2017年4月

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

行幸啓の話 (その3)

投稿日:

・当 日

 当日朝6時前、まだ外は暗いのに館長に起こされ、寝ぼけ眼で指し示された窓を見ると外に人影があります。恐る恐る通用口から出て人影に近づくと白い割烹着に「日赤奉仕団」の襷をかけた小母さん達20人位が入口前に佇んでいました。挨拶をして話を聞くと「両陛下が車を降りられた時の様子が最もよく見える場所を取るために4時起きでやってきた」とのことでした。

 6時を過ぎた頃からは続々と人が集まり始め、7時には「車寄せ前」の「特等席」はすっかり埋まり、少しでも前に出ようとする人垣を警察官が押し戻しています。8時になると「入り口前広場」を取り囲むように人垣が出来、町道の方にもかなり人が集まってきたようです。

 9時半を過ぎ、町道の西の方で「拍手」と「歓声」が沸き起こるのが聞こえ、それがだんだん館に近づいて来ます。そして、ついに「本物の行幸啓の車列」が視界に入ってきました。しかし、小生はそれを合図に「事前に決められた業務」のため館内の別の場所に移動するために残念ながら「御到着場面」は見られませんでした。

 後ろ髪引かれる気持ちで移動した小生の持ち場は事務所の机を片付けて作られた「臨時の茶汲所」で、両陛下と「随行の方々」への呈茶のために既に数名の職員が「てんてこ舞い」で茶を淹れています。

 私も茶碗を並べたり薬缶を運んだりしていましたが、しばらくして、数人の足音が廊下を通り過ぎ「御休息室」のドアの閉める音がすると、ほどなく侍従の方が両陛下の入室を告げにきました。

 それを受けて事務員2名が、緊張の面持ちで両陛下に御茶をお持ちし、続いて別室の随行の方々にも他の職員が手分けして御茶を運びます。

 それから数分後、また廊下を足音が通り過ぎ、両陛下が展示室に入られたことが確認されると、今度は守衛室で万一の事態(地震・火事など)に備えての待機です。

 三つの展示室を見学しながら移動する「御一行」の動きは各室の監視カメラにより守衛室のモニターに映し出されるので「ガードマン」と「県職員」が「見学時間配分表」と突き合わせて時間チェックをしますが、滞在時間は各室とも1分程度しか誤差がなく「館長、やるやん」と感心しきりです。

 そして、三番目の展示室の監視カメラから人影が消えるとすぐに入り口付近から歓声が聞こえてきて、数分後「出発された」との連絡が守衛室に入ったので、入口に行くと町道を走去る車列の最後尾が見えました。

 町道の規制も解かれ、「車寄せ前」や「沿道」の人も帰りはじめたので「御休憩室」に行ってみるとスタッフが交代で「臨時の玉座」に座り記念写真を撮っていましたが、まもなく片付けが始まります。

 借りてきた「応接セット」を県内各施設に運搬するためのトラックが通用口に横付けされその脇を機動隊のバスや関係車両が続々と帰ってゆきました。

 夕方近くになって片付けが概ね終了したので、スタッフ全員が「入口ロビー」に集められ、館長から労いの言葉を受けました。県庁や役場から来ていた応援組が帰庁してしまうと、がらんとした館内は「祭りの後」のようなさみしさに包まれ、無人の「入口前広場」を吹き抜ける秋風も冷たさを増したようです。

行幸啓の話 (その2)

投稿日:

・準 備2

 天皇・皇后両陛下や県知事の代役、宮内庁、警察、役所の関係者が御料車、警備車、県の公用車を伴って参加するリハーサルも行われました。

 当日の開始時間、館内から外を眺めていると長い車列が町道に現れ、構内に入り「車寄せ」に到着、両陛下と随行員が下車し、安土町長、安土町議会議長の御出迎えを受けますが、随行員の中に皇后陛下に付き従う「白いスーツを着た小柄な女性SP」がいるのが目に留まりました。

 県庁から応援に来たある職員は「あのSPのハンドバックには拳銃が入っていて、テロリストが襲ってきたらぱっと取出して射殺するんや」言っていましたが、後で調べると行幸啓の警備をするのは「皇宮警察」の「皇宮護衛官」で警視庁や道府県警所属のSPではありません。ハンドバック内に拳銃が入っていたかどうかも不明です。

 両陛下が御休息される部屋は殺風景なので「壁に絵をかけよう」ということで課長の知合いの「県展入選実績のある素人画家」のところに自信作を借りに行き、行幸啓前日には県内の諸施設から借りてきたソファやテーブル、「松の盆栽」と共にセットし、カーテンも厚手の物に取替え、夕方遅くになり漸く受入準備が整いました。

 当時、小生は独身の気楽な身の上だったので前泊に志願し、同じく前泊する館長や県庁からの応援職員達と夕食の弁当を食べていると、行幸啓全体の警備責任者が現れ「回り合わせでこんな役つけられてしもたわしほど運の悪い男はありまへん。もし明日、車列の上をちっこい石が一個ポーンと飛びますやろ。被害がのうても私の首もポーンと飛びますんや。明後日、車列が逢坂山(滋賀県と京都府の境)を越えるまで生きた心地がしませんわ」と愚痴を言うので、館長は「もう少しの辛抱や」と慰めています。

 機動隊は観音寺山中腹にテントを張って野営、サーチライトをつけて徹夜の警備を行い、館長は「御先導・展示解説」の練習に余念がないようですが、小生は11時頃にはソファをベッド代わりに就寝しました。

行幸啓の話 (その1)

投稿日:

・端 緒

 平成4年11月、旧蒲生郡安土町に「滋賀県立安土城考古博物館」がオープンしましたが、「運営」は「滋賀県教育委員会の外郭団体」が受託していて、「外郭団体」職員だった小生も同年度当該館に異動し、生まれて初めての博物館業務に取り組んでいました。

 開館記念行事も一段落つき、運営もペースに乗ってきた平成6年正月4日の「年頭式」で館長が「秋に行幸啓があるので、館員一同しっかり準備して、万事遺漏のないように」と興奮と喜びにあふれた顔で訓示したのです。

 小生は「天皇・皇后両陛下」がお出かけになることを「行幸」と言うと思っていましたが「行幸」とは「天皇」が御所を離れる時だけに使い「皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫」のお出かけは「行啓」という言葉をあてるため、天皇・皇后両陛下御揃いでのお出かけは、「行幸啓」という合成語を用いることをこの時初めて知った次第です。

 残念なことに件の館長は同年3月の人事異動で福祉施設に転出することが決まり「天皇・皇后両陛下に館内を御案内する栄誉」は儚く消えてしまいました。替わって着任した新館長は万事冷静な人で、行幸に向けての関連部局との打ち合わせや実地検証等の業務を自然体で淡々とこなしていました。

・準 備1

 秋になり「行幸啓日程」の公式発表が行われ、県内視察は10月26日から28日までの3日間で、博物館視察は2日目の27日午前中があてられることが周知されました。

 博物館の構内や沿道の清掃が盛んに行われ「行幸啓前日・当日」の「館長から平職員まで全員の業務分担」や「人員配置」も決定、主管課の県教育委員会文化財保護課や安土町役場の職員も参加する打ち合わせが何度も行われ、両陛下を御先導・展示解説を担当する館長も閑散時間を見計らって練習に励んでいます。

 「行幸啓」の1週間前になるといよいよ準備も本格化してきました。職員が退館する時には必ず守衛室のガードマンに声をかけ、その後職員駐車場の出入口に設置した「赤外線センサー」を職員が運転する「車や自転車」が横切る時、センサーが反応し、守衛室に設置した「ブザー」が鳴ることで、「職員が確実に構外へ出たこと」をチェックできるシステムが導入されました。

 主要道から分岐して水田の中を博物館の正門まで伸びてくる町道の両側には花が植えられたプランターが数メートルおきに置かれました。これは沿道の人垣が車道にはみ出さないための境界線代わりになるものです。

 県警の機動隊は博物館のすぐ近くにそびえる観音寺山と安土山の山狩りを始めました。3日前になると、全国各地から窓に鉄網のついたバスが何台も駐車場に到着し、降り立った各地の機動隊員も山狩りに加わりました。

 鑑識の腕章を巻いた警察官も数名やってきました。その中にひときわ背の低い女性が混じっていて、ベテラン課員は「彼女は滋賀県警で一番背の低い婦人警官ですわ。でもぴったりの仕事があるんです」と言い、マンホール内部のチェックを命令しました。

 構内は電柱がなく水道、下水管に加えて電線、電話線も地中下されていて、大小様々な点検・修理用のマンホールがあります。彼女はかなり小さなマンホールでも蓋を開け潜り込んで行き、しばらくして「ほこり」や「クモの巣まみれ」になって出てくると「最奥部まで行きましたが異常ありません」と報告、確認済のものは「蓋を少しでも動かすと色が変わる特殊なテープ」で封印します。

 20個以上のマンホールに出たり入ったりする姿はモグラのようでしたが、翌日は警察犬を連れて構内を回っていたので警察犬の係もやっているようです。