日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
おまじない
亡父(大正13年生まれ)の話によると叔父(亡父の弟で昭和5年生まれ・故人)は子供の頃、度々「ひきつけ(熱性けいれん)」をおこしたのですが「ひきつけ」は風邪や腹痛と違いすぐ収まってしまうので、近所の医院に連れて行くことはなく、父親(私の祖父)が「ひきつけ除け」の「おまじない」を作ったそうです。
その作り方はというと、
生卵の「尖っていない方」に箸でつついて、直径1㎝くらいの穴を開け中身を出し「尖っている方」の真中に糸を通した長い針で穴を開け、下の穴から針先が出るくらいまで刺し通し、針先をつまんで下の穴から抜き出して針を外し、糸の端に玉を作り、穴の上から引っ張っり、糸が止まったところで完成。
それを軒先にぶら下げると「ひきつけ」が収まるそうで、何個もつるされていたようですが、はたして効果はあったのでしょうか?
ところで、小生が中学生の頃(昭和40年代)犬の散歩に行くと町内の辻に時々赤飯の団子が、数個供えられていることがありましたが、当時の愛犬は元野良犬で拾い喰いをする習慣があり、団子を目ざとく見つけると猛ダッシュで近づき食べようとするので、慌ててリードを引っ張りやめさせていました。
父に団子が置かれた理由を聞くと、
「この団子は、麻疹になった子供が早く治るように親が作って供えたものだ」
と教えてくれました。
上記のことは、医療事情が悪く、迷信に頼っていた昔のこと話と思うかもしれませんが「アマビエ」などというものが流行している現在もおまじないに頼る市民心理に大きな変化はないように思いますがいかがでしょうか。
今年最初の釣行
大阪湾の各港に鉛筆ほどのサバが大量に現れ、サビキに鈴なりになっている様子が釣番組で伝えられ、実際、舞子などに下見に行くと極小サバは群泳していますが、昨年はそこそこ釣れたマメアジの姿はありません。
これらのミニサバは、脂がのっておらず、どう調理しても美味しくないので、釣人を見かけると寄ってくる「アオサギ」や「にゃんこ」に贈呈していました。
そんなわけで、今年はマメアジを諦め、7月14日水曜日ベラ釣りの実績がある中八木に初釣行することに。
当日は垂水で餌を買い正午過ぎに中八木防波堤に到着、油照りの影響か明石海峡大橋が霞んでよく見えず、何やら悪い予感がしたのですが・・。
釣座を決め「投げ竿ウキ釣り」で防波堤周辺を攻めるのですが、魚信が少なく15分ほどしてようやくベラが針に乗り、今年の初釣果となりました。
ところが、13時を過ぎた頃から遠雷が聞こえ、黒雲が南に広がり始め、14時近くになると雷鳴は大きくなり、稲妻は北東の空で間断なく光り、雨の臭いを含む冷たい風まで吹いて来る始末。
雷雨が襲いかかってくるまでの時間的余裕はありません。
広い防波堤には他の釣り客はおらず、自身に落雷する恐れもあり、ベラ3尾というさみしい釣果ながら納竿して撤収・・。
空は黒雲に覆われ、稲妻や雷鳴がどんどん近くなる中、小走りで段丘の坂を駆け上がり、畑脇の細道を抜けて、雨の落ちる前になんとか中八木の駅たどり着きました。
ところが、電車に乗ると須磨あたりで、小雨があっただけで、板宿で地下に入り、高速神戸で地上に出ると曇天で地面も濡れておらず、
「あの雷雲はどこへいったの」
と、拍子抜けすることに。
しかし、翌日職場に行くと、昨日午後長田区でひどい雷雨があり、丸山の変電所に落雷したため、長時間停電し、神戸電鉄も停まり、大雨警報が出るという、大荒れだったことを同僚から聞きました。
丁度電車が地下を走っていた時、地上は大変なことになっていたようです。
次回の釣行時は天気が安定して、夕方までゆっくり楽しみたいものですが・・。
好きなバス路線(その3) 神戸市バス7系統
7系統の東行きはJR神戸駅から出発し、新開地→湊川公園東口→夢野3丁目→平野→諏訪山公園下→トアロード→三宮町1丁目から三宮駅前を通り市民福祉センター前が終点になります。
昭和50年代頃「諏訪山公園下バス停」(以下バス停省略)最寄りの事務所に時々用事があり、三宮町1丁目から当該路線西行きに乗車することがありました。
当時は、三宮駅前から西行し、三宮町2丁目で右折、対面通行だったトアロードを北野町まで登り、左折して山麓線入ったような記憶があるのですが、定かではありません。
今はトアロードの山手幹線より南は南行き一方通行なので、三宮町2丁目ではトーアロードに入らず元町駅の手前で左折し、鯉川筋を登り、山手幹線を東へすこし戻って、NHK前交差点でトアロードに入るコースになりました。
定年になり山本通に転居すると塩屋方面に釣りに行った帰りなどに神戸駅から東行きに乗車、最寄りのバス停まで約25分のバス旅をする機会が増えましたので、コースを詳しく記すことにいたしましょう。
神戸駅北口のバスターミナルを出たバスは、湊川神社の西側を左折、中央幹線を西進し、明治時代の遊郭に端を発し現在もソープランドが林立する「福原」かつて東の浅草と並び称された新開地商店街アーケード前を通過して交差点を右折し「新開地」から夢野まで続く長い坂道を北上。
「東山」と「熊野橋」バス停間には東山商店街、マルシン市場、湊川市場、湊川商店街、ハートフル湊川など市内最大級の商店街・市場集積地があるので両バス停で多くの乗降客があります。
勾配を上がりきったところが当路線の最高点「夢野3丁目」で、その先の三叉路を東に曲がり、坂道を一気に下ると、谷底に「石井橋」があり、少し先に旧湊山小学校がありました。
ここは平清盛が造営した福原京の推定地で、昨年同小校庭の発掘調査が実施されたことから、遺構の発見を期待していたのですが、現地説明会が実施されなかったところを見ると残念ながら「はずれ」だったのでしょうか?
次のバス停のある「平野」は、六甲山脈の北側を通る有馬街道が小部峠を越え、天王谷を下り、扇状地に出たところにある街です。
北神戸から南へ通じる交通ルートが有馬街道一本だったころは、平野も随分にぎわっていたのですが、新神戸、六甲山トンネルなど六甲山脈を貫く新たな南北交通ルーができると交通量、人流ともに減り、鉄道駅がないことも相まって活気がなくなりました。
平野を過ぎたバスは生田神社の末社「五宮神社前」、神戸市内最古の浄水場のある「楠谷町」を通ります。
同浄水場には、記念館があったのですが、コロナ禍で安全な見学ができないということで閉鎖されてしまったのは残念無念。
さらに東に進むと再度山登山口がある「再度筋」、かつては池畔に遊園地や温泉、東隣に動物園もあった神戸有数のレジャーランド「諏訪山公園」最寄りの「諏訪山公園下」を過ぎ、旧トア・ホテル前の交差点を南に曲がると神戸を代表する観光地「異人館街」。
ここから数分で三宮ということで、コースの紹介はおしまいでございます。
好きなバス路線(その2) 神戸市バス92系統
92系統の東行きは、2系統と同じ「大丸前」から出発し、後者は「布引(新神戸駅前)」から山麓線に入り、前者は「山手幹線」をそのまま東進し灘区の東端「石屋川車庫前」が終点になるのですが、同系統は中程の「布引から王子動物園前」までと東部の「王子動物園前から終点」では車窓が大きく変化する路線なのです。
昭和46年「山手幹線」中央部の市電軌道が廃線により撤去され、築盛され中央分離帯となり楠が植えられました。
50年後、20m近い大木に成長した楠並木は枝が大きく広がり「布引・王子動物園前間」では、歩道のポプラ並木と重なって、車道に覆いかぶさるトンネルのようになっています。
同区間は、高層マンションやスーパーがなく、昭和と平成の建物が入り混じる「中途半端に古びた街並」が緑陰に沈んでいるためか活気がありません。
灘区水道筋に住んでいた頃、今治からの帰省時、大体9時過ぎに「新神戸」に着くと、すこし南にある「布引バス停」から「石屋川車庫前行」を利用していました。
当時、乗車すると座席はほぼ埋まっているのですが、乗客の顔には心なしか疲れが見え、車内は「千と千尋の神隠し」に登場する湖上の電車のような静けさに包まれています。
バスは暗く沈む街並みを進み、バス停ごとに少しずつ客を降ろし、乗客ほとんどいなくなった頃「王子動物園前」に到着・・。
ところが「同バス停」を境に、並木は続くのですが、歩道が広くなり、部分的には車線も増えるので「楠・ポプラのトンネル」の天井が抜け、圧迫感がなくなります。
次のバス停は「阪急王子公園駅前」で、乗換えに便利なことと、JRの駅も近くにあることから、道路の両側にはマンションが屏風のように連なり、店舗も一気に増加・・。
さらに東進し、都賀川を越え「六甲口」バス停あたりまで来ると、最寄りに大学が三つもあるせいか、学生の往来も多く、居酒屋や焼肉屋・カフェ・ケーキ屋さんが点在・・。
「傾いた家」を過ぎ、彼方に天井川化した石屋川の堤防の上まで続く登坂が見えてくると終点の石屋川車庫前もう間近です。
さて、前回に続き昔話をいたしましょう。
現在の92系統の起源は、昭和5年の神戸市バス発足時に「須磨駅前→桜口(現灘区)」を結んだ1系統と昭和25年3月15日から運行が始まった18系統(王子公園→三宮間)の2つの系統に遡ります。
1系統は昭和20年に「大橋9丁目(長田区)から石屋川」まで主要なバス停のみ停車する「急行運転系統」に変わり、昭和29年には「板宿(須磨区)から石屋川車庫前」に路線が延長され、子供だった小生は、系統名「1」の横に「急」と記されたバスが、ハイスピードで市電を追い越す雄姿をよく見かけました。
当時「板宿」というと遥か西の見知らぬ街でしたが、昭和43年に「神戸高速鉄道」が開通するまでは、市内の私鉄ターミナルは場所がばらばらで乗り継ぎに不便だったので、市内を縦貫しそれらを結ぶ速達バスは人気があったようです。
しかし「同鉄道」の開通後「急・1」系統は廃止されると同時に永久欠番になってしまったようで、かつての栄光は記録は歴史の彼方に消えていってしまいました。
好きなバス路線(その1) 神戸市バス2系統
小生もかつては「乗り鉄」で、夜行や寝台列車で九州・東北・北海道等へ移動し、翌朝、到着した駅で適当な各停に乗換え、通勤客や通学生の方言を聞きながら、無駄な時間を過ごすことを何よりの楽しみとしていました。
鉄道程旅情を感じないものの「県をまたぐ長距離」や「近郊路線」のバスに乗ることも好きなので、気に入っている系統の紹介をいたしましょう。
現在、住んでいる中央区から灘区の実家に行く折よく利用する路線が「神戸市バス2系統」の「阪急六甲行(東行き)」で、同系統のバスに始発の「大丸前」から乗車すると、ケーニヒスクローネ前の道を東進、国際会館前交差点で左折しフラワーロードに入り、JR・阪急のガードを抜けて北上、「布引(新神戸駅前)」からは、激しいアップダウンやカーブの多い「山麓線」に入り東に向います。
同路線の最初の見どころは「熊内6丁目(バス停)」南にある昭和モダン建築「神戸市公文書館(旧南蛮美術館)」。
館の正面は左右非対称、玄関の上部は寺院の格天井のような形状で、長提灯のような照明が中心にある個性的な建物ですが、館より強い印象があるのはバス停東にある谷底が見えないほど深い狐川の渓谷で、子供の頃は怖くてバスから覗き込むことが出来ませんでした。
二つ先の「野崎通3丁目」と「青谷」間は路線中随一の急勾配で、軽量でパワーがある現在のバスは余裕で登攀して行きますが、車重が重く、馬力も足りない昭和40年代のバスは、大きなエンジン音をたて排気ガスを勢いよく吐き出すもののスーピドが上がらず、なんとか低速で坂を登り、ピークの「青谷」にたどり着くような有様でした。
「神戸高校前」の交差点からは「阪急王子公園駅」まで続く長い坂道があり、港や大阪湾、対岸の泉州方面まで見渡すことができ、その素晴らしい展望をちらっと眺めるうちに到着する「観音寺バス停」で普段は下車するのですが、その先にも「五毛天神」近くある「祭のだんじりが山麓線を横切る間、バスは気長に通過を待たねばならない交差点」や桜の名所「護国神社」などがあり、車窓は多彩です。
さて、少し昔の話をいたしましょう。
実家に住んでいた頃、布引や加納町に行く際は同系統によく乗っていました。
昭和40年代の初め頃までバスには女性の車掌が乗車していて、バス停を発車すると、次の停留所を乗客に告げ、乗客の降車希望を確認し「停車」か「通過」を運転手に知らせます。
ところが車掌が次の停留所を告げても「はい降ります」と返事をしたり、手を挙げて合図する乗客はめったにおらず、ほとんどが車掌の方に視線を向けるか小さく頷いて降車の意思を示すだけなのですが、車掌はしっかり感知し、運転手に知らせるのです。
「車掌が乗客の僅かな動作を見逃すことなく感知する」能力は、子供にとっては驚くべきことで、乗車するたびに感心していましたが、40年代後半頃から当該系統もワンマン運転に移行してしまい、車掌の能力を見る機会がなくなってしまったのは残念なことでした。
パンは主役じゃない
以下の文章は、今から丁度10年前、某サイトに投稿したものですが、昨今の高級食パンのブームに一石を投じたいという気持ちおこってきたので手直しの上、再録いたします。
小生の生まれ育った実家の近くに昭和30年代からやっている「ハイマート」という小さなパン屋がありました。
元和菓子職人だったという大将は、食パン以外に菓子パン(3色パン※アンパン・ジャムパン・クリームパンが合体したパン、富士山パン)やお菓子(クッキー、カップケーキ)なども器用に作るのですが、店の看板である食パンは、切りたてが美味しいからと、注文を受けると客に好みの厚さを聞き、スライサーで切って販売します。
大将は無口でしたが、たまに
「生イーストがなくドライイーストも貴重だったころ菌が死なないようリンゴジュースに溶かし一升瓶に詰めて夜は抱いて寝て、町内会の旅行の時も瓶を背負って行った」
「塩やバターのたくさん入った食パンは、美味しく口当たりもいいが、匂いが鼻について3日で飽きる。お客さんにずっと飽きずに食べ続けてもらうには塩とバターをぎりぎりまで控えた方がよい」
「食卓では、おかずが主役でパンは脇役です」
など、体験や矜持を話してくれました。
バターや塩分の多い高級食パンはおいしいので、ついついたくさん食べてしまい、おかずの少ない食事になりがちです。
その上、おやつとしても食べたりもするので、一日の栄養に偏りが出て、生活習慣病にもよくないと思うのですが、いかがでしょうか?
好きな漢詩 柳宗元 江雪
(原文)
千 山 鳥 飛 絶
万 径 人 蹤 滅
孤 舟 蓑 笠 翁
独 釣 寒 江 雪
(訳)
山間の雪空に飛ぶ鳥もなく、小径の足跡も雪に覆われた冬の日、蓑傘の老人が一人、小舟から竿を出している。
高級官僚でありながら政争に敗れ、度々地方に左遷され、若くして任地で亡くなった唐代の詩人・文学者である柳宗元の五言絶句です。
ここ10年くらい、釣りシーズンは5月から11月までと決めている小生も40代までは冬場の釣行を度々行い、何度か雪にあったので「江雪」には大いに共感しておりましたが、実際のところは大した釣果もなく「しもやけ」を悪化させて帰ってくるのが関の山でした。
ところで、この詩と共通する趣を持つのはなんと言っても「ヘラ鮒釣」でしょう。
「ヘラ釣師達」は、水辺の釣座から伸びる竿掛けに竿を置き、笠の下から、細長いウキを凝視しています。
餌の付け替えにため意外に短い間隔で竿を上げますが、動作がゆっくりしているせいか、せわしなさがありません。
知合いの愛好者の話によると「釣具会社」や「釣餌会社」が主催する「ヘラ鮒釣り大会」が年何回か実施されるのですが、その中に必ず真冬に行われる大会があり、雪が傘に積もるほどの年もあったそうです。
もともと冬場は食いが渋く、魚信も小さい上、雪の日はウキが見えにくく、風があると手はかじかみ、一日頑張り骨の髄まで冷えきったあげく「ボウズ」という日も多いそうで、ある年の大会では一人が1尾釣り優勝、他は「ボウズ」という悲惨な結果だったことも。
ヘラブナ釣りは日本古来のゲームフッシングで、釣った魚はすべて放生して手ぶらで帰るのが規則です。
「とらぬ狸」の調理を考えながら竿を出す小生には一生かかってもたどり着かない恬淡で優雅な釣といえるでしょう。
ついにその日が
令和2年11月9日(木)!!
昨年来、ポートアイランドエリアの釣行では「バリコ1尾」「ガシラ2尾」「チャリコ1尾」と惨憺たる成績ながら、なんとか「ボウズなし」の命脈を繋いできましたが、前週、神戸空港の市民広釣場に釣行した折、極細の小アジが6尾とツバクロ4尾しか釣れなかったことが、凶事の前兆だったでしょうか、平成21年6月7日以来、11年3箇月余続けてきた「ボウズなし記録」がついに途切れました。
当日はポートアイランド北公園防波堤の先端というサビキ釣には最高のポイントで、14:30から16:30までひたすらアミエビをまき続けましたが、魚信はありません。
餌がなくなり納竿し、ボウズの空しさをかみしめながら帰り支度をして、発つ前にもう一度、海を見るとそこには美しいブルーの水面がありました。
昭和末から平成の初め頃、9月になるとポートアイランド周辺には沢山のアジ・サバが回遊してきて、どこの岸壁でもサビキを下せば鈴なりの魚が掛かりました。
しかし、当時の海は茶褐色に濁り、水面には船舶廃油の帯が何本も浮かんでいて、低層を泳ぐアジは食べられても、上層のサバは油臭く食べられる代物ではなかったのです。
下水道の整備も進まず、工場排水の規制もゆるかったことから、海水の栄養も充分で、プランクトン数が多く、赤潮が度々発生しながらも、魚影は濃かったのですが、平成も終盤になると、下水道の敷設が進み、生活汚水も浄化され、船舶廃油も排出規制が厳しくなったので、海はきれいになりました。
反面、海水中の栄養分が低下し、プランクトン数も減少したため魚影も少なくなったのでしょう。
「ボウズ」という厳しい現実に直面したおかげで、現状を認識し、来し方を思い出し「ボウズを遁れることばかり考えていた未熟な自分を反省する」ことが出来ました。
釣りの楽しみは「得物獲得」だけではありません。釣場周辺の風光を愛で、時間の移ろいを感じ、環境の変化を知ることも重要な要素です。
新年からは、真摯な気持ちで釣りに向き合うことを決意、当日を持って本年の「釣納め」とし、島を後にしました。
淡河用水と山田用水
1.はじめに
小学校高学年の社会副読本に「淡河用水と山田用水」という項目がありました。
概要は、
播州平野東端に広がる印南野(いなみの)台地は30㎢もの広さがありながら「水源は溜池だけ」で毎年水不足に見舞われるため「麦」や「芋」「おかぼ」しか作れず、農民は貧しい暮らしをしていました。
明治24年に旧美嚢郡淡河村(現神戸市北区)から淡河(おうご)用水(総延長26.3㎞)が、大正8年に武庫郡山田村(現神戸市北区)から山田用水(総延長10.75㎞)が開通すると、水不足が解消され、水稲耕作も可能になり農民達は喜びました。
という感動的な話です。
しかし、高校生時代にタモロコを釣りに行った「大鳥喰池(おおとりいいけ)」や神出窯跡群(平安時代)の一部が残る「合ノ池(あいのいけ)」など、両用水により水の供給が安定したはずの同台地上に、上記を含む沢山の溜池がいまだに残っているのはなんでなの?
とずっと不思議に思っていましたが、疑問が解決することはないまま、桑田変じて海となり、還暦を過ぎた頃「兵庫県広報」に「神戸の水の恵みウォーク&ツアー2018」の案内が掲載されました。
内容は、
「2014世界かんがい施設遺産に登録された淡河川疎水・山田川疎水(これが正式名称のようです)の諸施設をバスで巡る兵庫県庁神戸土地改良センター農村整備課主催無料ツアーの募集」
とあったので、
「これこそ長年の疑問を解く千載一遇の機会」
と、さっそく申し込むと、日頃の籤運の悪い小生が倍率4倍を超える狭き門を潜り抜け、めでたく参加者リストに入ることができたのです。
2.淡河川頭首工
当日朝、県公館前を出発したバスは、布引トンネルを潜り、丹生山塊を越え「淡河道の駅」を経由し、そこから1.8㎞東にある最初の見学地「頭首工」に隣接した淡河川沿いの空地に到着。
バスを降り、川幅30m程の河原出ると「洗堰構造の小さなダム」と「小さな取水口」からなる「頭首工」がありましたが「たいそうな名前」とはかけ離れた貧弱な施設です。
取水口から続く用水路も幅1mの地味なコンクリート溝で、印南野台地までの平均勾配が1m/2000mしかないということからか、流速は極端に遅く、淀んでいるようにしか見えません。
用水路に沿って西にしばらく歩くと僧尾川の谷を横切る大きな土塁があり、水路は最上部を通って谷の向こうまで続いていました。
淡河地区の見学はここまでで、参加者は「道の駅」に戻り、バスに乗車し次の目的地「御坂(みさか)サイフォン」に向かいます。
3.御坂サイフォン
見学者は眼鏡橋北側の神社でバスを降り、ここで県の担当職員から同サイフォンの説明を聞きました。
それによると、
設計は英国人H・S・パーマー、英国から鍛鉄製の送水管を輸入し、現地で組み立て敷設するという大工事で、疎水工事予算の1/3が投じられ、明治21(1888)年に竣工しということです。
ちなみにサイフォンとは「A地点とB地点の高低差を利用して、途中の障害(隆起や窪み)を越えて、送水管を敷き、水を通す仕組み」のことで「疎水」は「標高132.34mの北側の山」から志染川にかかる「標高56.95m眼鏡橋のたもと」まで高低差75mを下り、橋を渡ると今度は「南側の山の129.89m地点」まで高低差73mを登って南へ向います。
参加者も橋を渡り「送水管路の南側の急な階段」を登ったところにある三木総合防災公園まで歩き、神社から回ってきたバスに乗車、神出の農業公園に移動し昼食となりました。
3.練部屋(ねりべや)分水所
13:00になり農業公園を出発「練部屋分水場」を経由して最終目的地「淡山疎水・東播用水博物館」を目指します。
竣工時、水流は「頭首工」の閘門から5日間かかって「練部屋分水所」に着き、ここで5方向に分けられ台地各所に向かっていましたが、現在は「同分水所」より手前の「広野ゴルフ場分水所」や「老ノ口分水所」からも分水され、一部の水路は台地南端で海岸近くの「魚住」までのびています。
「練部屋分水所」は淡河川疎水竣工時煉瓦造りの「方形」でしたが明治27(1892)年の改修により「六角形」に昭和34(1959)年には直径10mのコンクリート製に改修されたそうで、ぜひ間近で見たかったのですが、道路沿いにあり、大勢の接近は無理ということで、県職員の説明を聞きながらバス内から見学しました。
4.淡山疎水・東播用水博物館
施設の見学や写真撮影に忙しく、久々の早起きで移動中の車内で昼寝していたこともあり「溜池のなぞ」や新たに生まれた「細すぎる用水路のなぞ」の解明ができないまま最後の目的地である同博物館に到着。
ここでは少人数に分けられた参加者に担当職員が、淡河川・山田川疎水のメカニズムについて、展示パネルや資料を参考にしながら、丁寧な説明を行いました。
要約は、
・淡河川・山田川近隣の農村では「田植期(5月末)」から「稲刈期(9月末)」までの農繁期には、両河川の水を優先的に利用するため、淡河川・山田川疎水に通水することはない。
・しかし「9月末」から翌年の「5月末」までの農閑期になると、近隣農村で需要のなくなった両河川の水を24時間、休むことなく印南野まで通水する。
・「分水場」で枝分かれした水路はさらに小水路により各所の溜池に通じていて、印南野に到着した水は「滴水が何十日もかかって風呂桶を満杯にするように」長時間かけて溜池に水を満たす。
・農繁期になると、溜池の貯水を周辺の水田に引き稲作を行う。
・現在は、丹波篠山市の川代ダム、三田市の大川瀬ダム、神戸市の呑吐ダムなど新たな水源ができ、通水量に余裕ができ、用水に加えて上水道も整備された。
ということでした。
説明を聞きようやく長年の疑問が解けました。溜池と疎水は不可分の関係だったのです。
スケジュールがすべて終わり、
「副読本にもう少し詳しく疎水と溜池の関係について記されていれば、長年疑問を持たなかったのに」
と副読本に恨みを持ちつつ乗車したバスは台地を西に向かい、西神中央を経由して、明石駅に着き、ミニツアーは解散となりました。
小→大・・?
9月になりようやく殺人的な暑さが和らいできたので、ベラ釣りを計画したのですが、都合のいい日が中々見つからず、空いている9月12日(土)は最悪の「長潮」で釣果は期待できません。
潮見表によると午前中は干満なし、15:00過ぎからようやく動きだし17:50に満潮ということで、暗い気持ちで遅がけに出発し、14:00過ぎに岩屋防波堤に到着しました。
釣座を決め早速仕掛けを下したところ、いきなり5㎝にも満たない「クサフグ」が喰いつき、それ以後何度下しても「ミニフグ」が「サヨリ3号」を飲込むか、噛み切っていく始末。
ベラの魚信は全くないのですが、時々かかる「ミニチャリコ」が強い引きをみせてくれるので、がまんして仕掛けを変えませんでした。
しかし、潮が動き始めた16:00を過ぎても相変わらずの「ミニフグ攻撃」は続き、「チャリコなら大きな針でもかかるだろう」と思い、大きさが倍以上の「キツネ1号」に変えた途端・・・。
「ミニフグ」の魚信は嘘のようになくなり、15㎝以上のキュウセンや青ベラが次々掛かり始めました。
驚くべきことに「サヨリ3号」でないと針にのらない10㎝以下の「ミニベラ」まで釣れてきます。
食いが渋くなり「キツネ1号」を「サヨリ3号」に変えたことによりベラの喰いが立つことは度々ありましたが、その反対は初めてでした。
防波堤の根元まで波が洗うようになった17:00過ぎに納竿し、帰りの電車の中で本日の海中の様子を想像してみました。
おそらく、あの時、海中には「チャリコ」が少し混じる「ミニフグ」の巨大な群れがあり「サヨリ3号」に刺した小さな餌に争うように喰いつくので「ベラ達」は「ミニフグ軍団」に妨げられ餌までたどり着けなかったのが・・。
針・エサを大きくしたため「ちびっ子達」は餌をかじることはできても針に喰いつくことはできなくなり、一方「ベラ達」は群れをかき分けて餌までたどり着き、喰いつくことができるようになったことが、釣れる魚種のチェンジにつながったのでは・・。
今回の釣行では釣り方の工夫に関する「解」を一つ得ましたが、また新たな状況を迎えた時、試行錯誤の果てに新たな「解」にたどり着くことができるのか?
「うーん・・・釣りは本当に難しい」