸話が記載されていて「五色塚古墳」がその偽陵に比定されています。

 また、市内では摂津の国にあたる灘区から東灘区に続く海食崖の上にも西に全長110mの「西求女塚古墳」真ん中に全長68mの「処女塚古墳」東に全長80mの「東求女塚古墳」が並んでいますが、六甲山地の南麓にあたるこの付近の地形は、垂水区以上に土地の傾斜がきつく、河川も急峻で耕作地はごくわずかです。

 海上からみると「五色塚古墳」も「三古墳」も海食崖の上にそびえたっていてすぐ見つけることができるので「これらの古墳の築造された場所」と「近辺の生産力」の関係は特になく、海上から見て目立つことが、古墳立地の決め手となったのではないでしょうか?

 なお、「三古墳」には「一人の処女(おとめ)と結婚しようと争った二人の男と処女の墓である」という言い伝えが万葉集に記載されています。

 目立つ古墳は、海上を通る船の航路の目印や距離の目安とされ、時代を経るにつれて「偽陵伝説」や「悲恋伝説」がそこから生まれてきたのかもしれません。

 整備が進み、ほぼ築造時の姿に再現された「五色塚古墳」は、垂水区有数の観光資源になり、ゆるキャラも誕生し、年に何回もイベントが行われています。

垂水区と須磨区(その1)

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 神戸の市街地の北側を東西に連なる六甲山脈は、西端の須磨浦公園(須磨区)あたりまで来ると「海になだれ込む崖」となって途切れてしまうので、市街地を平行して西に進んできた「国道2号線」「JR緩行線」「JR急行線」「山陽電鉄線」の車や列車は「崖」を削って造られた「東西方向の狭い雛壇」の上を肩を寄せ合うように通り過ぎて行きます。

 そのままさらに西に進み「垂水区」に入ると、地形が「播州平野西端の台地」になるので、西の彼方まで見渡せる景色になりました。

 さて、「律令制度」により定められた「古代の地域区分」は、国の中心である畿内(摂津、河内、和泉、山城、大和)と、遠方の(七道)に分けられていて、神戸市は「東灘区」から「須磨区」までが「畿内の摂津国」それより西の「垂水区」「西区」は「山陽道の播磨国」で、その境は「須磨浦公園」の西端にある「境川」がそれにあたるそうです。

 百人一首に撰ばれた源兼昌の歌「淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬ須磨の関守」の「須磨の関」は、現在「山陽電鉄須磨駅」の裏手の「関守神社」がその「旧跡」と言われていますが、ここに「関所」が存在したという確証はありません。

 ところで、東に目を転ずると、「畿内の東部」にある山城(京都府南部)と「東山道の西端」にあたる近江国(滋賀県)の境にも「逢坂の関」と言う関所が設けられていました。

 同関所は都のすぐ近くにありながら、出境すると「東山道」の辺境ということで、東へ向かう旅人が立ち止まって都を偲び、旅の無事を祈る場所として有名でした。

 「百人一首」にも著名な三人の歌人(「蝉丸」「清少納言」「右大臣藤原定方」)が読んだ「逢坂の関(逢坂山)の歌」が撰ばれています。

 「須磨の関守の歌」は百人一首撰歌の中で「神戸市内の旧跡」が舞台となった数少ない例でありながら、読み手は「生没年不明」で「残された歌も少ない」地味な歌人で、「逢坂の関グループ」には知名度で圧倒的に負けているのが残念です。

「豆アジ」の季節

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 7月中旬、「舞子で20㎝クラスのサヨリがあがっている」との情報が入ったので、早速下見に行くと多くの釣人が「サヨリ仕掛」を降ろしているのですが、釣果はゼロで、魚影もありません。

 しかし「豆アジ」は数え切れないほど群泳していたので、翌週「豆アジ」釣りに出かけると2時間で50尾近い釣果を得、さらにその2週間後の釣行では3時間で100尾近くを釣上げました。

 さて、この釣りでは「疑似針6本」の「サビキ」を用いますが、魚を全部の針に乗せようと欲張って「仕掛け」を長く沈めておくと、針に乗った多くの魚がそれぞれ違った方向に動き回り、釣糸がもつれやすくなります。

 それを防ぐためには、まだ1~2尾しか乗らないうちに仕掛けをあげる必要があり、結果的には「最初の魚信でリールを巻き、魚を取り込み、手返しよく仕掛けを降ろす」という「単調でせわしない釣り」になってします。

 また、秋になれば成長して「一人前?」の大きさになるのに「子供のうちに釣ってしまうのは、資源保護の面からも問題がある」という御批判もあるでしょう。

 しかし、10㎝以下の「豆アジ」は「ゼンゴ」をつけたままでも短時間で「から揚げ」に出来、「南蛮漬にすると飛び切りおいしい」という大きな魅力がある上、夏の初めになると、明石海峡に臨むほとんどの港では「豆アジ」の群泳が見られるので、「少しくらいいただいてもいいか」と自分に言い聞かせながら毎年釣行してきました。

 ところで、彼の魚も8月下旬になると「南蛮漬」にするには大きすぎる10㎝以上に成長するため、(刺身や一夜干しに最適な)20㎝程度になる10月まで「アジ釣り」は休みにしています。

釣果の「豆アジ」です

釣果の豆アジです。

「目の健康講座と壬生狂言」(第2部)

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 第1部の終了後、短い休憩を挟んで第2部「壬生狂言」の幕が開きました。

 壬生寺の「定期公演」では「鰐口」「笛」「太鼓」で構成される「囃し方」は舞台となる大念佛堂の奥に控えていますが、今回は舞台の上手に並んでいます。やがて聞き覚えのある単調な演奏とともに劇が始まりました。

 最初は源頼光と家来が酒宴をする場面で、酒宴が終わり家来が袖に下がると入れ違いに「土蜘蛛」が舞台に現れ、頼光に襲い掛かります。

 頼光が攻撃をかわし一太刀浴びせると、傷を負った「土蜘蛛」は逃げ去り、再び舞台に現れた家来達に頼光が「土蜘蛛」退治を命じるところまでは「能の土蜘蛛」の展開と同じようです。

 「能」ではその後「引幕」となり「舞台の設え」が替わるまで「間(アイ)」が幕前で「間(アイ)語」りを行って時間をつぶし「設え」が替わり、幕が開くと「土蜘蛛」は古墳の横穴式石室のようなところにクモの巣を張って潜んでいます。

 「壬生狂言」では命令を受けて「土蜘蛛」の本拠地にやってきた家来たちが、暗闇の中、松明をもって居場所を探す歌舞伎の「暗闘(だんまり)」のような場面が長く続き、ついに姿を見つけて打ちかかると「土蜘蛛」は糸を何度も投げて抵抗します。

 糸が投げるたびに客席は大いに沸き「能」にない「家来が土蜘蛛の首をあげる」演出には拍手喝采がおくられました。

 演目が終わり演者が橋かかりを通って退場するまで咳き一つ聞こえない武家の式楽「能」と庶民の芸能「壬生狂言」では客席の反応には違いがあるようです。

 終演後、主催者による閉会の挨拶がありましたが、講演をしたドクター2名も最後まで鑑賞していたようで、主催者と並んで御辞儀をしていました。