1、上皿天秤と薬包紙
幼稚園から中学生までの間(昭和30年代から40年代初め頃)小生は持病の小児喘息発作が月に何度も起こり、その度「掛かりつけの内科医院」に連れて行かれました。
そこは「最寄り市電停留所」の「次の停留所」近くにあるので、たいてい父と市電に乗って出かけます。
発作で苦しいのに市電に乗った途端、ずっと乗っていたくなるのですが、残念ながらすぐに下車し、大きらいな細い坂道を下って「医院」まで歩かなければなりません。
この道の街灯は電球のため街は暗く、その上途中に「マムシ酒」の大きな瓶をウインドウに飾っている店があり、それが怖いので店の前を通る時は反対側に目を反らします。
この難所?を過ぎると未舗装の広い道が坂道に交差していて、東に曲がるとようやく目的地が見えてきました。
「医院」は大きな看板は出ているのですが、外観は普通の和風家屋で、玄関を入り右の廊下に進むと受付のガラス窓があり、窓の向こうに座っている看護婦さんに保険証を渡し、庭に面した廊下をさらに進み、右側の扉を開けると中は帽子掛けとソファとある待合室になっています。
ソファに座ってしばらくすると、看護婦さんに呼ばれ、父と一緒に診察室に入ると蓋の端から湯気をさかんに噴き出している「注射器の煮沸消毒器」が脇の棚の上にあり、大きな机の左側に老先生が座っていました。
入室し、机の前の丸椅子にちょこんとのると、先生は小生とそばに立っている父から病状を聞き、聴診器で胸にあて「何時もの発作ですなあ」と毎度おなじみの診断結果を宣い、横の棚から「薬液のアンプル」を出し「ハート形のヤスリのような小カッター」で首のところを少し削り、アンプルの先をもって折ると「ポン」と音がして先の部分が取れます。
すかさず看護婦さんが「煮沸消毒器」の脇にあるケースから細い注射器を出して先生に渡たすと、消毒液の付いた脱脂綿で小生の「二の腕」を消毒。
先生は注射器でアンプルから注射液を吸い取って、上を向けてピストンを動かし針から空気を押出すと、針が腕にズブリと突き刺ささり、とても痛いはずなのですが、痛みの記憶は全くないのです。
実は、この先生「皮下注射を痛みなく打つ不思議なテクニックを持つ魔術師だった」のかもしれません?
無事診察が終わると、薬の調合が終わるまで待合室で待つのですが、小生は父を部屋に残し、受付へ行き、窓から看護婦さん(薬剤師さんだったのかもしれません)が「薬を調合」する様子をじっと眺めるのが定番となっていました。
その「調合」を最初から順を追って記すと、まず先生の持ってきたカルテをも見て、横の棚から「茶色の瓶」を幾つか、机の抽斗から「硫酸紙」を何枚か取出します。
次に「上皿天秤」の片方に分銅を南個か載せ、反対側の皿には「硫酸紙」を置き、銀色の匙で「瓶」から「薬の粉末」を掬い、その上に載せて、釣合の取れるまで粉薬の増減を実施。
「出した瓶」全てから粉薬を掬い出し、定量にすると、それらを一つの「乳鉢」に入れ「乳棒」で混ぜ、新たに取出した「大きな硫酸紙」にあけますが、その時乳鉢や乳棒に付着した粉末は「小さな刷毛」で丁寧に「紙」に落とされます。
最後に皿の片方には、先ほどよりずっと小さな分銅が、もう一方には「薬包紙」が置かれ「大きな硫酸紙」上の粉薬を「先ほどより小さな匙」を使って少しずつ「薬包紙」に移し、釣合が取れると「紙」は降ろされ、手早く折りたたまれました。
薬が配分された十数枚の「薬包紙」全てをたたみ終えると、飲み薬に取り掛かりますが、こちらは大きな瓶から「茶色の飲薬」を目盛りの付いた小瓶に移すだけなのですぐ終わります。
薬の調合が終わり、待合室に連絡がゆくと、父が出てきて会計を済ませ、薬をもらい、元来た坂道を戻るのですが、発作で息苦しい上「マムシ」が怖い往路と違い、症状も少し軽くなり、甘い飲薬までもらっているので気分は軽く「市電の停留所までの坂道を元気よく登っていこう」意気込むのですが「マムシ」の前まで来るとやはり怖さに耐えられず、往路同様目を反らし通り過ぎるのでした。(続く)
※「看護婦」という言葉を用いることは現代にあっては不適切かと思われますが、拙文は半世紀前の記憶の再構成であり、この言葉も当時は一般的に用いられていながら、現在は歴史的用語としてしか存在しえないことを認識した上で用いています。
これが薬包紙です
シロンSは今でも薬包紙を使っています