日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
「祝福されたお金」と「呪われたお金」
財布から旅立ってゆくお金には「祝福されたお金」と「呪われたお金」の二種類があります。
「スポーツ観戦」「コンサート・演劇鑑賞」や「グルメツアー」などの経費は、「楽しみ」の対価であり、喜んで支払われるので「祝福されたお金」です。
このお金には支払った人の「明るい気持ち」が乗り移っているので、お金を受け取った「芸能人」や「有名レストランのオーナー」が「豪邸」や「高級車」を自慢しても腹を立てる人はいません。
反対に「呪われたお金」の代表は「義務なので仕方なく払う」税金でしょう。「祝福されたお金」に「明るい気持ち」が乗り移るように「呪われたお金」には「納税者の恨み」が「憑依」しています。
納税者は「恨み心」を持っているので、税金の使い道については、いつまでも厳しく目を光らせていて、「公的機関」や「独立行政法人」などで少しでも「無駄遣い」や「使途不明金」が発覚すると「税金を返せ、責任者を処分しろ」という非難の声が一斉に上がります。
「呪われた金を糧として豊かに暮し」「老後も天下りで安泰に過ごしている」官僚達も納税者の目は気になるので、「豪邸」や「高級車」を所持していても自慢することはなく、表向きは慎ましやかに暮らしています。
「わが国は素晴らしい国なのに税金がこんなに少なくては申し分けない。もっと税金を払います」と国民が競い合って余分に納税するような国なら税金も「祝福されたお金」に入るでしょう。
しかし、もしそんなことが行われている国が実際あったとすると、そこには「ファシズム」の影があるように思われます。「税金が呪われたお金」でいる国の方が健全なのかも知れません。
インドネシアの思い出 -ジェグボンド-
平成8年、「インドネシア史跡巡りの旅」の折に訪れたスラウェシ島南部に存在したビナム王国のイスラム墓地遺跡「Jegbond-ジェグボンド-」を紹介します。
イスラム教は厳格な教義を持ち、墓の構造にも決まりがあります。同遺跡の墓も基本構造はアラブ伝来の「イスラム様式」をとっているのですが、全体を覆う「過剰な装飾」や墓の上部両端に刻まれた「女性像」「一対のコモドドラゴン」の文様などは、一般的なイスラム墓には見られません。
インドネシア考古学当局により初めて調査された時には、墓の上部に被葬者と思われる「椅子に座った人物の石像」が置かれていました。(現在は博物館にあります)
スラウェシ島に伝来したイスラム教が、地元の「自然信仰」と習合した結果、墓の形状は「イスラム様式」でありながら、装飾はイスラム教の教義に反する不思議な墓が出現したと思われます。
この墓域に一歩踏み込んだ時、墓標群から発せられる言いようのない「不気味なパワー」を感じ、思わず後ずさりしました。同時に、幻覚を見ているような不思議な感覚がしばらく続いたことが、記憶に残っています。
「先進地視察」は物見遊山?
滋賀県教育委員会の「外郭団体」に在籍していた頃、遠隔地にある県や市町村、各種団体の職員が「先進地視察」という名目で「施設」や「発掘現場」の見学に来ることが時々ありました。滋賀県の文化財行政は特に「先進的」とは思えないし、大抵忙しいさなかにやって来るので、迷惑この上ないのですが、上司の命令で仕方なく対応していました。
しかし、本当に大変なのは、滋賀県内でも「本当に先進的な」取組みを進めていた自治体で、次から次にやって来る「視察団」に忙殺され、日常業務が進まず、職員は困りきっていました。
さて、「先進地」とは、本来「他の自治体や組織が思いつかないような独創的で未来先取りの事業を立案し、困難を克服して実現させたところ」のことですが、そこを視察して学んだ「先進地事業」を「自分のところ」に導入しても、所詮「二番煎じ」で「先進地」を超えることはできません。
それより、まず「硬直化した役所や団体のシステム」の中へ「新たな事業を導入」すること自体が非常に難しく、「関係部局との調整」だけでも何年もかかります。
そんなことから、「A市の取組みは素晴らしいので、長期的な展望に立って、関係部局と調整、検討していくことが望まれる」などという「あたりさわり」のない「帰庁報告」を提出しただけで「終わり」になることが多く、「視察」が組織運営に生かされることはめったにありません。
では、何のために「公務員」や「団体職員」は他府県に「先進地視察」に行くのでしょうか?
実は「物見遊山」という裏の目的があるからです!!
私は「視察団」を車で宿まで送ってあげたことが何度かあります。その送り先のほとんどが県内でも一流の「旅館」や「ホテル」で、中には、夜の「宴会」の期待から車中で既に盛り上がっているグループもありました。
翌日の予定を聞くと「京都に行く」という答えがほとんどです。たしかに「京都」は文化財保護では「先進地」かもしれません。しかし、日程表に「視察先」として記載された「有名社寺」が何か「先進的」な取り組みをしているようには思えません。
また、ある「視察団員」から「安くて喜ばれる京都のお土産を教えてほしい」と聞かれた時は、つい愛想よく教えてしまいました。「そんなことあなたの本来の業務とは関係がないでしょう。教えません」と断った方がやっぱりよかったのでしょうか?
近江の早春譜 日野駅
「春や名のみの風の寒さや・・・」の歌詞とおりの寒い日で、古い駅舎を覆う空も冬のたたずまいです。
早春伊豆紀行(番外編)
今回、伊豆半島の移動には伊豆急行を利用しましたが、そこに乗り入れているJR東日本の「特急踊り子」(185系電車)を久しぶりに見かけ「まだ走っていたのか」と吃驚しました。
「185系電車」は「国鉄時代」の1981年に「急行」「普通」両方に運用する目的で、関東方面に導入された電車で、車両の形状は前年に関西方面に導入され、その後、中部地方にも配備された「117系通勤電車」とよく似ています。
「同系電車」は導入時から、「117系通勤電車」と類似した外形や内装が「安っぽい」「優等列車の風格がない」などと言われ評判がよくありませんでした。しかし、当時は全国的に「急行」の廃止が進んだ時代で、「185系電車」も導入からしばらくは東京⇔伊豆半島間の「急行」として運用されていましたが、すぐに「特急踊り子」用に格上げされました。もともと「急行用車両」なので「特急」の風格は全くなく、現在では、内外ともにくたびれてきて、特急料金不要の「伊豆急行のリゾート電車」よりも見劣りがするようになりました。
なお、兄貴分の「117系通勤電車」は、車両更新ペースの速い「JR東海」ではとっくに全廃されました。しかし、物持ちのいい「JR西日本」では「2扉から3扉」「クロスシートから一部ロングシート」へと原型が想像できなくなるほど改造された上、悪趣味な「緑一色」に塗り替えられ、湖西線や草津線で悲しい晩年を送っています。
「185系電車」は長すぎる運用の結果、国鉄用語でいう「陳腐化」してしまっているので、最期の日は遠くないでしょう。風格も威厳もない安っぽい車両ですが、最期の「185系踊り子」が東京駅を発つ時は「国鉄時代」からの車両の終焉ということで、「葬式鉄」(引退列車を見に来て写真を撮ったり、大声で別れの挨拶をする鉄子・鉄男のこと)が沢山やって来ると思います。たぶん。
早春伊豆紀行(その2)
伊豆高原駅に着きましたが、ホテルのチェックインまでは、しばらく時間があるので、駅近くに小さな美術館に入りました。展示品にはあまり期待していなかったのですが、2階の展示ケースに沢山の「鼻煙香」(びえんこう-中国の嗅ぎ煙草入れ―)が並んでいたのには驚きました。
「鼻煙香」のコレクションは台湾の故宮博物院が有名で、大阪の東洋陶磁美術館にも常設展示室がありますが、ここのコレクションも中々レベルが高く、閉館時間近くまで粘ってじっくり見物し、それから、タクシーで大平台のプチホテル(昔は「ペンション」と言っていたような気がするのですが?)に移動。露天風呂に入り、料理自慢のオーナーが造る夕食を堪能し、早々と就寝しました。
翌朝は「焼きたてパンとデザート付の豪華な朝食」ですっかり満腹になり、タクシー・電車を乗り継いで10時過ぎに伊豆急河津駅に到着。時雨の空、長く続く寒さのせいか河津川沿いの桜はまだ2~3分咲き。しかし、少し離れたところにある「原木」は見頃の8分咲きです。
帰宅後、ネットで調べると「河津桜の原木が発見されたのは1955年、70年代になると増殖が盛んに行われ、河津川沿いの桜並木を整備、1981年に初めてさくら祭が実施された」とあります。今年は2015年ですから河津桜の歴史は60年しかありません。
私が子供の頃、桜シーズンの先駆けは沖縄や奄美の「緋寒桜」でした。それは今でも変わらないのですが、近年それに加えて「本州の桜の先駆け」として「河津桜」の開花が報道されるのが「通例」となりました。
何百年もの伝統があっても広く知られない「風物」もある中で、たった60年で早春の「歳時記」を育て上げた河津町の人々の「着目点の良さ」「宣伝のうまさ」「町民あげての努力」には、感心するばかりです。
桜見物を終えて、電車で稲取に移動。漁師料理の店で「金目鯛の煮付定食」に舌鼓を打ち、近くの公共施設で「雛のつるし飾り」を見ました。「雛」といっても「宝尽くし」の造形が一本の糸で沢山つるされたもので、天井からいっぱいつるされた様子は中々壮観です。この雛飾りは江戸後期以来の伝統をもつものだそうです。
これにて見物は終了。熱海に戻って新幹線で関西に帰ります。事前にきっちりとした予定を立てない、気まぐれ旅行でしたが、行く先々で新たな発見や感動があり、心が豊かになる伊豆紀行でした。(「番外編」に続く)
早春伊豆紀行(その1)
「尾形光琳300年忌特別展で『紅梅白梅図屏風』と『燕子花屏風』のが一緒に出るからMOA美術館に行かない?」
と、家内が言うので、同館のホームページで展示案内を見ると、両屏風以外にも「琴高仙人図」「寒山拾得図」「佐野渡図」等、光琳作の名画が多数展示され、「光琳を現代に生かす」というコーナーには、菱田春草の「落葉」福田平八郎の「漣」村上 隆の「ルイ・ヴィトンのお花畑」会田 誠の「美しい旗(戦争画RETURNS)」「紐育空爆之図」「群娘図97」等々「琳派」に影響を受けた「近・現代作家の作品」も同時に出品されるということに心が動きました。
近・現代作家の中でも、特に会田氏の作品には、非常に興味をひかれていて、「日韓の女子高生」がそれぞれの国旗を持って向かい合う「美しい旗(戦争画RETURNS)」は「日韓首脳会談が行われる会場の壁にぜひかけてほしい作品」だと思っているくらいなので「本物が見られるのなら、出かけるか」と決心し、春節3日目の土曜日に同館を訪ねることにしました。
当日は薄曇りで、早春にしては温かい日でした。熱海駅からバスに乗り美術館に到着すると、切符売場には大勢の人が並んでいて、入場制限が行われています。
「両屏風」は入って最初の展示室の左右の壁に対峙するように展示されていましたが、列に並んで少し待つと近くで鑑賞することができました。「紅梅白梅図」は一度見たことがあるのですが、やはり魅力があります。初見の「燕子花屏風」も堂々たる風格に圧倒されました。また「琴高仙人図」は高校の教科書に掲載されていたので旧友にあったような気がしました。
「落葉」「漣」は感服という以外言葉がありません。会田氏の3作は予想以上に入念に書き込まれていて、迫力がありました。
質量ともに充実した展示に満足し、美術館を出て、眼下に広がる春の海をしばらく眺め、バスで駅に戻り、伊豆急行の普通電車に乗車し、宿泊予定の伊豆高原にむかいました。(続く)
堕涙碑に堕涙す(だるいひにだるいす)
平成22年8月2日から7日まで中国湖北省の史跡を訪ねる旅に行きました。彼の国は「陶磁器研究者や陶芸家と一緒に古窯跡を見学するツアー」では何度も訪れているのですが、件のツアーは、「漢文の研究者」が主催者だったので、「黄鶴楼」や「古琴台」(春秋時代の琴の名演奏家兪伯牙と友人鍾子期の逸話の舞台となった旧跡)、「米芾」(北宋代の有名な書家)・「杜甫」・「孟浩然」(唐代の詩人、李白の友人で「春眠暁を覚えず・・・」の詩が有名)ゆかりの地など、従来とは違い「漢詩文」や「史書」にちなんだ名所・旧跡を巡りました。
さて、このツアーで最も印象に残ったのは襄樊市(旧襄陽)の「堕涙碑」です。晋時代、名将軍で任地の襄陽では仁政を敷いた「羊祜(ようこ)」の遺徳を顕彰するために、襄陽の人々が郊外の峴山(けんざん)に「羊公碑」を建てたのですが、碑に刻まれた銘文を読んだ人は、誰しも羊祜を偲んで涙したことから「堕涙碑」と名付けられました。唐代には「李白」や「孟浩然」の詩にも登場する名跡になり、その名声は遠く平安貴族にも知られるほどになりました。
しかし、この「昔の堕涙碑」は、文化大革命の折、紅衛兵によって破壊され、亡失してしまい、ようやく、近年になって峴山(けんざん)の麓に再建された「現代の堕涙碑」も、鉄道の敷設に際して移転を余儀なくされ、さらに、移転先に工場が建設されたため引き抜かれて、工場脇の瓦礫の上に放置されていたそうです。
今回、我々のツアーがこの碑を尋ねて日本からわざわざ襄樊市に来ることを知った「地元共産党の偉いさん」が、観光の目玉になるかも知れないと思い、急きょ瓦礫の中から拾いあげ、仮に建てたのが、添付した写真です。
過酷な運命に翻弄される「新旧堕涙碑」。その悲惨な境遇を思うと堕涙せずにはいられません!!皆様はどう思われます?
心の中の京都人
まだ私が生まれる以前の昭和20年代終わりごろ、神戸に住んでいた私の祖父のところに京都の一流旅館の主人から「末娘さん(私の叔母)を息子の嫁にほしい」という話が持ち込まれました。
有名な旅館から所望されたわけですから、祖父も乗り気になったのですが、祖母は「京都に嫁にやったらいじめられるから絶対いかん」と強硬に反対したので、祖父も折れて縁談を断わったそうです。
叔母はその後、大阪のサラリーマンと結婚しましたが、祖母はこの話を何度も何度も孫の私に聞かせるので、「京都人は意地悪だ」という意識が頭に刷り込れたまたまま成長し、京都市内の大学に入学しました。祖母の話もあり、京都人に対する時、最初は身構えていたのですが、意地悪をされることもなかったので、話も忘れかけていました。
しかし、卒業後、バイトや嘱託を経て、滋賀県内の団体に採用されると、当時の上司が「京都人との交渉法」を詳しく教えてくれたおかげで、記憶がよみがえって来ました。
上司の話を要約すると、まず、「京都人は腹黒いから、気いつけんとええとこを全部持っていかれる」そうで、そうならないためには、
「交渉をする時は相手の顔をしっかり見て、少しの表情の変化も見逃さず、話を一言も漏らさず聞き、言葉の語尾や抑揚にも気をつけ、体全体の動きも把握し、雰囲気をつかみ、話の流れに少しでも違和感がある時は話を打ち切って帰ってこい!」
「京都人はこっちが積極的で出なければ、絶対話に乗って来んから、必ず右足で一歩踏み込む気持ちでおれ!でも同時に左足にも45%体重を乗せておくんや、相手のペースに巻き込まれ話が不利な方向に行きそうになったら、左足で思いっきり後ろに飛んで逃げろ!」
という姿勢が大事だそうです。
「大学在学中、京都人から意地悪をされた経験が特にない」ことを上司に言いますと、「学生は、京都にとって地元の負担にならず、金を落とすだけの上客やから大切にされるんや。大事にされるのは学生の間だけや、そんなことも知らんのか!」
と切り捨てられてしまいました。
その後、転職した会社では、京都市内の会社に営業に行くこともあったのですが、再度転職してからは京都とのかかわりはなくなりましたが、ツアー旅行などで空港に集合し、初対面同士が自己紹介をする時、相手が京都人と聞くと反射的に身構えてしまい、気がついて苦笑しながら肩の力を抜くこともありました。しかし、最近は、記憶力の低下とともに「京都人に対する条件反射」も薄れてきたようです。