2017年11月

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

「謹慎」の話

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 小生は子供の頃から内向的かつ依怙地な性格で、人付き合いが大の苦手でした。その性格は成長してからも変わることなく、現役時代も上司や同僚、部下との関係は齟齬ばかりでうまくいかず、しょっちゅうトラブルを起こして処分を受けましたが「降格」「減給」「左遷」の三件については回数が多く、慣れてしまったこともあり「まあ、しゃあない」と成り行きに任せておりました。

 定年退職間近になって、初めて5か月間の「謹慎処分」を受けました。

 「処分言い渡し」の翌日、今までいた事務所から「デスクだけが置かれた倉庫二階の洋室」に移され、本部の事務員が、週一回出勤簿チェックに来る以外、社員は誰も来ないさみしい環境で「プロジェクトの残務処理」を一人細々と行うのが、与えられた仕事です。

 ところが、実際「謹慎生活」に入ってみると煩わしい「部下の管理」や「月例報告」、役所からくる「無駄な質問票の処理」等から解放された上、倉庫一階を休憩場所に利用していた作業所のパートの方が、おやつ時間に「コーヒー」をサービスしてくれるという好待遇。精神状態は処分前より格段に良くなりました。

 そんなわけで「謹慎期間」も順調に?消化し、あっという間に年度末になりましたが、「謹慎」のおかげで「送別会」に参加せずに済み、後始末にやってきた「週一事務員」に挨拶しただけで退職出来たのは幸いでした。

 小生の経験した「送別会」は「天下り・再任用に係る退職者の今後の地位」「実力者転退職後の派閥の消長」「転退職上司に対する部下の積年の恨み」等の「危険因子」を含んで開催されることから大荒れになることが多く、とばっちりで怪我をしたこともあり、参加が憂鬱だったからです。

 退職当日、「お別れ」に来てくれた気骨ある同僚が退職記念にくれた「鉢植え」の枝は2年たって少し伸びました。秋には紅葉するので、眼福にあずかることが出来ます。

「 山月記上演」

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 「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」

 定年退職後、パート社員になってからも「8時間×週5日間」働いているので、兼好法師のように「日くらし硯にむかひて」ブログを執筆することはできず夕食後数十分程度パソコンに向かうのが関の山です。

 そんな中でも時々「あやしうこそものぐるほしい」ような気分が高じてくると「妄想の種を発芽させ、好き放題に成長させ、枝も伸び葉も茂り始めた頃になって、意味もなく剪定し、変梃な形の木にしてしまう」という、自己満足の「文芸作品」を生み出してしまうことがあります。

 「発芽」から「変梃な木」に成長するまで1年かかった「山月記のパロデイ」の「妄想の種」は

「主人公李徴が変身した虎の行状は、認知症の症状に似ているんじゃないの?」

という思い付きでした。

 「山月記、認知症」の文言でネット検索すると同じ思い持った先駆者として「ゆうあいクリニックの片山 敦理事長」や「下村徹氏」がおられますし「統合失調症、山月記」で検索すると松岡・うっでぃ氏、門倉貴史氏、ruisou氏が両者の関連を追及されています。

 なお、出来上がった愚作は「篋底深く秘して、娑婆には出さないでおこう」と一度は思ったのですが、既に「大魔神が戦国時代の堺に現れたら」という、小説とも映画台本ともつかないものをアップしたこともあり、恥さらしを承知の上で皆様に披露することにしました。どうぞ御笑覧下さい。

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「 山月記上演」

垂水区と須磨区(その2)

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 垂水区は、播州平野の西端にあたりますが、六甲山地の東端に繋がっていることから土地の傾斜がきつく、そこに刻まれる塩屋谷川、福田川、山田川などの河川はいずれも全長10km以下と短く、河口以外は海食崖が続いているので、水稲耕作に適した耕地は河口のごく狭い沖積地と川に両岸の細長い土地だけです。

 しかし、そんな小河川の一つである「福田川」河口西の海食崖の上に全長194m、県下最大、全国でも41位の大きさを誇る前方後円墳「五色塚古墳」が築造されています。

 「同古墳」に隣接して直径70mの円墳「小壺古墳」があり、周辺にもいくつか小古墳があることから、この崖の上は古墳築造の適地とされていたようです。

 「古墳の大きさ、数はそれを支える近辺の生産力の大きさを反映している」という「学説」がありますが、福田川流域の狭い平地の農業生産力がこの大古墳と古墳群を支えているとはとても思えませんし、農業生産の担い手が住んでいた集落遺跡も同川流域では確認されていません。

 ところで、日本書紀には「仲哀天皇の子である麛坂(かごさか)皇子、忍熊(おしくま)皇子が神功皇后を殺害するために淡路から石を運んで作った偽陵が播磨の赤石(明石)にある」という逸話が記載されていて「五色塚古墳」がその偽陵に比定されています。

 また、市内では摂津の国にあたる灘区から東灘区に続く海食崖の上にも西に全長110mの「西求女塚古墳」真ん中に全長68mの「処女塚古墳」東に全長80mの「東求女塚古墳」が並んでいますが、六甲山地の南麓にあたるこの付近の地形は、垂水区以上に土地の傾斜がきつく、河川も急峻で耕作地はごくわずかです。

 海上からみると「五色塚古墳」も「三古墳」も海食崖の上にそびえたっていてすぐ見つけることができるので「これらの古墳の築造された場所」と「近辺の生産力」の関係は特になく、海上から見て目立つことが、古墳立地の決め手となったのではないでしょうか?

 なお、「三古墳」には「一人の処女(おとめ)と結婚しようと争った二人の男と処女の墓である」という言い伝えが万葉集に記載されています。

 目立つ古墳は、海上を通る船の航路の目印や距離の目安とされ、時代を経るにつれて「偽陵伝説」や「悲恋伝説」がそこから生まれてきたのかもしれません。

 整備が進み、ほぼ築造時の姿に再現された「五色塚古墳」は、垂水区有数の観光資源になり、ゆるキャラも誕生し、年に何回もイベントが行われています。