日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
釣行二題
令和2年6月1日(月)
今年の初釣行は「平磯うみづり公園」に出向き、入場ゲートに一番近いテトラの漁礁を3時間半攻めたのですが、長潮という悪条件もあって、磯ベラ4尾、ミニガシラ1尾、クサフグ1尾というさみしい釣果に終わりました。初釣行は「坊主寸前の1尾」など貧果になることが多いのでましな方ではないしょうか。
初めての釣場ということで「ノベ竿」「カカリ竿」「投げ竿」の3本を試したところ、それら全てに魚が喰いついたのは今シーズンの大漁を示す瑞兆かもしれません。
納竿し、東垂水駅に続く歩道橋の手前まで来た時、前月下見に来た折にもいた黒猫が「魚を分けて」とばかりに体を摺り寄せてきました。
令和2年6月22日(月)
JR舞子まで進行し「橋の博物館裏」のポイントでマメアジ釣を実施したところ、から揚げや南蛮漬けにぴったりの「金魚くらいの鰺」が、夕マズメ2時間で31尾釣れました。
夕飯のおかずには十分な量なので、満足して納竿ということに。
磯ベラ 4尾
垂水区名谷町石造物めぐり
普段の春なら陽気に誘われて県内・県外の博物館を訪ねたり、史跡巡りをするのですが、コロナ禍による逼塞のため「裏山登山」くらいしか楽しみがありません。
5月に入り、ついに我慢も限界に達し、石造物の宝庫といわれる名谷町に石塔巡りに出かけることを決意しました。
なお、同町は垂水区東部に所在し、福田川と両岸の狭い耕地が、海岸近くから同川最上流まで続く長い谷地形となっています。
・転法輪寺
5月11日、JR垂水駅から山陽バスに乗車し「阪神高速」「神戸淡路鳴門自動車道」の結節点となる「垂水ジャンクション」に程近い「中山」バス停で下車、細い坂道を登って行くと周囲に「生垣」「見越しの松を従えた立派な門構」「焼板の壁」「畑地」などが出現、景観が農村に変わるなかで、坂を上りきると転法輪寺に到着。
入口脇に建つ庫裏から本堂までの長い参道の両側には、子院跡らしい空地がいくつも続いており、往時の繁栄が偲ばれますが、道を覆うように伸びた桜の枝から「沢山の毛虫」が自ら吐いた糸の先にぶら下がって行く手を阻んでいるのには閉口することに。
立派な本堂を参拝し、境内の「一石五輪塔」「石仏」「墓石」が集められた「塚」を見学した後、身を低くして毛虫のカーテンをよけながら、境内脱出に成功しました。
・明王寺
転法輪寺から県道65号線を福田川沿いに下ると名谷小学校があり、その西側に明王寺が建っています。
本堂は転法輪寺に負けない大きさで、裏山に広大な付属墓地が広がっていました。
境内の一角にある「赤松円心の供養塔」と伝えられる宝篋印塔には、観応二年(1351年 南北朝時代)の刻銘があります。
・西名谷御堂境内の五輪塔
集落の中に建つ小さな御堂の前に刻まれた梵字の種字もはっきりと残る堂々たる五輪塔がありました。
五輪塔を背にして御堂に対すると農村時代に立ち戻ったような気持になります。
阪神高速の雲をつくような橋脚が南の空に見えなければ。
・西名若宮神社参道脇の宝篋印塔
谷をさらに下り、七曲り(市道名谷高丸線)の手前、若宮神社参道石段横の小社に細身ですっきりした高さ1.7mの宝篋印塔が納められていました。
もともと近くの旧道沿いに建っていたもので、暦応庚申(1341年 南北朝時代)の刻銘があります。
・猿倉の宝篋印塔
掘割バス停のすぐ裏手、アパートの駐車場脇の斜面に高さ1mに満たない可愛らしい宝篋印塔がひっそりと建っていました。
小さいながらも暦応四年(1341年 南北朝時代)の刻銘があり、移築された石塔が多い中で珍しく旧道沿いに残っています。
・おわりに
戦前までは、農村であった名谷地区も昭和30年頃から住宅開発と道路の新設・拡幅など都市化が進み、集落や農地がずたずたに切り裂かれましたが、開発のまだ及んでいない集落の奥や裏山などに往時の風景が断片のように残っていました。
路傍から住民の生活を見守っていた石塔も都市化の波の中で、移築されたものが多いのは残念なことです。
「往時の記憶をとどめる景観が、たとえ断片でも末永く残ればといいのに」と思いながらバスに乗り垂水駅に戻りました。