日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
灘黒岩水仙郷を訪ねて
平成の初め頃「神戸新聞」に「厳寒の2月、風雪の浜坂港で松葉ガニの水揚げを見とどけてから車に飛び乗り南下を開始、夕方明石につき一泊、一番のフェリーで淡路に渡りさらに南下、昼前ようやく黒岩水仙郷に到着すると、陽光を一杯に浴びた南向きの斜面には香しい水仙が絨毯のように咲き誇り、蝶が舞い南国のような暖かさ、兵庫県はなんと広く、気候の差が大きいか実感する」というルポ記事が載りました。
当時、浜坂から明石に行くには、県道で湯村温泉を経由し、国道9号線の春来トンネルを抜け、村岡、関宮、八鹿、和田山を通って生野町でようやく「播但連絡道路」に入り「福崎インター」から「中国道」に移っても「滝野・社インター」ですぐに一般道に降り、渋滞の多い175号線を進むしか道はなく、明石到着後、夜のフェリーで、淡路に着いても、水仙郷のゲートが開くのは朝9時なので、明石か神戸で一泊し、翌朝淡路に渡ったのでしょう。
この記事はずっと頭の片隅に残っていたのですが、今冬ようやく「冬のうんと寒い日に水仙郷で地上の楽園を体験する」機会が訪れました。
1月末、寒い日曜日の朝、三宮から福良行きの高速バスに乗車し、かつては航路しかなかった明石海峡を一跨ぎ「西淡三原インター」で一般道に降りて、南あわじ市に入ると玉葱畑の中に「レディ薬局」や「スーパー・マルナカ」などがあり四国の近さを感じます。
昼前に到着した「福良バスターミナル」は福良港と道を一つ隔てた「旧淡路交通鉄道線福良駅」の跡地を利用していました。
小生は50年以上前、家族と渦潮見物に行った帰り、同駅に立ち寄ったことがあり、当時「淡路鉄道」は健在で「福良駅」も機能していたのですが、残念ながら駅前のバス停からバスに乗車し洲本に向かうことに・・。
その数か月後、同鉄道は廃止されたので、もし乗車していれば、鉄子や鉄男達に自慢話ができたのですが・・・。
さて、当日は神戸ほどではありませんが、南国淡路とは思えない寒さで、空には灰色のちぎれ雲が北風に乗って流れ、港内も波立っていて魚影はありません。
寒空の下、港のバス乗場で1時間ほど待っているとようやく「黒岩水仙郷」行のマイクロバスが到着、休日ということもあり、補助椅子を出すほどの満員になり出発。国道28号線を一旦洲本方面に戻り、八幡の交差点を右折、淳仁天皇陵を過ぎ、論鶴羽山脈を越える急坂に差し掛かりました。
窓の外の木々の枝が大きく揺れているのを見ると北風は港より強そうです。
ところが峠を越えた途端、風は嘘のように収まりました。海は縮緬皺に凪いで、雲の切れ目からは光が注いでいます。
北風を見事にシャットアウトした同山脈の防風壁ぶりに驚いている間にバスは峠道を下り切って左折、海沿いの県道をしばらく進むと「おのころ島」のモデルといわれる沼島が見えてきました。
連絡船が出る「土生港」を過ぎると、小さな魚港があり、3~40m沖合に大きな桶が四つ並んで浮いています。
やがて右端の桶のそばに海女さんが浮かんできましたが、獲物はなかったらしく息継ぎだけしてすぐ潜ってゆきました。
防波堤に海鵜が20羽くらい等間隔で並んで桶の方を見ているのは、おこぼれを狙っているのかもしれません。
小さな岬を回ると、また沖合に四つの桶が・・。南淡路の海女さんは4人でチームを組んでいるのでしょうか?近くの防波堤には同じように海鵜が並んでいます。
冬の太平洋とは思えない春の瀬戸内のような光景に見とれていると「黒岩水仙郷」の「水仙畑」が見えてきました。
神戸新聞の記事には「畑は南向きの斜面にある」記されていましたが、目の前にある「畑」の立地場所は「斜面」というより「崖」です。
程なくマイクロバスは「水仙郷」に到着し、入口ゲート東側の「バス専用駐車場」に停車。一番先に下車し、ゲート脇の案内図で、バスから見えた「海に面した崖」は見学コースの最後になることを確認してから、ゲートを抜け、小さな谷間に造られた道を順路に従って進んで行くと「一般車両用の駐車場」がありました。
その西側にある水仙が一面に咲く「谷に面した崖」の「九十九折れの山道」をたくさんの観光客と一緒に登るのですが、辺りには「濃く」「きつく」「神経が麻痺するのではないか」という「恐怖感を抱かせる」ような「水仙の危険な香り」が漂っています。
香りに酩酊しそうになりながら崖の山道を登りきると展望台があり、谷底を見下ろすとマッチ箱のように小さい車が駐車場に並んでいました。
帰り道がある「海側の崖」の向こうに見える沼島は雲の切れ目から射す光に輝やいていて、神の島にふさわしい神々しさにあふれています。
展望台では風景写真を沢山撮り、ベンチで十分寛いでから「海側の崖の山道」を足元に気を付け、手すりを伝って慎重に降り、水仙の香りに見送られて、下界にたどり着くと、簡素の建物の二階に食堂があってので、入店し、少ないメニューの中から「にゅう麺」と「蛸のから揚げ」を注文し、海を眺めながら食事、一階の土産屋で「日本水仙の鉢植え」を買うと、帰りのバスの時間まであと僅か!
駐車場に急ぎバスは乗り込むとすぐに出発。海は相変わらず凪いでいますが、海女さんたちはお昼ごはんに帰ったようで、桶はなく、海鵜達も消えていました。
そんな海を眺めているうちにぐっすり眠ってしまったようで「間もなく福良港です」のアナウンスで目覚め、慌てて荷物を網棚から降ろす間もなく、バス乗場に到着し、ドアが開いた途端、冷たい風が車内に吹き込んできました。
下車して空を見上げると灰色の冬空を雲が北風に乗って流れています。
水仙郷で過ごしたひと時は、水仙の香りに酩酊して見た「春の夢」だったのでしょうか?
いやいや、彼の地で買った「鉢植え」があります。「地上の楽園」は間違いなく存在していました。諭鶴羽山脈の彼方、神の島の近く、冬を知らない里に。
ブレグジットを回避する方法について?
小生は輝かしい歴史を誇る「大英帝国」が凋落することを残念に思い、試行錯誤の結果、ついに「確実にブレグジットを回避できる方法」を見出しましたのでここに御披露いたします。
皆さん覚悟してお聞きください!
いいですか!
それでは申し上げます!
それは「アイルランド共和国の植民地になること」です!!
荒唐無稽な話と思われるでしょうが、冷静に考えると「利点」が多くあります。
先日テレビで「EU離脱したとたんに顕在化するイギリスとアイルランドの国境問題に関連し、国境ラインを挟んで双方に事務所を造った運送会社の話」が放映されていましたが、もうそんな心配はいりません。
また「EU加盟国アイルランド」の「領土」になるのですから「ブレグジットなんぞ」は雲散霧消してしまいます。
ところで、イギリスのアイルランド侵攻は12世紀にはじまり、その後度重なる侵略により19世紀には完全に領土化。
当然、アイルランド側も抵抗を続け1922年には独立をはたしますが、宗教の違いにより「北アイルランド6州」はイギリス側に帰属し、これが「国境問題」の遠因となりました。
上記のごとくアイルランドは一方的な侵略と長年に渡る支配により多大な損害を受けたわけですからイギリスが「形だけの植民地にしてくれ」と言ったところで納得しないでしょう。
① 有史以来現在に至るまで侵略損害の「賠償金」をアイルランド政府に納め。
② 国内においてアイルランド人がすべての分野で自国民より優位に立つことを認め。
③ 「アイルランド政府によるGHQのような機関」を「三権」の上に置き統治してもらう。
ぐらいの条件は「植民地」として当然示すべきです。
過酷すぎると思われるかもしれませんが、「ホンダ」がイギリス工場の国外移転を発表、トヨタも追随する意向を示しています。
世界中の企業の「拠点」や「工場」もEU側に移ってしまい「ヨーロッパの最貧国」に転落してしまってからでは取り返しがつきません。
かつてアジアの各地に多くの領土を持ち圧政を敷いていた「神国」も敗戦によりすべてを失い、ゼロから出発し、ようやく現在の地位を手に入れました。
EU諸国が「苦難に耐えてよく頑張った。イギリスを独立国としてまた仲間に入れてやろう」という「許しの日」が来るまで、被占領国の人民として、「耐えがたきを耐え」「忍び難きを忍んで」頑張りぬいてみてはいかがでしょうか。
一期一会 (その2) 就活
20代の頃は自治体や団体の技術職採用試験ばかり受けていたため、いわゆる「就活」の経験はなく、定年後の60代になって初めて体験することになります。
当時の「就活」を振り返ると・・。
①退職した翌月、手元に届いた離職票をもってハローワークに行き「雇用保険説明会」を受け。
②その後は、度々同所を訪れ、所内のパソコンで各社の「募集要項」を検索し、適当なものがあるとプリントして窓口へ提出。
③「相談員」に電話連絡してもらい「会社の担当者」と「小生」の三者で話し合い「面接日」「提出書類」が決まると「相談員」が「推薦状」を書いてくれます。
④指定日になると、それらをもって指定された場所で面接を受けます。
⑤ハローワークとは別に家でインターネットの「民間就職紹介サイト」にもアクセスして適当な会社を決め、書類をメールで送り、連絡があると「面接日」「提出物」などを持って指定された場所に行く。
と、いうようなことを何度も何度も行うのですが、採用は中々決まらず「就活」は長期化します。
さて、志望会社に行き、面接前に施設内を見学していると結構そこの組織の「性格」や「現状」が分かるもので・・。
「入所費用」が数千万円で「管理費」も高額な「高級老人ホーム」の従業員が上司の悪口をぶつぶつ言いながら歩いていたり、厨房で食器が割れる音がしてもその後の言葉のフォローがないなど、何やら空虚な空気が流れている施設があるかと思えば・・・。
老朽化した工場をリフォームし「食堂兼談話室」の周囲をコンパネで仕切って壁紙を張り居室にしたいかにも「費用負担の安そうなグループホーム」なのに施設長や職員が飛び切りの笑顔で迎えてくれ、入所者も「楽し気」に過ごしている施設もあります。
ところで、小生は「口髭」を生やしていますが、それが原因で面接担当者に「露骨に嫌な顔をされたり」「顔を引きつらせた」ことを何度も経験しましたし、「順番を最後に回され、平社員に面接させる」という、あからさまにひどい扱い受けたことも。
日本社会において「髭」の許容は進んでおらず、特にサービス業では「髭は偉そうに見える」という理由で「就活」時も「履歴書提出段階」で落とされることが多く「LGBTや刺青に対する偏見と同様ではないか?」と思ったこともありました。
なお、面接担当者が「懇切丁寧に施設内を案内し」「経歴を大いにほめ」「当社に必要な人材だ」とまで言い切る会社に限って「残念ですが」という返事が来ることが意外に多いのです。
もしかしたらそれら会社は、面接にも「顧客満足」の方法を取り入れているのかもしれません。
現在は厳しい「就活戦線」を生き延び、「拾う神」に巡り合ったおかげで、糊口を凌いでいますが「面接当日のこと」については「不採用」の時の方が、よく覚えているのはそれが「一期一会」だったからでしょう。
余談ですが面接先で「民間就職紹介サイトの調査員」がサイトを利用して就職した人材の「適応」や「仕事ぶり」を「人事担当者」に「聞取り」をしているところに何度も見かけましたし、就職後、仕事で行ったある医院でも「看護師紹介会社」の「調査員」が同様の「聞取り」に来ていました。
残念ながらハローワークの職員が施設の「聞取り」に来ているところを見た記憶はありません。
就活後のアフターフォローについては、民間企業の方が進んでいることは間違いないでしょう。
一期一会 (その1) お見合い
来し方を振り返ってみると、20代においては度々採用試験を受けるも落選が続き、バイト暮らしを抜けられなかったせいで、結婚を考える余裕など全くありませんでした。
29歳でようやく正式採用され、固定給を貰うようになると、結婚は二の次で仕事・趣味(釣り、テニス、スキーなど)などに没頭していましたが「上司」や「職場の女性パート職員」から「見合い」の話をぼつぼつ持ち掛けられるようになります。
そして30代も終わり頃、友人の熱心な説得に根負けして「見合い会社」に登録すると「パーティー」や「紹介」が次々押し寄せてきて、出会いの回数は一年で30回を軽く超えてゆきました。
ところで小生の体験した「見合い」では、初顔合が済むとデートに移り、それが終了すると当事者は「今後も交際を続けるか?否か?」を「紹介者」や「見合い会社」に報告する必要があります。
その「優先決定権」は女性側にあり、男性がいくら相手を気に入っていても女性が「今後の交際はなし」と決断するとそれを覆すことはできません。
小生の場合、経験した見合いのほとんどが上記のことで「一期一会」に終わり、相手のこともすぐに忘れてしまいましたが、中には人間的魅力にあふれ、男女の関係を離れてもう一度会いたいという人もいましたので、以下で紹介します。
その1 ヘビースモーカー
彼女は1時間のデートタイム中にハイライト一箱吸ってしまう大変なヘビースモーカーでした。
以前述べたように小生は小児喘息で、大人になってからも気管支が弱く、デート中は煙に咽て苦しかったので、
「たばこはやめられませんか?」
と聞いたところ
「絶対無理です」
との明確な答え・・。
その返答を聞いて顔をしかめたのが原因なのでしょうか、数日後会社を通じて断りの電話が入りました。
「なぜタバコがやめられないのか?」「ハイライトが好きな理由」など聞きたいことがあったので、顔をしかめたことを今でも後悔しています。
その2 「はい」と「いいえ」しか言わない人
世間話をしても、顔を伏せるだけで言葉はなく「肯定」「否定」を求める質問だけに「はい」「いいえ」で答えます。
最初は「どないもなりまへん」と思っていたのですが、しかたなく質問を続けるうちに発声としては「はい」「いいえ」だけなのですが、同時に行われるリアクションは頷いたり、首を傾げたり、顔を上げたり、手を組んだり、拍手したりかなり多様であることに気づきました。
それからは「この質問にはどんな反応を見せるか」を予想しながら質問するようになり、相手も質問に慣れて、予想通りの反応をしてくれることもあり、楽しい時間を過ごすことが出来たのに「一回きり」で終了。
その3 食べるのが早い人
その時のデートでは大奮発して、高級フランス料理店でコース料理を頼んだのですが、相手は料理が出ると無言であっという間に食べてしまい、次の料理が出るまでじっと待っています。
そのうち間が持てなくなり
「会話しながら食事しませんか」
と提案すると、
「食事の時は集中しないと味が分からない、話は食べ終わってから」
という返事・・。
次の料理を待っている間は食べ終わった料理の味や盛り付けについて思い出しながら分析しているらしく無言で目まで閉じています。
結局「出てきた料理を無言で食べて次をじっと待つ」の繰り返しで、デザートにたどり着いてしまいましたが、帰り道では分析結果がまとまったようで、料理の味や盛付についてかなり詳しく感想を聞かせてくれました。
その折り「しゃべりながら食事していて舌を噛みそれがトラウマになった」ようなことを少し仄めかしていたので、料理の分析と合わせてその辺についても、詳しく聞きたかったのですが、残念ながら・・。
見合い会社の登録期間も過ぎて、女性とのかかわりも少なくなって、寂しい独身生活を40代後半のまで続けましたが、この3人については「見合い以外の機会で会っていれば、長い付き合いもできたかもしれないのに・・」と今でも残念な気持ちを持ち続けています
私は教員が嫌いです
(前言)
年末ということで「パソコン本体」「外付けハード」「USB」にたまったデータの断捨離を行っていたところ「教員に対する恨みつらみ」を記した「10年以上前の小文」が出てきました。
当時勤めていた「遺跡発掘会社」を退職してからは「出向教員」に会う機会もなくなり、現在付き合いのある「教員」は「教員らしからぬ人?」ばかりなので、教員嫌いも随分解消されてきたようです?
しかし自分史に何度か現れる「暗黒時代」に教員が深くかかわっていたことを記憶に留めることは大事なことなので「小文」を掲載することにしました。
(本文)
私は教員が嫌いです。理由は簡単です。偉そうにしているからです。
小学校のころは「教員は偉いものだ」と思っていたので気にもかけなかったのですが、中学になると「自分の豊かな知識をお前たちに分け与えてやるんだ」という横柄な態度を取ったり、体罰を振う教員が大嫌に。
また、議員や弁護士、医者と同様お互いを「先生」と呼び合うのも、特権意識を誇示しているようで気に入りませんでした。
「学園祭の出し物」や「運動会の応援方法」を決めるクラスミーティングで生徒の意見がまとまらない時、
「意見はまとまらなくてもいいから、ともかく一生懸命やれ」
と、無責任な発言をする教師も嫌いで「意見がまとまらなければ、まとまるまで論議すればよいし、それでもまとまらなければやらなきゃいいのに」と思っていましたが、小心者だったため言い出せず仕舞い。
しかし、中高時代を振返ってただ一人だけ尊敬できる教員がいました。
中学2年時の若い英語教師で、1学期の中間テストの答案を返す時、
「このクラスの英語の平均点が他のクラスより悪かったのは僕の指導不足です。申し訳ありません。次回のテストは点数が上がるように努力します」
と、生徒に頭を下げたのです。
テストの成績が悪かったことを叱ったり、馬鹿にする教員は山ほどいましたが「自分に責任がある」と謝った教員は唯一無二で、私同様教員嫌いの父にこのことを話すと「近ごろ珍しい教員だ」と感心していました。
その後、この先生とは一緒にスケートに行く程仲良しになったのです。
成人して「遺跡発掘会社」に就職すると「県立埋蔵文化財センター」に出向してきた「高校教師」の指揮監督の下で助手として遺跡発掘作業を手伝うことが何度かありましたが「出向教員」の多くが発掘会社の社員を虫けらのように扱うことには驚きました。
社員に少しでも落度があると(落度の原因のほとんどが教員側にあり、責任転嫁もしょっちゅうでした)激昂し、常識では考えられないほどの罵詈雑言を吐き散らします。
この「悪鬼」のような姿を彼の子供がこの見たら、間違いなく絶縁したいと思うでしょう。
しかし、その「悪鬼」も「大学教授」や「県教委のえらいさん」が発掘現場にやって来ると別人のように卑屈な態度をとるのは情けないことです。
余談ですが、この教員の「怒りをなだめるため」に急遽駆けつけて来る会社の営業マンの姿もまた驚くべきもので、事務所に入ってくるなり、頭を床にすりつけんばかりにして謝り、揉み手をして、教員が気分を直すまでひたすら御世辞を言い続けるのです。
営業マンなら当たり前のことかもしれませんが、この様子も彼の子供に見せてやりたいと思いました。
上記の体験を経て忍耐力は向上しましたが、トラウマにもなったようで、今でも時々、当時の状況で「出向職員」が登場する悪夢を見ます。
今年最後の釣行
11月中旬の寒い日「ポートアイランド防波堤」に釣行しました。
前回、同所で「サビキ釣り」をした折、針には乗らないのですが、餌を軽く引く「ハゲ」らしき魚信があったことが頭に残り、何年かぶりに「ハゲ釣用のカカリ竿」と「仕掛け」を用意し、石ゴカイを買って出発。
幸い「ハゲ釣り」最良のポイントである防波堤の先端部に釣り人がおらず、すんなり着座。
付近には「ハゲ」用のエサである「ゆでた小貝」が散乱していることから「ハゲ狙い」の釣師が来たことは間違いありません。
早速、仕掛けを下すとすぐ魚信があり中位の「丸ハゲ」が釣れましたが、その後は魚信はあれど中々針に乗りません。
6.4mの長竿で水面下1~2mの岩陰に潜む「ベラ」を狙う時には、魚信に対して竿を少し上げるだけで「梃子の原理」により竿先が大きく動き針に強い引きが伝わるので、魚の口にしっかり針を掛けることができます。
しかし、1mに満たない「カカリ竿」で針に強い引きを与えるためには、竿を頭の上まで振り上げなければならず、その大きな動きにより仕掛けがぶれて、魚がくわえた餌の飛び出しが頻発。
また「ハゲ」は水面下5~6mのところにいるため、魚信から合わせまでにどうしても時間的ロスが生じてしまい、合わせのタイミングを取るのが難しくなります。
そんなわけで空振りも多く、3時間で「丸ハゲ」4尾、「ガシラ」1尾と釣果としてはもう一つでしたが「冬も近づき、これから魚影は薄くなることだし」「区切りもいいので」今年の釣りは打ち止めということで、納竿して帰宅、道具すべて洗浄、よく乾かして収納しました。
ところで坊主なしの記録はついに10年を越え、精神的な負担は増える一方です。
方言に囲まれた暮らし
昭和60年、神戸から勤め先に近い滋賀県守山市に転居してから同県には30年、愛媛県今治市には7年間居住し、その間鹿児島市、新津市、廿日市市、清洲町などに長期出張したことも・・・。
その転居地や出張先で、地元関係者と初めて会った時「あなたは関西弁風の言葉をしゃべるが、自分の知っている関西弁と何かが違う、生まれはどこだ」という意味のことをよく聞かれました。
関西以外に居住している人はテレビに登場する大阪出身のタレントやお笑い芸人の影響からか「関西弁」=「大阪弁」と認識している人が多く、小生が異郷で話す「滋賀県南部方言の影響を少し受けた神戸弁に(聞き手が理解しやすいように)標準語を交えた言葉」は違和感を与えるようです。
そんなわけで初対面時には自分の「出身地と言葉」についてしかたなく話すのですが、結構面倒なことでした。
さらに異郷で仕事する折は、
「その地の方言を聞いて」→「自身の方言に翻訳し」→「滋賀県南部の方言の影響を少し受けた神戸弁に標準語を交えた言葉で答える」
という複雑な「言葉の認識・表現」をしなくてはなりません。
それでも数か月たち当該地の方言に慣れ「一定のパターン」をおぼえたころには、仕事が終わり帰還。別の出張先に出るとまた一からやり直しです。
2年前、定年退職を機に30年ぶりに帰郷し地元の福祉施設にパートに出ると、当然多くの職員が神戸弁をしゃべっているので、コミュニケーションにおける上記の「複雑な手順」は必要なくなりました。
「短い文章」や時には「単語」を話すだけで「意向」どころか「裏の意味」まで通じてしまい、慌てることがあります。
神戸で就職し、同じ方言に囲まれた生活を定年まで続けていたら「コミュニケーションに係るストレス」もなく頭痛や肩こりが随分減ったでしょう。
いまさらどうしようもないことですが。
鯵も大きくなりました
塩屋のベラ釣
納曽利
昨年10月、東灘区の「うはらホール」で「熱田神宮 巡回講演」が実施されることが新聞に掲載されたので、早速応募すると入場券が当たりました。
当日、開演時間(18:30)の少し前に会場に着くと、500席以上ある会場は、ほぼ満員の盛況で、名古屋弁の案内係が、入場者をさばくのに大わらわの様子。
定刻になると司会者が登場し、講演責任者の挨拶の後、いよいよ始まりです。
最初のプログラムは雅楽「越天楽」ですが、司会者によると、
「熱田神宮では、巫女も雅楽や舞楽の練習を行い、今回も楽人として演奏する」
ということで、女性楽人も交えた少人数の楽人により演奏されました。
次は「巫女さん」数名が本来の装束で登場し、楽に合わせて「三種の神器 草薙剣」をテーマにした神楽「みつるぎ」が優雅に舞われます。
三番目は公演のメイン「杉山 直氏によるヤマトタケルノミコトの神話朗読」。
スクリーンに映されるさまざまな映像と共に感情豊かに語られる「日本武尊の一代記」を聞き、忘れかけていた古事記の関係記述を思い出しました。
公演の最後を飾る舞楽「納曽利」の上演前、司会者から、
「本日は巫女が稚児舞によって行うので、面は付けず、花飾りを付けた天冠をかぶります」
という説明があったので「簡略パターンか」とやや失望しましたが、小柄でかわいらしい二人の女性が演じる舞は「軽やか」そのもので実に魅力的です。
小生は (小野摂龍楽頭が鞨鼓を掻いていたので、昭和の終わりか平成の初め頃)「雅亮会」の公演でこの舞を鑑賞したことがありますが、その時は、男の舞人が牙の付いた恐ろしげな面を付け、重々しく勇壮に舞っていました。
しかし「納曽利」は「瑞兆とされる龍が、天空で楽しげに舞う様子」をあらわす舞ですから、当然浮遊感があっていいはずで、今回の女性の舞人が演じる「ふわふわと飛んでいるような舞」もまたその本質を示しているのではないでしょうか。
舞楽の奥深さを堪能する素晴らしい時を過ごすことが出来、満足して帰宅しました。