日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
経絡秘孔を突く
小生は20代から50代初めまで肉体労働を続けてきた結果、腰や肩の強さには絶対の自信があり、肩痛や腰痛とは無縁でしたが、寄る年波には勝てず60代半ばから、徐々に左肩の調子が悪くなり、正月が明けた頃、ひどい肩痛に襲われ、腕が全く上がらなくなってしまいました。
仕方なく接骨院に行き、診察を受けると五十肩だと言うので、
「自分は60代なのに五十肩と言うのは変でしょう」
と反論すると、
「五十肩と言うのは通称で、本来の病名は肩関節周囲炎と言い、完治まで時間がかかる」
とのこと、
その日から「マッサージ+針治療」を週2回受け、3週目になると、ようやく肩の高さまで、腕が上がるようになりましたが、痛みと筋肉のこわばりのためそれ以上は上がりません。
2月入って最初の診察日、担当の鍼灸師が月末で辞めたため、系列の院から助人に来た20代の鍼灸師に初めて診てもらいました。
彼は十分触診をした上で、
「今までは激痛がある方の肩の表側に針を打っていましたが、場所を変えて、肩の裏側に打ちましょう」
と肩の裏側に針を打ったところ、針先に小さな爆発があったような未経験のインパクトがあり、
「これは効いたぞ」
実感した時、
「さあ、上げてみましょう」
との指示があり、腕を上げてみると・・・。
何の痛みも抵抗もなく、予期せぬ勢いで「ビヨーーン!!」と上がったので、体が右に傾き、椅子から滑り落ちそうになり、診療室中に聞こえるような声で、
「あがったよ!!」
と叫んでしまいました。
小生は腱鞘炎になった時とパソコンの打ち過ぎで首が回らなくなった時にも鍼灸治療を受けましたが、こんな劇的な効果があったのは初めてだったので、
「針がこんなに効くとは思いませんでした」
と褒めると、
「五十肩のツボは表と裏にありますが、裏のツボの反応が良かったですね」
と冷静に答えるのを聞きながら「北斗の拳」の
「経絡秘孔を突く」
という言葉を思い出しました。
ケンシロウは触診もせず目視だけで「経絡秘孔」を突き、相手を絶命させたり復活させたりする恐るべき能力を持っています。
彼が鍼灸院を開けば「神灸師」などとほめたたえられ、患者が蝟集し、門前市をなすことは間違いないでしょう。
古語は生きている
・錦織(にしごおり)の反対言葉
今から40年以上前の昭和50年代終わり頃、小生は大津宮推定地といわれていた大津市錦織遺跡の遺跡調査現場で、地元農家のおばさんたちと一緒に発掘のアルバイトをしていました。
当時、現場監督がおばさん達に「きつめの仕事」を言いつけると、おばさん達はなぜかみんな揃って「やさし・・」と答えます。
それを聞いた監督は「また錦織の反対言葉が出た。やさしは、きついということやろ」と言い返すのですが・・。
私は「京都のぶぶ漬け」に類する地元特有の言い回しだろうと聞き流していました。
ところが先頃、たまたま古語辞典をみていて、古語の「やさし」は「痩す(やせる)」の形容詞形(シク活用)で、本来の意味は「身が細るようである。つらい」であることを知ってしまいました。
錦織のおばさんの「やさし・・」は反対言葉ではなく、自分の気持ちを素直に表す言葉だったのです。
しかし、この解釈については問題点があり、
同辞典によると「やさし」の意味が「つらい」であるのは、平安時代中頃までで、平安時代末になると「優美である、上品だ、しとやかだ」という意味に変わり、さらに鎌倉時代は「けなげである、殊勝だ、感心だ」「情が深い、心が優しい」になり、江戸時代に至ってようやく「容易である」という意味が加わるとのこと。
錦織では、平安時代中頃の言葉の意味を一途に守り続けていたことになりますが、果たしてどうなのでしょうか?
・おらぶ
今治で仕事をしていた頃、大声で叫ぶという意味で使われていましたが、実は「ば行四段活用」の動詞で、万葉集にも出てくる大変古い言葉です。
もとは泣き叫ぶという意味でした。
四国地方全体で使われていますが、関西や関東では廃れてしまったようです。
平成4年最後の釣行
12月5日(月)塩屋防波堤に進行。10時頃到着し竿を下しましたが、数日前に急に寒くなったせいでベラたちは冬眠に入ったらしく、釣れるのはクサフグばかり、2時間もすると風が強くなり、寒さが身に染みるようになりました。
納竿しようかなと思い始めた頃、大きな魚信があり竿を立てるとずっしりとした重みが。ようやく大物が来たと喜んでいたのに姿を現したのは20㎝近いフグ。
フグ料理免許を持っている知り合いもいないし、しかたなく逃がしたところで納竿、今年の釣り納めとしました。
2022年、豆アジはさっぱりでしたが、ベラは大型も交えて沢山釣れました。
さて、来年はどうなるでしょうか?
今年のベラは大きいぞ!
11月3日(祝)塩屋に釣行、釣果は3時間弱でクサフグも合わせて25尾、ベラは大半がキュウセンで、昨年は結構釣れていた磯ベラの姿がありません。
また、大型が多く18㎝を筆頭に16㎝越えが4尾も!
ハス(オイカワ)用の細いノベ竿を使うので、引きも強烈、中々水面に姿を現さず、釣趣は抜群です。
そろそろ、釣りシーズンも終盤ですが、残り少ない釣行が楽しみです。
釣行二題
春のシーズンは、鉛筆サイズのサバ横行(泳)?により、豆アジ釣りは超貧果に終わり、夏場は猛暑と野暮用で全く釣行できないという最悪の状況でした。
ようやく10月10日に塩屋防波堤に出かけたところ3時間弱でベラ17尾、チャリコ2尾という釣果、ベラの大半はキュウセンで、そのうち5尾は15㎝越えのよいサイズ。
10月23日は朝霧に進行、ここは景色が大変良く明石海峡大橋を渡る車や、海沿いの軌道を走るJRや山陽電車を眺める楽しみもあります。
釣果は、バリコ(アイゴの子)1尾、丸ハゲ4尾、ベラ16尾でした。ベラは小型多く、キュウセンは1尾のみ。
バリコは毒針があるので、逃がそうかと思いましたが、個体数が増えると藻場を食荒らし、磯焼けの原因となるらしいので持ち帰ることにしました。
巨像の沈降
・深夜の渋滞
大学を卒業した頃ですからもう40年以上前の話です。
東京からの帰り、東京駅バスターミナルから大阪行きドリーム号に乗車。
11:00過ぎ、出発したバスは、八重洲入口から首都高に入り、渋谷を経由し、用賀にある東京インターから、東名高速を西行するのですが、首都高に入りしばらくするとバスの速度が遅くなりやがて停まってしまいました。
それから、少し進んでまた停まるを繰り返し、渋谷の手前でようやく順調に走行し始めました。なんとこんな深夜に渋滞していたのです。
「異常だ。原因は首都圏の人口が多すぎるからだ」
と、何とも不安な思いがしました。
・南武線の混雑
平成の初め頃、武蔵溝ノ口駅から昼下がりの南武線に乗ると、どの車両もいっぱいでまるでラッシュ時の様な込みようです。
関西では昼下がりの国鉄は大抵ガラガラなので、衝撃を受け、
「これはだめだ、首都圏は人口が多すぎる」
と、やはり不安な気持ちがこみあげてきました。
東京で就職した友人から
「多摩や相模の山奥から私鉄に乗って都心を目指す電車は、始発駅で満員になり都心近くの駅では積み残しが出る」
という実態を聞いたことも。
昭和50年代に上京した折、山手線や京浜東北線の電車が10両もの長尺で走っているのを見て驚愕したものですが、現在は16両に増えています。
・弾丸富士登山
やはり平成の初め頃、友人4人で車に乗り、神戸を出発、交代で運転し、夕方「富士山五合目登山口」の「第3パーキング」に到着、夕方から徹夜で登山し御来光を見て下山、昼前くたくたになって「パーキング」に戻りました。
ところが車の所有者がまだ戻って来ません。おそらく土産屋で品定めをしていて遅れたのでしょう。
仕方なく車の外で待っていると子供連れの見知らぬ男が現れ標準語で、
「車を出されたらそこに入れさせてくれませんか?」
と尋ねます。
「いいけど、車はどこにあるの」
と、聞くと
「300mほど下ったところにある第10パーキングにあるので、すぐに取りに行きます」
と、答えます。遠目に見ると道路沿いに駐車場が何カ所もあり、かなり下のパーキングまで満車状態。
「ドライバーが戻ったらすぐ出しますけど」
男は、頷いて、
「子供に番をさせます」
と言い、
「取りに行っている間に車が出たら、場所取りをしていろ」
と命じて、車を取りに行きました。
首都圏の住民はレジャー先でも混雑に巻き込まれていることに同情ひとしおです。
・巨像の沈降
コロナ禍のニュースの度にスカイツリーを中心とした都心の俯瞰映像が放映されます。
まるでカイガラムシに占領された葉のように、白々とした緑の少ない無機質な町ですが、全国津々浦々から人間を吸い寄せ、人口を増やすことで繁栄を享受してきました。
しかし、小生が度々感じていた「都市の限界を超えた人口」が弊害及ぼす時がコロナ禍とともに到来。
首都圏では、検査体制が整わず、発熱外来もパンクし、救急車のやりくりがつかず、重症病床使用率も上昇、コロナの初期には、東京に行くのを敬遠したり、東京から来た人を忌避したりする状況まで生まれました。
草原を縦横無尽に歩き回り、飽食し、巨大化した像が、コロナの底なし沼にはまり、有利であった重量が不利に転じ、どんどん沈んでいく恐怖を初めて味わっている。
そんなように思えるのですが、いかがでしょう?
今年の初釣行
5月29日(日)晴天、フィッシングマックスのバナナフレーバーアミエビ「楽ちんサビキ」を持って、舞子にマメアジ狙いのサビキ釣に出かけました。
現地につき、釣座を構え、件の餌をチューブから「アミかご」に絞り出すとバナナとアミエビの匂いが合成された吐気を催すほど強烈な悪臭が漂います。
これならかなり集魚効果もあるだろうと期待したのですが、3時間余りで、金魚よりもはるかに小さなマメアジ2尾、イワシ1尾、やせ細った鯖2尾の貧果に終わりました。
例年、海水温の低い5月の初釣行は貧果が多いので、今後に期待しましょう。
好きなバス路線その4 京都市バス5系統 4
宝ヶ池 「修学院離宮道」を過ぎると、高校駅伝(男子)や全国女子駅伝で難所といわれる白川通を越える跨道橋の急勾配の登り降りがあります。
宝ヶ池は江戸時代築造の溜池ですが、周囲は現在公園になっており京都が舞台のサスペンスに度々登場。
またバス停前の「叡電宝ヶ池駅」から乗車すると、終点の「八瀬比叡山口駅」で比叡山上に至るケーブル、ロープウエイに乗り継ぐことができます。
花園橋 坂道を走り続けると国道の分岐点があります。この道は八瀬、大原、葛川、朽木を通り若狭上中に至る古道で、金ケ崎城の戦いで浅井長政の裏切りに会い京都に逃げ帰った織田信長軍団が通った歴史があり、若狭で取れたサバに塩をして一日かけて京都に運んだ「塩鯖街道」としても著名です。
上高野 岩倉大鷺町 さらに坂道を進み、遂に岩倉の高台にたどり着きました。ここの標高は94m、出発地点の京都駅前が28mですから、64mも登ってきたことになります。
岩倉というと「市内中心部で雪が降らないのに大雪だった」「同中心部で雪が解けたのに積雪がまだあった」「岩倉から降りてきたバスの屋根に雪が沢山積もっていた」
などの「寒さ伝説」の要因はこの標高差にあることが分かります。
国際会館駅前 京都国際会館は1966(昭和41年)に開館した日本初の国際会議場で1997年12月の世界温暖化防止京都会議(COP3)、2003年3月世界水フォーラムなど重要な会議が行われています。
また、高校駅伝(男子)や全国女子駅伝の折返し点は、国際会館の進入路に設けられています。
岩倉操車場前 いよいよ終点に着きました。ここから10分ほどかけて幡枝の医院まで歩きます。医院が開設した30年前は葱畑ばかりだったのにずいぶん住宅が増えてきました。
途中にある妙満寺は室町時代創建の古刹ですが、近年、日本で3番目に古い高麗仏画が収蔵品の中に確認されたことが話題になりました。
まとめ 一系統のバス路線の中に重要な史跡、文化財が山のようにあり、もう満腹です。多分、他の系統のバス路線も同様なのでしょう。
都の長い歴史の蓄積には脱帽する以外ありません。
好きなバス路線その4 京都市バス5系統 3
錦林車庫 西側の岡にへばりつくように立地する「京都市バス錦林車庫」は、元は市電の車庫でした。近隣にあるノートルダム学院中学・高校の衣替えは都の歳時記となっています。
浄土寺 浄土寺バス停の近くには浄土寺郵便局があり、随分前に局長がDJを勤めるラジオ番組を聞いた記憶があったので、改めて調べてみると、現在もラジオDJをされているようでした。
銀閣寺道 バス停から東に数分の東山山麓に超有名寺院がありますが、京都市東隣の大津市に25年も住んでいると「いつでも行ける」と足が遠のくせいか、一回しか訪ねたことがありません。
北白川校前 この辺りはバス停ごとに小さなスーパーやドラッグストアがあり、それらを利用する老人達たちの乗り降りが目立ちます。
京都市は市バスの敬老パス負担額が神戸市に比べて大変安く、利用する老人も多いようです。
しかし、市は財政赤字を少しでも返すために料金の値上げを計画しており老人で賑わうバスの光景もあと僅かかも知れません。
北白川別当町 琵琶湖岸の「大津市錦織」から比叡山の山頂近くの「山中町」を通り京都盆地の「北白川」に至る「山中越え」は、山科盆地回りより短時間で近江に移動できる古代から重要道。沿道には200㎏級関取ほどの巨大石造仏が道中の安全を静かに見守っています。
上終町 京都造形芸大前 一般の大学と違う際立つ個性の女子大生がバスを降りてゆきますが、不思議なことに男子学生は地味で個性を感じさせません。
また「上終(かみはて)」は難読地名として有名ですが、確かにこの辺りから沿道に京野菜畑が増え「都の外れ=洛外」に風景が変わります。
一乗寺木ノ本町 一乗寺下り松町 一乗寺清水町 平安時代創建で南北朝時代に廃絶した一乗寺を地名とするバス停が3箇所続きます。西側山麓には曼殊院、圓光寺、金福寺、詩仙堂などの名刹があり、いずれも紅葉の名所として知られています。
一乗寺下り松は昔から著名な街道沿いの松で現在は四代目。その名にちなんだ「一乗寺下り松の決闘」は宮本武蔵の決闘としては「巌流島」とならぶ著名なもので、萬家錦之助主演の武蔵が吉岡一門の総代とされた11歳の少年を最初に斃し、その後、門弟を斬って斬って斬りまくる映画が記憶に残っています。
修学院道 修学院離宮道 修学院は平安時代創建寺院ですが、中世には廃絶し、江戸時代(17世紀)後水尾上皇が跡地に離宮を造営しました。
桂離宮とともに江戸時代を代表する離宮で、その素晴らしい景観を鑑賞したいと思いながらもまだ訪れる機会がありません。
北山通を過ぎ、京都盆地に別れを告げると、バスは北山の高地に向かう坂道を登り始めました。(続く)
『好きなバス路線その4 京都市バス5系統』2
三条京阪前 鴨川沿いの川端通りを南下したバスは高山彦九郎が遥拝する川端三条交差点を右折、今は地下に潜った「京阪三条駅」もかつては、目の前の鴨川堤に建つ風流な駅でした。
ただ「京津線ホーム」のみ平成9年まで地上に残っていて「四宮行普通電車」が恐竜の断末魔の叫び声に似た悲しげな警笛とともに出発してゆくのを度々見かけました。
バス停近くの檀王法林寺には日本最古の招き猫伝説が伝わっているそうです。
東山三条 バスは三条通を東進します。通り北側に建つ有名仕出し店「辻留」の隣は長い間更地でしたが、ようやく建物が建ち始めました。
神宮道 東山通を過ぎ、しばらくして三条通り右折し、神宮道に入ると平安神宮の大鳥居が行く手に見えてきます。
岡崎公園美術館・平安神宮前 疎水を渡り、大鳥居をくぐると、左に国立近代美術館、右に改装された京都市京セラ美術館があります。此処を通る時はいつも、同館の市立美術館時代「エジプトミイラ展」の入場者列が館を二重に取り巻いていたことや印象派展で「印象 日の出」を初めて見たことを思い出します。
岡崎公園・動物園前 平安神宮応天門(正門)前まで進み二条通を右折すると、バス停の右手に京都市動物園の門が見えます。
岡崎法勝寺町 二条通を東に進むと立派な門構えの御屋敷が続く高級住宅地に同バス停はあります。
名前の由来は平安時代末期白河天皇が発願し、造営された「法勝寺」ですが、高さ80mの九重の塔を持つ巨刹も戦国時代には廃絶し、現在山号のみが地名として残っています。
南禅寺・永観堂道 二条通は白川通りに突き当るので、右折するとビッグネーム「南禅寺・永観堂」が並列するバス停があります。残念ながら両寺院ともバス停からかなり離れた場所にあります。
東天王町 バスは北山に向けて白川通を北上し、丸太町通りを越えると、道も4車線に広がります。西側には「法然」が隠棲した草庵が後に浄土宗大本山となった「金戒光明寺」が建ち、その北側には「うなずき弥陀」の異名をもつ、木造阿弥陀如来像が本尊の真如堂があります。