咽郷雑記

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

神魂神社(かもすじんじゃ)を訪ねて

投稿日:

 8月初旬、コロナ禍もやや落ち着いてきたので、出雲地方へ2泊3日の名所遊山に出かけました。

 2日目の15:00頃、松江城下町にある田部美術館を見学し終えて当日予定は終了したのですが、ホテルに戻るには時間が早すぎるので「八雲立つ・・・」の歌で有名な「八重垣神社」と室町時代創建の本殿が国宝指定されている「神魂神社」の両社を参拝することを思い立ち、レンタカーで国道を南下。

 30分程で着いた八重垣神社は、あまり特色のない小ぢんまりした神社だったので、参拝後、路傍にある「資生堂の椿の印章」のモデル「夫婦椿」をちらっと見て、神魂神社に向います。

 ところが、地図上では近隣に見えたのに実際は山を一つ迂回しなければならず、その間に日は沈み、出発から1時間近く過ぎ、薄暗くなりかけた頃、周囲の風景とはなじまない、神気が立ち昇ぼる杉林を遠くに発見しました。

 そこからしばらく坂道を登り、ようやく当該神社の駐車場に着きましたが、付近に人影はなく、車を降り杉木立からひぐらしの声が降り注ぐ、暗い参道を進むと、道端にまるで「異界への道標」のような「苔むした手水鉢」があります。

 コロナ禍ということで、口は漱がず手だけを清め、石段を上ると社殿が立ち並ぶ境内に出ましたが、石段正面の国宝本殿・拝殿の古び方が尋常ではありません。

 創建以来風雪・風雨にさらされ続けたのでしょう、屋根の檜皮はボロボロで、柱も欄干も柵も痩せ細り、木肌はささくれ、少しの振動でも倒壊しそうです。

 本殿両脇の末社も本殿同様に古びていて、その一つ稲荷社の石狐は風化がひどく生気がまったくありません。

 参道と社務所の周りには大杉の木立があり、本殿裏の斜面は低木と草に覆われているのですが、境内の地表は苔と草が僅かに見えるだけの粗い砂地なので、社殿群は「砂浜から生えたきのこ」か「大きなケムール人が小さなケムール人を従え佇立している」ようにも見え、不気味さが募ります。

 気を取り直し、御参りするために、拝殿に入ると神前の案には磁器製一升瓶の御神酒一対と米、果物、野菜などの神饌があふれんばかりに供えられ、垂髪で紫の袴を穿いた女性の神官が夕方の御祀りを行っていました。

 「モノクロームな神域の中でここだけに華やかな色彩があるなあ・・」

と、思ったその時、小生は感じたのです・・!!

 神饌の供応を受けた本殿と末社の神々が静かに御霊を震わせているのを・・・!!

 ・・・・。

 神威を受けたためか、それからしばらくの間、体が麻痺したように動きませんでしたが、やがて我に返り、

 「これはもしかして、澱のように動かない夕凪の大気に包まれ、ひぐらしの声だけが響く逢魔が時に現れたあやかしではないか?」

と、思ったのですが・・・・。

 「あやかし」ではなかったのです。

 なぜなら、神官の祝詞を聞いているうちに「余生を明るく過ごす希望」と「死の恐怖を吹き飛ばす安堵感」が、心底から湧き上がってきたからです。

 これこそ神威を感得した何よりの証拠ではないでしょうか。

 創建以来、様々な自然災害・戦乱を乗り越えて、身を細らせながらも生き抜いてきた神魂神社の社殿群は、一見枯れて生気を失った屍のようにも見えます。

 しかし、そこに鎮座する神々は日々の神饌と御祀りを供されることにより、神威が衰えることなく、ずっと社殿を守り続けてきた・・・。

 まさに神魂神社です。

 「参拝したことで己の人生は変わった」ことを確信し、晴れやかな気持ちで御社を後にしました。

やきもち地蔵を訪ねて

投稿日:

 小生は30年近く前「一生に一度だけ願いをかなえてくれる」という御利益がある北区山の街の「やきもち地蔵」を訪ねたことがあります。

 その時は自家用車で布引から新神戸トンネル通り谷上経由で行ったので、国道428号(通称「有馬街道」)の難所小部峠(おぶとうげ)は通りませんでした。

 忘れてしまいましたが、当然何か願掛けしたはずなので、再び参拝しても「二匹目のどじょう」はいませんが「往時の神戸市民と同じ小部峠越えルートでやきもち地蔵に参拝したい」という思いと「小学生の折、祖母と日帰りバスツアーで今田町(現丹波市)の丹波焼窯元を訪ねた際に一度だけ通った有馬街道をもう一度通行したい」という思いを実現するために、

・神戸駅から「有馬街道」を通る「鈴蘭台行き阪急バス」に乗り→最大の難所小部峠の手前で降り→歩いて峠越えし→そのまま焼餅地蔵まで歩を進める。

という計画を立て、実行予定を5月中旬としました。

 当日、曇天の昼前、神戸駅南口からバスに乗車、出発すると、湊川から夢野2丁目を経由し平野で左折、いよいよここからが4kmで300m強を登りきる急勾配の「有馬街道」です。

 バスは本道を少し進むと、分岐する狭い旧道に入りました。

 「こんな隘路ですれ違いは無理だ。対向のバスが来たらどうしよう」と心配したのですが、運転手はたまにある「すれ違い場」を巧みに利用しながら行き違いを行います。

 旧道にはバス停が何箇所かあり、その周辺には数軒の家が崖下にへばりつくようにして建っていました。

 10分程度で、新道に合流し、トンネルを抜けると鈴蘭台地区最南部に位置する「水呑(みずのみ)」バス停に到着しました。

 ここで下車し、有馬街道最高地点である小部峠(おぶとうげ)を徒歩で目指しますが、目的地は1km先で高低差はまだ70mあります。

 沿道に建つ王将やら丸亀製麺やらファミレスを横目に見ながら、蒸し暑い上に無風という悪条件の中30分近く歩いてようやく標高369mの小部峠に到着したので、来し方を振返って写真を撮ろうした時、道端に応永八年(1401)建立の宝篋印塔の由来を記した看板を発見しました。

 疲れも忘れて、急いで近づき、表示された「灌木が覆いかぶさってトンネル状になった細い山道」を身をかがめて20m程進むと、木々に遮られ日がさしこまない狭い平坦地があり、一石五輪塔や石地蔵従えた立派な宝筐院塔が建っています。

 早速、塔の周囲を一周して細部を観察した後、写真を撮り「力を振絞ってようやく峠にたどり着き、安全を祈って下って行く往時の人々の姿」を想像しながらしばらく休憩し、再びトンネル道を抜けて国道に戻りました。

 登りと打って変わって、快調に下って行くと谷底に大きなパチンコ屋が見えてきましたが、近づくと緊急事態宣言のため閉店しています。

 さらに歩を進め、峠から20分程で「焼餅地蔵」と表示された交差点に着きました。

 以前訪れた時には道から地蔵堂が見えたのに高台の団地に向かう「地蔵橋」なる大きな橋ができたせいか、まったく姿が見えません。

 道端にあった行先案内に従い、階段で河原におり、件の橋の下をくぐって川べりに出て、小さな橋を渡ると、少し先の崖下に地蔵堂が見えました。

 参道には赤い幟が立ち並び、景気がよさそうですが、平日ということで受付に人はおらず、やきもち地蔵の由来となった餅も無人販売になっています。

 参道の脇の「絵馬掛」には沢山の絵馬がありましたが「一生一願掛け」に適合するのは「社会的要求」より「個人的要求」が勝るのか、「コロナ終息祈願」の絵馬は僅かでした。

 堂内の地蔵さんは大きな前掛に覆われ姿は見えませんが二体あるようです。

 参拝後、自販機でお茶を買い、隣接する休憩所でしばらく憩い、汗も引いたところで、地図上ではかなり高台にあるため、急坂でもう一汗かかなければたどり着かない「神鉄山の街駅」を目指し、御堂を後にしました。

宝篋印塔

やきもち地蔵

釣行二題

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令和2年6月1日(月)

 今年の初釣行は「平磯うみづり公園」に出向き、入場ゲートに一番近いテトラの漁礁を3時間半攻めたのですが、長潮という悪条件もあって、磯ベラ4尾、ミニガシラ1尾、クサフグ1尾というさみしい釣果に終わりました。初釣行は「坊主寸前の1尾」など貧果になることが多いのでましな方ではないしょうか。

 初めての釣場ということで「ノベ竿」「カカリ竿」「投げ竿」の3本を試したところ、それら全てに魚が喰いついたのは今シーズンの大漁を示す瑞兆かもしれません。

 納竿し、東垂水駅に続く歩道橋の手前まで来た時、前月下見に来た折にもいた黒猫が「魚を分けて」とばかりに体を摺り寄せてきました。

令和2年6月22日(月)

 JR舞子まで進行し「橋の博物館裏」のポイントでマメアジ釣を実施したところ、から揚げや南蛮漬けにぴったりの「金魚くらいの鰺」が、夕マズメ2時間で31尾釣れました。

 夕飯のおかずには十分な量なので、満足して納竿ということに。

  磯ベラ 4尾

垂水区名谷町石造物めぐり

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 普段の春なら陽気に誘われて県内・県外の博物館を訪ねたり、史跡巡りをするのですが、コロナ禍による逼塞のため「裏山登山」くらいしか楽しみがありません。

 5月に入り、ついに我慢も限界に達し、石造物の宝庫といわれる名谷町に石塔巡りに出かけることを決意しました。

 なお、同町は垂水区東部に所在し、福田川と両岸の狭い耕地が、海岸近くから同川最上流まで続く長い谷地形となっています。

・転法輪寺

 5月11日、JR垂水駅から山陽バスに乗車し「阪神高速」「神戸淡路鳴門自動車道」の結節点となる「垂水ジャンクション」に程近い「中山」バス停で下車、細い坂道を登って行くと周囲に「生垣」「見越しの松を従えた立派な門構」「焼板の壁」「畑地」などが出現、景観が農村に変わるなかで、坂を上りきると転法輪寺に到着。

 入口脇に建つ庫裏から本堂までの長い参道の両側には、子院跡らしい空地がいくつも続いており、往時の繁栄が偲ばれますが、道を覆うように伸びた桜の枝から「沢山の毛虫」が自ら吐いた糸の先にぶら下がって行く手を阻んでいるのには閉口することに。

 立派な本堂を参拝し、境内の「一石五輪塔」「石仏」「墓石」が集められた「塚」を見学した後、身を低くして毛虫のカーテンをよけながら、境内脱出に成功しました。

・明王寺

 転法輪寺から県道65号線を福田川沿いに下ると名谷小学校があり、その西側に明王寺が建っています。

 本堂は転法輪寺に負けない大きさで、裏山に広大な付属墓地が広がっていました。

 境内の一角にある「赤松円心の供養塔」と伝えられる宝篋印塔には、観応二年(1351年 南北朝時代)の刻銘があります。

・西名谷御堂境内の五輪塔

集落の中に建つ小さな御堂の前に刻まれた梵字の種字もはっきりと残る堂々たる五輪塔がありました。

 五輪塔を背にして御堂に対すると農村時代に立ち戻ったような気持になります。

 阪神高速の雲をつくような橋脚が南の空に見えなければ。

・西名若宮神社参道脇の宝篋印塔

 谷をさらに下り、七曲り(市道名谷高丸線)の手前、若宮神社参道石段横の小社に細身ですっきりした高さ1.7mの宝篋印塔が納められていました。

 もともと近くの旧道沿いに建っていたもので、暦応庚申(1341年 南北朝時代)の刻銘があります。

・猿倉の宝篋印塔

 掘割バス停のすぐ裏手、アパートの駐車場脇の斜面に高さ1mに満たない可愛らしい宝篋印塔がひっそりと建っていました。

 小さいながらも暦応四年(1341年 南北朝時代)の刻銘があり、移築された石塔が多い中で珍しく旧道沿いに残っています。

・おわりに

 戦前までは、農村であった名谷地区も昭和30年頃から住宅開発と道路の新設・拡幅など都市化が進み、集落や農地がずたずたに切り裂かれましたが、開発のまだ及んでいない集落の奥や裏山などに往時の風景が断片のように残っていました。

 路傍から住民の生活を見守っていた石塔も都市化の波の中で、移築されたものが多いのは残念なことです。

 「往時の記憶をとどめる景観が、たとえ断片でも末永く残ればといいのに」と思いながらバスに乗り垂水駅に戻りました。

綾部山梅林散策

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 1月末日、北野町の播州物産店で買物をした際、商品棚の一隅に「綾部山梅林」の入場割引券があるのが目にとまり、いただいて帰りました。
 2月15日、JR元町駅から網干駅まで進行し、南口ロータリーからシャトルバス乗車、バスは南に向かい旧市内に入ると狭い道沿いにある「山陽電車網干駅」に停車、ここから西に方向を変え、田んぼに囲まれた国道を進み、低い山の手前で左折、山沿いの道をしばらく行くと梅林の入口に無事到着。
 コロナ禍の影響が出始めていたせいか土曜日にもかかわらず、専用駐車場に車は20台程、観光バスの姿もなく、登坂を山上に向かう人も僅かで、沿道に並ぶ売店の売子さんも手持ち無沙汰な様子です。
 しばらく歩いて到着した「入場ゲート」に隣接する「切符売場」の窓口に入場料と一緒に割引券を出し「案内パンフ」と「甘酒引換券」をもらって、ゲートを通ると山肌に広がる梅林が目に入ってきました。
 時期が早いせいか、五分咲き程度の開花で、枝間に遊ぶ鶯の囀りも「ホー」「ケキョ、ケキョ」と不十分で、初音には程遠い有様です。
 それでも梅見を楽しみながら山道をゆるゆると登り、見晴らしのいい茶屋で接待を受けた甘酒を啜りながら見下ろすと、梅林の中程に「蔓草が巻き付き打ち捨てられた枯木群」や「沢山の切り株が残る空き地」が見えました。 
 茶屋を出て、しばらく山道を進んだところにある園内食堂で「牡蠣うどん」を食べていると窓の外のステージでは大沢フルーツ・フラワーパークから来た「猿回し」さんが、
「先週は週末の雨で土・日続けて中止になり、つらかった」
などと話しながら、僅かな観客を前に興行しています。

 小生の子供の頃(昭和40年代)当時県内で随一だった「室津梅林」の名声を一気に吹き飛ばした「綾部山梅林」の勢いはすごいもので、同所を訪ねる慰安旅行や日帰りツアーの件数も目を見張るほどでしたが、現状を目の当たりにすると「盛者必衰、かつての栄光は何処に」という思いを持たざるを得ません。
 なにやらものさみしい遊山になってしまいましたが、山を下りる際に園内の残る古墳2基を見学できたことは幸いでした。
 帰ってから調べてると2基の古墳は、弥生時代の墳丘墓である「綾部山39号墳」から始まり、古墳時代後期まで続く県内でも著名な「綾部山古墳群(40基)」の一部だったのです。
 立て札等の表示がなく見落とし古墳もたくさんあったようなので「来春は午前中に来園し、古墳分布図で確認しながら梅見しよう」と思っています。

中央日報のコラム

投稿日:

グローバルアイ「私たちをそっとしておいてくれ」=韓国


                                                                  中央日報/中央日報日本語版2020.01.28

 日本で年末年始を過ごす楽しみの一つはテレビのスペシャルドラマを見ることだ。今年最も期待を集めたのは韓国にもファンが多いモッパンドラマ『孤独なグルメ』だった。1月1日に放映された特別編で、主人公の五郎は急な出張のため釜山(プサン)飛んだ。日本各地だけでは飽き足らず、海の向こうの韓国にまで足を伸ばした。
 職業が雑貨屋の主人公は、以前も韓国に行ったことはあるが、この渦中に釜山行きとは…なぜかうれしかった。福岡港で快速船に乗って2時間で到着した釜山。主人公は「うどんは韓国でもうどんと言うんだな」「この味は日本では食べられないだろう」などと独りごちながら釜山を満喫した。東京のコリアンタウンである新大久保には、すでに主人公が食べた「ナッコプセ〔ナクチ(タコ)・コプチャン(ホルモン)・セウ(エビ)が入った寄せ鍋〕」メニューの写真まで登場したという。
 NHKで特別編成したドラマ『心の傷を癒すということ』にも目が行った。主人公は在日韓国人の医師である故・安克昌氏。約6300人が亡くなった阪神・淡路大震災から25年を迎え、当時被災者を献身的に世話した彼の生き方にスポットを当てた。
 彼は出身を越えて日本人から広く尊敬を受けた。災害直後の対処、避難所と仮設住宅の生活、救助隊員の精神的ケアなど、当時その概念さえ新しかったPTSD(心的外傷後ストレス障害)治療が2000年代以降活発に行われ始めたのには安氏の役割が大きかった。
 劇場街では一歩遅れて公開された映画『パラサイト 半地下の家族』がブームとなっている。「ポン・ジュノ-ソン・ガンホ」コンビは多くの固定ファンがいるが、「アカデミー効果」で韓国映画に全く関心がなかった人々までファンに引き込んでいる。
 あるカフェでは映画の中に出てくる「韓牛チャパグリ」(注)メニューが登場している。(注:チャパグリは庶民的なインスタント袋麺の「チャパゲティ」と「ノグリ」をミックスしたもので、「韓牛チャパグリ」はこれに高級具材の霜降り肉を入れたもの。)
 ポン監督の熱烈なファンだというカフェのオーナーが公開前から特別メニューを苦心していたという。韓牛とチャパグリの不釣り合いな組み合わせの中に隠されている韓国文化の奥深さを、日本人がどれくらい理解できるか分からないが、週末には列に並ばないと食べられないほど人気だともいう。
 昨年7月以降、韓日関係は歴代で最も悪化した。政治と外交から始まった葛藤が、経済や文化など全方向的に拡大した。地方自治団体長が率先して青少年交流を中断させ、大学教授が率先して学術交流への不参加を宣言して「反日隊列」に賛同し参加した。
 だが、韓日関係が難しい状況でも市民は交流を絶やさなかった。政治や外交とは関係なく相手を心配し、変わらず好奇心を持ち続けた。
無理に止めようとしても止められないのが文化の力だ。ある放送局関係者は 「韓国コンテンツの人気には変化はない」としながらこのように話した。「政治でも外交でも何でもいいが、とにかく私たちをそっとしておいてくれ」と。

ユン・ソルヨン/東京特派員

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 昭和の終わり頃から平成の初めにかけて、小生は毎年のように訪韓していましたが、その後、趣味が変わり、とんと足が遠のいてしまいました。
 その代わりといってはなんですが、朝鮮日報、中央日報、東亜日報、聯合ニュース、ハンギョレ新聞など「韓国誌日本語サイト」の記事やコラムは、ほぼ毎日チェックして韓国の現状を認識しようとしています。
 それらの中では歴史資料を分析・活用した重厚なコラムを執筆する朝鮮日報「鮮于鉦記者」の論調が気に入っていたのですが、社会部長に出世して忙しくなったせいか、執筆間隔がすっかり間遠になってしまいました。
 日本語も堪能な上、テレビ映えするイケメン記者なので朝鮮日報を定年退職したら来日して、コラムニストやコメンテーターとして活躍していただけるといいのですが。
 ところで、ユン・ソルヨン特派員を含む中央日報の記事やコラムは朝鮮日報に比べるとかなり反日傾向が強かったのですが、上記のコラムの「最後の3行」はずいぶん控えめで冷静な論調です。
 確かに私の知合いの「韓流大好人間」も「嫌韓ニュース」や「不買運動」もどこ吹く風で、度々韓流ショップに出かけていますし、韓流スターのイベントやコンサートのために訪韓する人数は、航空運賃が安くなったこともあり、一昨年よりも増加したとか。
 しかし、国内にも韓国にも多数側に迎合し、「韓流」や「日流」に文句をつけ、道徳だの倫理など御託を述べている「おっさん勢力」も存在しています。
 「おっさん」達は「ハーレムのボスを目指してあくなき戦いを続けるトドの末裔」で、本当は「トドの境遇」を希望しているのですが、近代社会では、多数の側室を囲って好き放題できるのは、数少ない特殊な国だけですので、とりあえず「権力」を得ようと努力してきました。
 亡父は太平洋戦争中、商業学校で非常勤の仕事をしていましたが、校長が、週初めの朝礼で生徒や教員、職員を運動場に整列させ1時間近く軍国主義の重要さを訓話するのには閉口したそうです。
 在職中の昭和20年1月に応召しましたが、敗戦とともに復員し、同校に復職しました。丁度、復帰当日、朝礼があり、件の校長が「進駐軍が日本に民主主義を広めてくれるのは素晴らしい」と褒め称える訓話をするのを聞き新喜劇のギャグよろしく「こけかけた」そうです。
 戦時中はファシズムの嵐が吹き荒れていたので、校長が軍国主義擁護の訓話をするのもやむを得ないことですが、敗戦により体制が変わったのですから、反省しておとなしくしていればいいものを「おっさん」は「権力」を何より欲するので「このままでは終われない」とばかりに、かつての主張を億面なく捨て、民主主義を賛美することで「権力」にしがみつこうとしたのでしょう。
 しかし、変節の甲斐もなく「民主主義化した教育委員会」によって、平教員に降格され、校長室を追い出されてしまうことに・・。
 「おっさん」は昔から「こずるく」「恥知らず」で「信念」がありません。渡り鳥のように政党をころころ変える国会議員などは「おっさん」の代表と言えるでしょう。
 先日もテレビで「日韓関係が悪化しているのだから韓流ファンをやめろ」と「韓流ファン」に難癖をつけているおぞましい「おっさん」が放映されていました。

 しかし、最近彼らの意向に反して、不買運動で閑古鳥が鳴いていた「日本行の航空便」の搭乗者が増加し、観光地で韓国語を聞く機会も増えてきました。
 ユン・ソルヨン記者も「おっさん」達に負けず、しぶとく頑張る「韓流ファン」「日流ファン」を認めざるを得なくなり、「控えめ」なエールを送ったのではないのでしょうか。

三階坂

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 28歳で滋賀県に引越すまでは家族と「坂の町」神戸に住んでいましたが、足運びが傾斜に合っているせいか「坂道」の方が「平坦な道」より歩行が快調で疲れもないので「坂道散歩」をよくしました。その中でも特に気に入った「坂道」を紹介しましょう。
 今回、取り上げるのは現在の通勤路の途中にある「三階坂」です。
 駅から拙宅までは約48mの高低差がありますが、ここを登りきるともう玄関は目の前なので、最後の難所となる急坂です。名称は「20m足らずの距離」なのに「地面から3階の高さまで一気に登る急勾配」から、小生が勝手に命名しました。

三階坂 山本通4丁目

 

2019年 釣りシーズンの終了

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 11月最終週の某日をもって今年の釣りシーズンは終了したので来し方を振り返ってみると、シーズン当初となる初夏の豆鰺はそこそこ釣れたのですが、夏の塩屋防波堤ではミニチャリコの猛攻のためベラはさっぱり。
 新規開拓した中八木の防止堤には大型ベラが居ついているのですが、沖まで続く捨石のため、ノベ竿の仕掛けがポイントまで届かないという欠点があります。
 やはり、須磨海釣り公園が閉鎖された影響は大きく、今年はノベ竿が全く活躍できませんでした。
 シーズン終盤恒例であるポートアイランド中公園防波堤のサビキ釣りは鰺が全く姿を見せず、3回の釣行で「ウミタナゴ1尾」「バリコ1尾」「フグ1尾、ミニガシラ2尾」という惨状。
 低調な時期の多いシーズンでしたが、「ボウズなし記録」は今年も途切れることがなかったのです!?
 来年はあまり意味のない「記録」の継続より「ノベ竿の活躍」を期待したいのですが。

中八木海岸釣行

投稿日:

 今年の塩屋防波堤はミニチャリコの大量発生によりベラの食いが極端に悪く、ポートアイランド中公園防波堤も釣果はもう一つなので、思い切って神戸市を抜け出し、明石市中八木海岸に遠征。
 ここは以前、史跡巡りに行った折に目につけていた釣場で、心惹かれた点としては、
1、海岸の砂止堤が石積みでいかにもベラが潜んでいそう。
2、海岸は広く、明石海峡大橋・淡路島に臨み、砂止堤も須磨ビーチに見られる無粋なコンクリート製ではなく石積なので風景に溶け込んで感じがいい。
3、釣場は駅から徒歩10分程度と近い。
などがありました。
 さて、当日はお昼過ぎに現地に到着し、最寄りの砂止堤の先端からノベ竿を出しました。ところがミニフグの猛攻を受け針が何本も喰い切られてしまいます。
 20分ぐらいがんばってようやく赤ベラ1尾ゲットしましたが、

 「このポイントは捨石の幅が広いので沖まで浅い。ノベ竿の届く浅場にベラはほとんどおらず、ミニフグが群れている」

と判断して、ノベ竿を諦め短竿にリールを付け、10mくらい沖に仕掛けを飛ばしてみると、すぐに大きな魚信があり20㎝近いキュウセンが上がってきました。
 どうもそのあたりが捨石と砂地の境らしく、仕掛けを投入するとぼつぼつと魚信があり、4時間程でベラ、ミニチャリ、丸ハゲ合わせて13尾釣れたので納竿。
 塩屋防波堤のように数は釣れませんが、ベラの型は大きめです。
 ノベ竿が適合しない、少し残念な釣場でしたが、初回の釣行にしては、まあまあの釣果でした。

中八木海岸

釣果

                

                  

好きな和歌 弐

投稿日:

大伴家持 天平勝宝二年三月一日の暮に、春の苑の桃李の花を眺矚めて作る二首

・春の苑くれないにほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ(万葉集十九巻 四千百三十九番)
・わが園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも(同 四千百四十番)
(はだれの:はらはらと降る雪)

 昭和40年代、友達と奈良に行った際、近鉄奈良駅ビル最上階あった奈良の史跡案内を目的としたガイダンス施設「奈良歴史教室」に立寄りました。
 入場券を買い展示室に入ると、入口扉横の壁の上に「奈良時代装束の乙女五・六人が梅林を逍遥する様子を描いた大きな絵」がかっていて「天平勝宝二年三月一日(750年4月15日)に作られた 春の苑・・」の歌を再現したと書かれたキャプションが添えられています。
 小生はこれを見て、
「鹿も居眠りしそうな陽春の夕刻、梅林を楽しげに歩く無邪気な乙女を詠んだこの歌こそ咲く花の匂うがごとき奈良の都にふさわしい」
と、とても気に入っていたのですが、後になって当該歌は家持が越中国守として同国の国府(現高岡市)に赴任していた時のもので、下照る道に現れたのも「越中乙女」であることを知ることに・・。
 それから遥に時が流れた先日、久しぶりに書架から万葉集を降ろし斜め読みしていると、四千百三十九番が目に留まったので、口ずさみながら往時を回想していたのですが、続く四千百四十番に目が移った時、
 「二首は同日に作られたので、桃と李が一緒に開花していたことになるが、李の開花は桃より早かったのでは?」
と思いついたので、早速調べてみると、
 富山県農林総合技術センターの記録では「一般的に桃は近畿・北陸では3月下旬から4月上旬にかけて開花するが、あかつきという品種の桃の県内での平均開花日は4月13日頃、しかし2011年には4月17日に開花した」
と記されていました。
 李については「おばあちゃんのひとりごと∞」というブログで、
 「富山県射水市足洗潟公園の李の花は2017年4月6日には3分咲きから8分咲だったが、前年の4月8日はもう終盤だった」
とあり、富山県でも李が桃より先に開花するようです。
 二首を比べると、下の道が赤く照り映えていることから桃は「開花期」で花は沢山残り、李は花弁が庭の残雪と紛れていることから「落花期」に入っていたのではないでしょうか?
 とはいっても、これは桃李の品種や気候が現在と違う奈良時代のことなので、確信は持てません。
 「越中乙女が逍遥した梅林は奈良の都と比べると少しばかり肌寒い風が吹いていた」
あたりでとどめておくのが無難かなと思っています。