2015年12月

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

(今でも)幻の都「大津宮」?

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 天智天皇の近江大津宮(667年~672年)は5年間だけ存在した都です。その推定地は、京阪石坂線「近江神宮駅」の西側付近とされ、今では住宅地の中に整備された狭い調査地点が点在しています。

 昭和50年代、私は大津宮推定地の発掘調査の手伝いをしたことがありますが、当時の「現場担当者」の悩みは、推定地内の遺構(柱穴や溝)から大津宮時代(7世紀後半)の土器が出土しないことでした。

 実は、近江神宮駅から南へ250mほど離れた「北大津遺跡」では、昭和47年から49年にかけての発掘調査で、調査区内の「溝跡」から7世紀後半(大津宮時代)の土器が堆積した層が見つかり、「漢字万葉仮名による読みセットで記された」日本最古の国語辞典ともでもいうべき「音義木簡」も一緒に出土しました。

 「この溝の上流には大津宮跡があり、遺物も大津宮から流れてきたものである。このことから大津宮の存在は確認された」と喜びの声を上げる研究者も現れましたが、この「溝跡」の発掘調査には大きな問題がありました。まず自治体などによる正式な発掘調査報告書が刊行されていません。また、「音義木簡」については「遺物出土状況写真」「遺物出土状況図」「遺物出土土層断面図」がなく、「どこから?」「どのように?」出土したのか分かりません。

 さらに、昭和61年になって地元の研究者が上記の「溝跡出土土器」を詳細に検討したところ、7世紀中頃(大津宮時代)の土器の中に、8世紀初め(奈良時代)の須恵器が混じっていることを確認しました。

 考古学では、「まとまって出土した遺物の堆積年代」は「最も新しい時期の遺物」に合わせますので、「溝跡」土器が堆積した時期は奈良時代となり、一緒に出土した「音義木簡」の年代も奈良時代の可能性が出てきました。

 ところで、「音義木簡」は「考古学研究者」だけではなく、「国語学研究者」の間でも大変有名です。しかし、残念ながらほとんどの「国語学研究者」は北大津遺跡出土遺物の「昭和61年報告」を知らず、「発見時(昭和47-49年)の情報」が唯一の知見なので、いまだに「音義木簡」の年代は「大津宮時代」(7世紀後半)であると信じこんでいることは、大変残念なことです。

 さて、その後「大津宮推定地点」の遺構から大津宮時代の土器は出土したでしょうか? 実はまだ出土していません。物的証拠がない以上、大津宮はいまだ「幻の都」言わざるを得ないでしょう。

 大津宮推定地点では意外なことに平安時代の土器や瓦がよく出土します。私は大津宮の建物群といわれているのは、かつては今の境内の何倍もの広さがあった三井寺の関連寺院跡ではないかと思っていますが、いかがでしょうか?