咽郷雑記

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

エビフライの下賜

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 平成の初め頃、宮城県多賀城市の東北歴史資料館で東洋陶磁学会の大会があり、私もはるばる滋賀県から参加しました。

 出席者は事前に弁当を予約していて、午前の研究発表が終わると、受付で引換券を出して、弁当を受け取り、食事場所に指定された会議室に集まります。

 私も適当な席に座り、蓋を開けておかずをチエックしていると、隣に座った男性が「私はエビフライがあまり好きではないのですが、よかったら食べませんか?」と言われるので、御顔を見るとなんと尾張徳川家二十一代当主の徳川義宣氏でした。

 義宣氏は徳川黎明会の会長や徳川美術館館長、東洋陶磁学会会長を務められた有名な陶磁器研究家で、大会にも参加されていたのです。

 私は「よろしければいただきます」と言ってエビフライ2個を拝受しました。食事が終わると斜め前に座っていた女性の研究者が「殿様から直々にエビフライをいただくなんて、江戸時代なら大変名誉なことよ。家の誇りよ」と言います。

 確かに江戸時代なら私のような軽輩が御三家の御殿様に御目見えして、何かを拝領する機会は絶対ないでしょう。

 名古屋人のエビフライ好きはタモリ氏がかってに言っているだけですが、尾張の御殿様がエビフライをあまり御好みにならないとは!当時のことを思い出すと頬が少し緩んでしまいます。

セイタカ君(制多伽童子)とコンガラ君(衿羯羅童子)

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 この少年2人には彼らの本拠地で2回、旅行先で2回の計4回も対面しています。(※実は2人には他に6人御仲間がいて8人のチーム「八大童子」を結成しているのですが、今回御仲間のことは触れません)

 昭和52年、彼らの本拠地「高野山霊宝館」で初めてお会いしましたが、その時の記憶はかなり薄れていて「セイタカ君」は頭にキノコが生えた「キノコの妖精」だとずっと思っていましたし、「コンガラ君」の記憶はまったく残っていません。

 2回目は平成の初め頃、盛夏の奈良国立博物館で実施された戦後最大規模の「運慶・快慶展」でした。当日は大変暑い日で、木陰であおむけに寝転んでいる鹿や涼を求めて猿沢の池に浸かっている鹿もいました。

 会場に入ると両巨匠の代表作がこれでもかというほど鎮座していましたが、一番印象に残ったのは東大寺の僧形八幡神像で、残念ながら少年たちの記憶はほとんどありません。

 3回目は昨年の春、あべのハルカス美術館でした展示の中心が「八大童子」のオープン展示だったので、じっくり対面することが出来ました。意外だったのは背丈が1m程度と思っていたより低かったことです。

 4回目はその夏、開創1200年の賑わいの真っただ中の「高野山霊宝館」で、すっかりおなじみになった2人に「よく会うね」と声をかけました。

 ところで、「コンガラ君」はおとなしそうな顔をしていますが、やはり気が弱い少年なんだそうです。髪も前やサイドはかなりきつく巻いていますが、後ろは自然な内巻きで、まじめな女子高生のようです。

 しかし、背中は素肌に幅広の襷をクロスさせた大胆な装いに、少し腰をくねらせて中々の艶姿をみせています。女人禁制の山中では人気があったでしょう。

 「セイタカ君」は「まっかっかなお顔」に「ど派手なヘアスタイル」、「でっかいスカーフ」もきまっています。たぶんおしゃれな「おこりんぼ」なのでしょう。

 

セイタカ君とコンガラ君 コンガラ君の後姿

セイタカ君とコンガラ君 コンガラ君の後姿

 

サビキは魚を狂わせる

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 今治城の堀は釣り禁止なので外海では逃げ隠れしている魚も人目を気にすることなく悠々と泳いでいますが、中でも多いのがチヌで尺以上を何尾も数えることができます。

 堀端のバス停でバスを待っていた時、食べていたパンをちぎってチヌの群れに投げてみました。すると1尾がパンの切れ端に近づいてしばらく見つめていましたが、そのうち鼻で何度かつついた後、咥えるとすぐに吐き出しました。

 しばらくしてまた咥えましたが、吐き出します。3回目も咥えて吐き出し、4回目にしてようやく飲み込みました。パンを与えてから5分以上も経過していました。

 私は「魚信があったら煙草を一服つけろ」というチヌ釣りの格言を思いました。なるほどチヌ釣りに早合わせは禁物なのです。

 10月のある日、サビキ仕掛けで鯵釣りに出かけました。4時過ぎまでは、ぽつぽつだったのに、夕まづめを迎えると突如入れ食いになり、1時間ほどで21尾の五目釣りになりました。

 中でも25㎝を超えるのチヌが3号のサビキに喰いついてきたのには、びっくりしました。あの慎重なチヌの同族とは思えない無分別さ、サビキには魚種を問わず魚を狂わせる恐るべき働きがあるようです。

一番おいしいのは真鯛、まずいのは海タナゴでした。

一番おいしいのは真鯛、まずいのは海タナゴでした。

 

(今でも)幻の都「大津宮」?

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 天智天皇の近江大津宮(667年~672年)は5年間だけ存在した都です。その推定地は、京阪石坂線「近江神宮駅」の西側付近とされ、今では住宅地の中に整備された狭い調査地点が点在しています。

 昭和50年代、私は大津宮推定地の発掘調査の手伝いをしたことがありますが、当時の「現場担当者」の悩みは、推定地内の遺構(柱穴や溝)から大津宮時代(7世紀後半)の土器が出土しないことでした。

 実は、近江神宮駅から南へ250mほど離れた「北大津遺跡」では、昭和47年から49年にかけての発掘調査で、調査区内の「溝跡」から7世紀後半(大津宮時代)の土器が堆積した層が見つかり、「漢字万葉仮名による読みセットで記された」日本最古の国語辞典ともでもいうべき「音義木簡」も一緒に出土しました。

 「この溝の上流には大津宮跡があり、遺物も大津宮から流れてきたものである。このことから大津宮の存在は確認された」と喜びの声を上げる研究者も現れましたが、この「溝跡」の発掘調査には大きな問題がありました。まず自治体などによる正式な発掘調査報告書が刊行されていません。また、「音義木簡」については「遺物出土状況写真」「遺物出土状況図」「遺物出土土層断面図」がなく、「どこから?」「どのように?」出土したのか分かりません。

 さらに、昭和61年になって地元の研究者が上記の「溝跡出土土器」を詳細に検討したところ、7世紀中頃(大津宮時代)の土器の中に、8世紀初め(奈良時代)の須恵器が混じっていることを確認しました。

 考古学では、「まとまって出土した遺物の堆積年代」は「最も新しい時期の遺物」に合わせますので、「溝跡」土器が堆積した時期は奈良時代となり、一緒に出土した「音義木簡」の年代も奈良時代の可能性が出てきました。

 ところで、「音義木簡」は「考古学研究者」だけではなく、「国語学研究者」の間でも大変有名です。しかし、残念ながらほとんどの「国語学研究者」は北大津遺跡出土遺物の「昭和61年報告」を知らず、「発見時(昭和47-49年)の情報」が唯一の知見なので、いまだに「音義木簡」の年代は「大津宮時代」(7世紀後半)であると信じこんでいることは、大変残念なことです。

 さて、その後「大津宮推定地点」の遺構から大津宮時代の土器は出土したでしょうか? 実はまだ出土していません。物的証拠がない以上、大津宮はいまだ「幻の都」言わざるを得ないでしょう。

 大津宮推定地点では意外なことに平安時代の土器や瓦がよく出土します。私は大津宮の建物群といわれているのは、かつては今の境内の何倍もの広さがあった三井寺の関連寺院跡ではないかと思っていますが、いかがでしょうか?

東京オリンピックの思ひで

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 国立競技場の建替えやロゴの問題もようやく落ち着いた今日この頃、前回の東京オリンピックが開催された時(昭和39年)のことをお話ししたいと思います。

 その年、私は小学校1年生、実家には白黒テレビがあり開会式中継を見に家族全員がテレビの前に集合。荘重なファンファーレの後、軽快なオリンピックマーチの演奏下、ギリシャを先頭に各国選手団が行進し、最後に日本選手団が入場してくると父がおもわず歓声を上げました。

 当時は、家にテレビがなく、オリンピック放送が見られない子供達もいたことから、母校ではテレビ放映時間に合わせて1クラスずつ校長室に入り、試合を観戦する行事を計画し、私のクラスは、「柔道無差別級決勝戦 神永対ヘーシンク戦」を観戦することになりました。

 当日、生徒も担任も、「日本の御家芸が外国人に負けるはずがない」と期待に胸躍らせて校長室に入り、観音開きの戸があるテレビの前に陣取りました。しかし、試合が始まると神永選手は終始劣勢で、とうとう寝技に抑え込まれてしまい、制限時間がどんどんなくなってゆきます。

 そしてついに判定が下った瞬間、生徒も担任も貝のように押し黙りました。・・・校長室に沈鬱な時間が流れる間・・・テレビでは、神永選手が静かに立ち上がり、一礼し、会場を去り、対照的に日本のコーチや控え選手達の誰はばかることなく号泣する姿が放映されています。

 すっかり気落ちした1年生達は、我に返った担任に促され、無言で教室に戻ってゆきました。

査読論文の光と影(その3 査読論文の問題点)

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 締切日までに「研究誌の編集部」についた「投稿論文原稿」は、研究者で数名で構成される「査読委員会」に回され「査読(審査)」を受けます。数か月後、第1次査読が終わった「原稿」が「編集部」を通じて「投稿者」の元に戻ってきます。

 開封すると「文字や文章の訂正」や「様々な指摘」、「加筆」等が直接書き込まれた「論文のコピー」出てきます。別紙「指示書」が同封される場合もあります。

 「訂正、指摘、指示」の数は、論文の「出来」に応じて違ってきます。少し手直しすれば、「掲載OK」になる原稿もある反面、「資料の検討」や「まとめ」が不十分で「書き直し」を命じられるものもあります。

 「投稿者」は指摘に従って「原稿」を手直しして「編集部」に再送すると、再び「査読委員会」で審査され、「掲載OK」になると一連の工程は終了ですが、再び手直しの指示が付された「原稿」が返送されてくることもあります。

 「投稿者」は再度、手直しして「編集部」に送ると、3回目の「査読委員会」が開催されますが、一般的にはこれが「最終審査」となり、掲載、不掲載が確定します。

 さて、「投稿論文」が「査読委員会」の「公正・客観的な査読」によって評価される場合は問題がありません。しかし、意外なことに、「査読委員」の恣意的な見方による査読が行われる場合もあるのです。

 恣意的な評価で一番多いのは、「定説以外の見解は受け入れない」という「定説主義」です。人文科学は自然科学と違い「解」が一つではありません。また、「旧石器の捏造事件」のように「定説」が一夜にして消滅してしまうこともよく起こりますが、実際は頑迷な「定説主義」がはびこり、「定説を揺るがす独創的な論文」よりも「定説を検証する論文」の方が掲載されやすい傾向があります。

 さらに「投稿論文」に記された「見解」と「一査読委員の見解」が違う場合、その委員が「投稿論文」に「難癖」を付け「重箱の隅をつつくようにして小さな間違い」を見つけ出し、「針小棒大に」にあげつらい、「査読委員会」で不掲載を強硬に主張し、結局掲載しないという、暴挙が行われる場合すらあるのです。

 また、ある「研究誌」では「査読委員会」が張り切って査読レベルを高くし、「実績を積んだベテラン研究者」しか書けないような優秀な論文以外をどんどん不掲載にしたため、その「研究誌」は長い間「投稿論文」の掲載がなく、「学会発表報告」と「依頼原稿」だけの実につまらない冊子になってしまいました。

 逆に「査読委員」の読解力と文章力が低く、「指示書」も意味不明で、「この査読委員会あかんのちゃう」と思わせることもあります。

 以前、ある新興学会の「研究誌編集担当者」が「発刊10年目にして大学の教員から査読論文を受け付けてくれないかといわれたよ!」上気した顔でしゃべっていたことを思い出しました。彼は「査読論文を受け付けることは一流研究誌の証なんだ」と思ったのでしょう。

 しかし、件の研究誌が「査読」を受入れ始めると、やはり「定説」や「研究誌の体面」ばかり考えるようになり、「破天荒な論文」を敬遠して「常識的で当たり障りのない論文」ばかり載せる保守的な冊子なってしまったことは残念なことでした。

事前に査読してくれる業者もいます

事前に査読してくれる業者もいます

 

 

査読論文の光と影(その2 論文の書き手)

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 私は20代後半から30代にかけて、研究や仕事に役立つ「重要な考古学レポート」をたくさん集めたことがあります。記載冊子は「紀要」「年報」「特別展の図録」「発掘調査報告書」「文化財パンフレット」「文化財ニュース」「現地説明会のパンフ」等多種多様ですが、意外なことに本格的な「研究誌」に記載されている「論文」は多くはありませんでした。

 考古学論文の書き手は、①土木工事に伴う緊急調査により、億単位の予算で大規模調査をしている「市町村教育委員会や埋蔵文化財センターの埋蔵文化財調査員」②少ない予算で細々と学術発掘をしている「大学等の研究者」とに分けられます。

 しかし、「埋蔵文化財調査員」は「調査データ」はたくさん持っているのですが、発掘調査中に「現地説明会」を実施し、パンフレットを作製。発掘調査が終わると「発掘速報展」の原稿を書き、「発掘調査概要報告」や「発掘調査報告書」等も発掘調査後比較的短い期間で刊行されるので中々忙しく、ゆっくり論文に取り組んでいる時間は多くありません。

 では、「研究するのが仕事である」大学等の教授や准教授は、どんどん論文を発表するのでしょうか?実はそうでもありません。昭和50年代の大学と違い現在の大学は学生の教育に重点が置かれていて、教員一人当たりの授業時間も長く、各種会議も多く、中々研究時間が取れない上に調査予算も少ないので、まとまった論文が書けず、学位(博士号)を持っていない大学教授も結構多いのです。

 では一番多い論文の書き手は、やはり「大学院生(修士・博士課程)」でしょう。その中には定年後に入学した「シルバー学生」も多く含まれています。(その3)に続く

査読論文の光と影(その1 論文とは?)

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 私が現役の頃(昭和50年代)大学文科系学部では、大学を卒業し、大学院修士課程の試験を受けて入学。2年間で必修科目を履修し、修士論文を提出。更に博士課程に入学し、3年間履修。学位(博士)論文を提出して、口頭試問を受け、審査に通ると、めでたく学位(博士号)を取得することができました。

 ところが近年、上記に加えて「研究誌に査読論文が2本以上掲載されること」が、学位取得の条件になり、道が険しくなりました。大学院生達は学位論文を提出する前に、それぞれの専門分野の「研究誌」に「論文」を送り査読を受け、採用結果を待たなければなりません。

 今回はこの「査読論文制度」の弊害を紹介したいと思い筆を起こしましたが、その前に「学位論文」「査読論文」に共通する「論文」そのもの、特に私がよく読む考古学論文について検討したいと思います。

 一般的な考古学論文の構成は、巻頭の「第1章 はじめに」からスタートします。この章では、論文の「視点」や「ねらい」が記されますが、これについては、特に問題はありません。

 次が「第2章 先行論文(報告)の紹介」です。ここでは「自身の論文テーマ」に関連する「論文」や「報告」を網羅した上で、要約して紹介します。ほんの少しでも、自説にかかわる部分があれば記載するので、必然的に件数が多くなります。

 次に登場するのが「第3章 事例報告」で、「論文」のテーマに関わる全国各地の「実例」(遺跡や遺構、出土遺物等)が「写真・図面」と「無機質な文章」のセットで何十例も掲載されます。このあたりまでくると疲れてきて読書意識が薄れてくるのですが、その後「表組」や「ドットマップ」が延々と続くこともあります。

 「事例報告」がようやく「第4章 まとめ」が現れました。目をしっかり見開き、読み進めてゆくと、これまでとは打って変わって短文が多く、中には「本論は先行研究を補強することとなった」などと誇らしげに書かれている例もありますが、「これって、自作に独自性がないことを宣言してるんちゃうの?」と思わざるを得ません。

 最後の「註」になると再び頁数が増大します。「註」の中にも文章が多く引用されていて、いつ巻末にたどり着くのか想像もつきません。

 こんな論文を巻頭から一生懸命読んでいては、命がいくつあっても足りないでしょう。

(その2)に続く

 

 

愛媛新聞のバランス感覚

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 当地唯一の地方紙である「愛媛新聞」は、「共産党県議会議員1名」「日教組組織率0%」という保守的な風土にありながら、「安保法制法案」や「辺野古新基地問題」に対抗する激烈な論調は「朝日新聞」を凌ぐほどで、その反体制ぶりには瞠目するものがあります。

 この勢いで、県や市町についても反体制的な厳しい目を向けるかと言うと、意外とそうでもなく、冷静で落着いた記事が中心です。

 全く論調の違う記事が同じ紙面に記載されることについて、当初は不思議に思っていましたが、最近以下のように考えるようになりました。

 「安保法制法案」や「辺野古新基地問題」は多くの県民とは直接関係のない「遠いところの話」でいくら厳しく非難しても、県内諸機関や購読者に影響を与えることはありません。

 しかし、県内ニュースとなると「犯罪記事」一つとっても、「購読者や記者の中」に「犯人の関係者がいる割合」は都会よりはるかに高いので、記者が感情や主張を前面に出した記事を書きにくくなります。

 また、「一般市民向け現地説明会」で述べたように地方紙は、地域の「祭」や「イベント」の掲載する「広報」の役割があり、郷土愛にあふれた県民のために「郷土の偉人の記事の掲載」も欠かすことができません。

 愛媛新聞は、国に対しては「社会の木鐸」として「体制批判」を行いながらも、県内向けには「身近で愛される新聞」という二つの立場を両立させていることが、紙面に表れているのです。

8/21の愛媛新聞のコラム(前半)

8/21の愛媛新聞のコラム(前半)

県内の話題になるとなんとなくトーンダウンしてきます(後半)

県内の話題になるとなんとなくトーンダウンしてきます(後半)

瀬戸内檸檬

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 先月、大阪市内のデパ地下で「瀬戸内檸檬のケーキ」を売っていました。気が付くと身の周りのあちこちで「瀬戸内檸檬」を使った食品が出回っています。

 無農薬や低農薬の「瀬戸内檸檬」は「檸檬塩」や「皮を使ったお菓子」を作る際にも安心感があるので人気が出てきました。虫食い痕の目立つ皮も無農薬だと思うと好もしく思えてきます。私は秋に出荷される青檸檬のさわやかな香りと瑞々しさが気に入っていでます。

 ところで「瀬戸内檸檬」の頂点に立つ「ブランド檸檬」はもちろん「岩城檸檬」ですが、同檸檬の「100%檸檬果汁」は使い勝手がよくて重宝しています。

瀬戸内檸檬を使ったケーキ

瀬戸内檸檬を使ったケーキ