日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
元号法制化反対運動
昭和54年春。本来「ノンポリ大学生」だったはずの小生は「元号法制化」だけには大変な「危機感」を持っていて学内の立看で見た「元号法制化反対京都大集会」に自主的に参加することにしました。
浮世離れした「ノンポリ」が「危機感」を持った理由としては、
①当時著名な「文化人」の多くが反体制的でありマスコミと共同で「元号が法制化されること」=「戦前のファシズム時代に逆戻りする」というプロパガンダを盛んに流していたこと。
②大学紛争はほぼ終焉を迎えていたとはいえ、社会党は衆議院で100議席以上を有する第2党、共産党も昭和54年の総選挙では39人の議席を得て意気盛んと、まだまだ反体制勢力が頑張っていて、学内には「社青同」(日本社会主義青年同盟=日本社会党の青年組織)、「民青」(日本民主青年同盟=日本共産党の青年組織)に所属する友人や先輩がおり、「学友会」も左翼勢力が支配していたので「元号法制化」の危険性を聞かされる機会が多かったこと
がありました。
さて「大集会当日」になり、「学友会」「左翼系サークル」などは「集会参加」だけではなく、大学から円山公園音楽堂までの約7㌔の道をデモ行進をしていくということで、開会の2時間位前に校門前に集合し、シュプレヒコールをあげ、先導兼監視役の警察官2名と共に元気よく出発していきましたが、小生は遠い道のり歩いてゆくのは「しんどそう」なのでデモには参加せず、1時間後に大学最寄りの電停から市電に乗車、開場時間の少し前に会場につき、正門前で開門を持っていると、突然「過激派」5~6人が現れジグザグデモを開始しました。しかし5分足らずで解散し「大集会」参加者の集団に紛れて消えてしまいました。
何か幻を見たような不思議な気持ちでいるうちに開場となったので、正門脇でしばらく待っていたのですが「デモ隊」はまだ到着していません。多分歩き疲れて途中で休んでいるのでしょう。幸い座席に他大学の知合いA君を見つけたので挨拶して隣に座ると、彼は母校から真面目にデモ行進してきたのですが「途中で公安警察にバチバチ写真を撮られたわ。就職にさしつかえるで」と笑っていました。
日も暮れていて、司会者が登場し開会を告げ、いよいよ「大集会」が始まりました。会場は学生組織、労働団体、生協や市民グループなどで超満員。通路も人であふれています。
壇上を見ると議長1名、副議長2名が中央にいて、右側は20人ぐらいの「議長団」が占拠していました。A君は「参加団体が多いから、各団体の幹部が壇上に上がって議長団をつくってるんや。議長になったら不規則な発言もでけへんやろ。会をスムースに進めるための知恵や」と教えてくれました。A君は「大集会」の「裏側」をよく知っているようです。
形式通り議長、副議長、議長団の承認が終わると来賓の「戦前・戦中期に労働運動を戦い抜いた老活動家」が登壇し「アジトが特高のガサ入れにあって、全員がしょっぴかれた話」や「刑務所での取り調べ」の話を始めました。話は淡々としていますが、内容は凄惨そのもので参加者は物音も立てず聞き入っています。
話が終わり万雷の拍手をもって降壇すると「労働組合ナショナルセンター」の「専従」が中央の状況を説明。学生団体の取組の報告、市民運動の紹介などがありましたが、まったく記憶に残っていないところをみると感動的な話ではなかったようです。
報告がすべて終わると全員起立してシュプレヒコールをあげ「頑張ろう三唱」で散会し、「全体デモ行進」が四条通に繰り出しました。しかし、デモの終了時間がはっきりせず、小生は神戸から通学していたこともあり参加すると終電に間に合ない恐れがあるので、参加するA君と分かれて帰宅しました。
それから数か月後元号法制化法案は成立し、戦いは敗北に終わりました。それ以後小生が「現状に危機感を覚え自主的に反対集会に参加する機会」はないままに馬齢を重ね現在に至っています。