日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
滋賀県の思い出(3) 県職員は偉い
20年くらい前の話です。
滋賀県内の農家に遺跡所在確認などの聴き取りに行くと「隣村にいた県職のAさんの山に塚があって、どうの、こうの・・」などと返答されることがありました。
同じ返答でも県職員以外の人が話に登場する時は、職業については触れられないこともあります。しかし、県職員は最初から「県職の某」という肩書付で呼ばれていました。県民の「県職員は偉い」という認識は強かったのです。
県職員は一度採用されるとリストラも県外への転勤もなく、ボーナスも毎年あり、年休も取りやすいことから、農家の長男が多く、他府県出身の職員で養子に入った人も結構いました。未婚女性の県庁でのアルバイトは花婿探しと言われて、応募が多く狭き門でした。滋賀県には大企業の工場は沢山あるのですが、本社はほとんどなく、国立機関も少ないことも、県職員の地位を引き上げていました。
そんな偉い県職員中でも特に偉いのは県立高校の教員です。教員は、一般の県職員とは身分や給与制度が違うので「自分達は別格だ」という意識が特に強く、そんな教員にプライドを傷つけられることが多い「県立高校事務室」に異動を希望する人は、まずいません。
知合いの県立高校の事務員も「教員は電話を取らないので、何時も電話番をしないといけない」「呼出してもでない時は、遠くまで探しに行かねばならない」、「お互い先生付けで呼び合い、偉そうにしている」などとよくこぼしていました。
ある職員が2回も県立高校事務室に異動になった時、職員組合が団体交渉で「県職員を県立高校事務室に何度も異動させないように」という要求を出したこともあります。
今では、県民の県職員に対する意識は、少しは変わったでしょうか?
医者・歯医者の思い出(1) 歯医者に行きたい
私は小さな頃から医者や歯医者に行くのが大好きな変わった子供でした。理由は簡単で医者に行くと甘い飲み薬をくれるし、歯医者に行くともっと楽しいことがあったからです。
港の方にあるH歯科医院には、祖父と一緒に近所の停留所から市電に乗って行きます。私は乗車すると、すぐに靴を脱いで座席に正座し、外を眺めていました。市電は40分くらい走ると栄町一丁目の停留所に着き、降りて少し南に歩くと、海岸通に面した「商船ビル」が建っています。このビルは大正11年に建てられた7階建ての立派なビルで、1階ロビーには、指針がメトロノームのように動く扇型の表示板が上にあり、内扉が篭状のクラシックなエレベーターが3基ありました。
エレベーターに乗り、4Fで降りて、天井が高くてとても広い廊下を進み、H歯科医院のドアを開けると、そこには衝立と上に帽子フックのついた外套かけがありました。その奥の待合室で、革張りの立派なソファーに座ってしばらく待ち、歯科衛生士のお姉さんに呼ばれると、治療室に入ります。
診療台に座ると前の大きな窓から、波止場に出入りする船を眺めることが出来ましたし、貨物列車を引く蒸気機関車が、通りの向こうの臨港線をカンカンと鐘を鳴らしながらゆっくり通り過ぎて行くのを見たこともありました。もちろん歯を削ったり、抜く時は、景色どころではなく、恐怖で身を固くしていていましたし、痛みがひどく大泣きしたこともあります。しかし、治療が終わると祖父がビル1Fの喫茶店「海」か、三宮の「ドンク・パーラー」に連れて行ってくれるので痛みはすぐ忘れました。
注文は「海」ではミックスジュース、ドンクでは(ウェファースとサクランボの載った)アイスクリームと決まっていましたが、どちらもめったに口に入らない贅沢品でした。
帰りの市電では、また靴を脱いで座席に正座し、外を眺めながら元の停留所まで戻り、家に着くと、もう次に診療日を心待ちにしていました。
鉄道の話(1) 思い出の蒸気機関車
私は生粋の「鉄男」ではありませんが、寝台列車や地方の鈍行に乗るのが大好きなので「乗り鉄」の資質はあるかもしれません。子供の頃は普通の男の子と同じように蒸気機関車が大好きでしたし、電車に乗る時は一番前に立って景色を見ていました。今回は私の鉄道初体験を御披露いたします。
私が物心ついた頃なので、昭和30年代の後半期、自宅に近い東灘貨物駅では貨車の入れ替えに蒸気機関車が使われていたので、私が「機関車が見たいと」父にねだると自転車の後ろに乗せて連れて行ってくれました。
普通は貨物駅北側引込線の奥にある小さな機関庫にSL(多分C11だったと思います)2両が並んで停まっていましたが、貨物駅に出てきて汽笛を鳴らしながら貨車の入れ替作業を行っていることもたまにありました。
当時、伊丹にいた叔父のアパートに行くと、客車を引いたSLが福知山線を走ってゆくのをベランダから見ることが出来ました。SLは身近にいたのです。
しかし、昭和39年の東京オリンピックの頃を境にSLは阪神地区から姿を消して行き、45年の万博の頃、舞鶴の親戚の家へ遊びに行った時、北吸駅近くの踏切で貨物列車を引くSLを見かけたのが、SL定期列車を見た最後になりました。
愛媛の生活(3) 愛媛県は郷土愛にあふれています
愛媛新聞や愛媛県内の地方局が東京や世界で活躍する郷土の英雄に関する報道を行う場合、長友佑都(西条市出身)、松山英樹(松山市出身)のように名前と出身市町が必ずセットで紹介されます。また、県外の出来事を伝える時でも、取材対象者が県内出身者であれば、同じように出身市町が紹介されます。
愛媛県に引越してきた頃、愛媛新聞で「高知市で事故、県人大けが」という見出しを見たことがあります。最初は県人(けんと)という人が事故にあったのかと思ったのですが、よく読むと「県人」とは愛媛県人のことで、「愛媛県在住の人が高知市に行って、事故にあい大けがをした」という意味でした。
私は愛媛県に来る前、滋賀県に28年住んでいましたが、びわ湖放送や大手新聞の滋賀版(滋賀県には愛媛新聞のような地方誌はありません)で「県人」という単語は見た記憶がありません。
愛媛県では東京製作のテレビ番組であっても、県内が舞台になる時は、新聞のテレビ欄や地方局の番宣で必ず事前告知を行います。愛媛県人の郷土愛は並大抵ではありません。
「君が代」を翻訳して下さい
2006年8月、インドネシアのバンテンで実施された日本とインドネシアの共同遺跡調査に2週間ほど参加しました。帰国が近づいたある日の夕食後、インドネシア側の協力者であるインドネシア国立考古学センターの技師の皆さんと片言の英語で雑談をしていました。
その時、技師の1人から「日本の国歌は何というのか?」という質問がありました。「KIMIGAYOです」と答えると「歌って欲しい」と希望されたので、歌いました。するとさらに「歌詞の意味を教えてほしい?」と聞かれました。その時初めて「自分は君が代の内容を理解していなかった」ことに気づきました。
だからといって「全然分からない」と答えるのも日本人として「随分恥ずかしいことだ」と思い、頭をひねっているとあやふやな記憶ですが「巌(いわお)は、さざれ石からできた堆積岩ではなかったか」ということを思い出したので、さざれ石が巌になり、苔は生えるまでの過程を想像し、以下のようにまとめました。
①小さな石や砂(さざれ石)が川の流れに乗って下り海や湖に堆積する
②マグマが上昇してきて熱により変性し堅い石の層になる
③地震や地殻変動により地表に露出する
④雨によって浸食されたり、崩れたりして大きな塊、つまり巌になる
⑤やがて巌に苔が生える。
このことをつたない英語で身振り手振りを交えて説明し、最後に「最初から最後まで100万年ぐらいかかりますが、そのくらい長く天皇の命が続くことを希望するというのが、KIMIGAYOの歌詞の意味です」と言って締めくくりました。
皆さんには何とか歌詞の意味を理解していただいたようでしたが、今度は「この歌は何年前につくられたのか?」と聞かれました。「この歌が出来たのは平安時代の初め頃ですから今から1200年くらい前です」と答えると、質問者は「さすが日本はすごい!そんな昔から地質学の知識を持った人がいたのか」と感心しました。他の皆さんも頷いています。
「あれ! うーん? なにか少し違うような気がするんですが?? まあ君が代の主旨は天皇の長命を願うことなので、たとえ話がが少しずれてもいいことにしましょう」と自分を納得させました。
帰国して、早速さざれ石と巌について調べると案の定「過程①②」が違っていました。君が代に出てくる巌は正式には「石灰質角礫岩」という名称で、「石灰岩が水に溶けてさざれ石の間に入り、凝固して形成される」というのが正解で、形成過程でマグマの熱は必要なかったのです。また、きちんとした英訳文があることも分かりました。
時雨を急ぐ紅葉狩り
中学校の時、国語の授業で初めて接した古文テキストは謡曲「紅葉狩」でした。冒頭の謡「時雨を急ぐ紅葉狩り」の一文が気に入り、舞台となった信州戸隠に行って時雨に煙る紅葉をぜひ見たいと思いながら、実現しないまま不惑を走り抜け、知命を少し過ぎた頃、秋の白川郷を訪れる機会がありました。
当日は朝からしぐれていたので「もしかしたらあの謡のような景色が見られるかもしれない」と期待しつつ、紅葉の名所「白山スーパー林道栂の木台駐車場」まで車を走らせました。到着すると早速展望台に行ったのですが、時雨が霧雨に変わったため全く眺望がききません。
少しでも景色が見えないかと目を凝らして下を眺めていると、突然強風がおこり、霧が吹き上がってきて、あっという間に展望台全体を包んでしまいました。駐車場の車どころか、近くにいた人の姿も見えなくなったので、動くに動けず、不安なまま立ちつくしていました。
そのまま長い時間がたったような気がしましたが、実際は4・5分くらい過ぎた頃でしょうか、風に乗った霧が上空に抜け去ると、錦繍というにふさわしい見事に紅葉した山々が目の前に浮かび上がってきたのです。
ああ、これこそが私が何年も「見たい、見たい」と願っていた本当の「時雨を急ぐ紅葉狩り」でした。今まで各地の紅葉に見とれたことはあります。しかし魂を揺さぶられるほど感動したのはこの時が初めてで、私にとって一生忘れることのできない体験となりました。
恐怖のザッハトルテ
子供の頃は何ともなかったのに、成人してから「あんこ」が苦手になりました。「アンパン」「まんじゅう」「汁粉」を食べると「胸やけ」が起きるので、茶の湯教室では「あんこ」の入った御菓子は他人に譲るか持って帰るようにしていました。また、「甘酒」でも同じように「胸やけ」がおきるようになりました。
さて、この「胸やけ」はあることがきっかけで収まってしまうのですが、それはまたの機会にお話しするとして、今回は別の方向に話が展開します。
ある時、叔父夫婦がヨーロッパ旅行に行き、「ザッハホテル」の「ザッハトルテ」を実家に御土産として持ってきました。名前だけ借用した国産の「ザッハトルテ」とは違い、本家本元、正真正銘の銘菓なので、早速家族全員で切り分けていただくことにしました。
実は私はチョコレート系の御菓子についてはどんなに甘いものを食べても「胸やけ」を起こしたことはなかったので、フォークで大きめに切って口に入れました。しかし噛むと「ジャリ、ジャリ」と音がします。「これはもしかして砂糖!!」と思う間もなく舌の感覚が麻痺するぐらいの強烈な甘味が口いっぱいに広がりむせそうになったので、紅茶で薄めてなんとか飲み込みましたが、「あんこ」や「甘酒」の時よりもはるかに速く「胸やけ」の症状があらわれてきました。
たとえチョコレート系であってもそこにふくまれる「超大量の砂糖」は胸やけの原因になるんだということが身にしみて分かりました。
ドカベン香川の思い出
先ごろ、ドカベンの名で親しまれた元プロ野球選手香川伸行氏が52歳の若さで亡くなりました。1979年9月頃、私は浪商在学中の香川選手を見かけたことが一度だけあったので紹介いたします。
当時は阪急電車で京都の大学に通っていたので、いつものように十三駅で神戸線の電車から京都線の電車に乗り換えました。すると偶然にも香川選手と同じ車両に乗り合わせたのです。高校最後の大会が済んで気楽になったからでしょうか、クラスメート数人とお気に入りの御菓子について談笑する表情は甲子園で大活躍していたころの厳しさはなく、普通の高3生よりも幼くみえました。朝のラッシュを過ぎた時間帯で乗客は少なく、誰も香川選手がいることに気がつかないようでした。グループは茨木市駅あたりで降りてゆきました。
あれから36年、諸行無常です。
私と京都(1) 「いけず」の本当の意味
私は、30代から50代にかけて大津市に住んでいて、仕事や遊びで数えきれないほど京都市内に出かけました。しかし、何回行っても駅から町に出た瞬間、緊張から自然に背筋が延びてしまいます。その理由はおいおいお話ししてゆきますが、今回は第1回目ということで怖―いお話から。
京都弁で「いけず」という言葉があります。単なる「意地悪」を指す言葉だと思っている人はいませんか?いえいえ実は大変奥が深い恐ろしい言葉なのですよ。ある少女が体験したエレベーターの話をいたします。
ある日、京都市内に住む某奥様は、御歳暮を贈るため小学生の娘を連れて市内のデパートに出かけました。1階からエレベーターガールのいないエレベーターに乗り目的階のボタンを押しました。その時、くたびれた背広を来て、いかにも加齢臭の漂ってきそうな小父さんが急ぎ足でエレベーターに向かって歩いて来たそうです。女の子がふと母親を見るとその手は「閉」のボタンを繰返し押していました。
ここまでなら単なる意地悪おばさんの話ですが、続きがあります。
さて、母親は一生懸命、「閉」のボタンを押したのですが、なぜかドアはそのままで、小父さんがエレベーターに乗り込んだ途端、急に閉まったそうです。小父さんは母親が「開」のボタンを押し続けてくれたと思い。「すんまへん」と礼を言いました。
すると母親はにっこり笑って「よろしゅうおしたなあ、間におうて」と、さも「開」のボタンを押し続けていたように装ってこたえました。女の子は「お母ちゃんて、いけずやわー」と思ったそうです。
皆さん、分かりましたか?
「いけず」という言葉の本当の意味は、「相手に自分をよい人間と思わせておきながら、頭の中では相手を破滅させる策略を巡らし、気づかれないように実行する」ことなのです。なんと恐ろしいことでしょう。「貞子」より怖いです。
阪神・淡路大震災(2) 最初のルミナリエ
最初のルミナリエは地震の年の12月に行われました。
会場の大丸南側の通りはでこぼこが多く、建物の窓もすすけていました。シートに囲まれた修復中のビルや更地もあり、地震から1年たたない厳しい現実がそこにはありました。
仮設や避難所から見物に来た人も多かったのでしょうか、コート姿より防寒着やダウンジャケットを着た人が目立ちました。アーチの電飾も2回目以降に比べると随分地味で暗いものでしたが、柔らかな光が震災で彩(いろどり)を失った街をつつんでいました。
ルミナリエは地震で亡くなった人に捧げる燈明だという共通認識があったからでしょうか、大声ではしゃぐ人はいませんでした。人の流れの乗って歩いていると、思いのほか早くアーチを通り抜けてしまいました。名残惜しいので、振り返って見物客を眺めていると、一人の老人が幼稚園くらいの女の子の手を引いて黙って歩いていました。この子の父母や兄弟たちはなぜ一緒にいないのでしょうか?アーチを見上げて泣いている中年女性もいました。彼女はなぜ一人で泣いているのでしょうか?
ルミナリエは被災者に安らぎと勇気をあたえる光のエネルギーでした。惜しまれながら閉幕し、アーチが片付けられ、年が改まり、震災一周忌がすんで、春に向かう頃、ようやく復興の足音が高まってきたような気がしました。