2015年10月

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

東京オリンピックの思ひで

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 国立競技場の建替えやロゴの問題もようやく落ち着いた今日この頃、前回の東京オリンピックが開催された時(昭和39年)のことをお話ししたいと思います。

 その年、私は小学校1年生、実家には白黒テレビがあり開会式中継を見に家族全員がテレビの前に集合。荘重なファンファーレの後、軽快なオリンピックマーチの演奏下、ギリシャを先頭に各国選手団が行進し、最後に日本選手団が入場してくると父がおもわず歓声を上げました。

 当時は、家にテレビがなく、オリンピック放送が見られない子供達もいたことから、母校ではテレビ放映時間に合わせて1クラスずつ校長室に入り、試合を観戦する行事を計画し、私のクラスは、「柔道無差別級決勝戦 神永対ヘーシンク戦」を観戦することになりました。

 当日、生徒も担任も、「日本の御家芸が外国人に負けるはずがない」と期待に胸躍らせて校長室に入り、観音開きの戸があるテレビの前に陣取りました。しかし、試合が始まると神永選手は終始劣勢で、とうとう寝技に抑え込まれてしまい、制限時間がどんどんなくなってゆきます。

 そしてついに判定が下った瞬間、生徒も担任も貝のように押し黙りました。・・・校長室に沈鬱な時間が流れる間・・・テレビでは、神永選手が静かに立ち上がり、一礼し、会場を去り、対照的に日本のコーチや控え選手達の誰はばかることなく号泣する姿が放映されています。

 すっかり気落ちした1年生達は、我に返った担任に促され、無言で教室に戻ってゆきました。

査読論文の光と影(その3 査読論文の問題点)

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 締切日までに「研究誌の編集部」についた「投稿論文原稿」は、研究者で数名で構成される「査読委員会」に回され「査読(審査)」を受けます。数か月後、第1次査読が終わった「原稿」が「編集部」を通じて「投稿者」の元に戻ってきます。

 開封すると「文字や文章の訂正」や「様々な指摘」、「加筆」等が直接書き込まれた「論文のコピー」出てきます。別紙「指示書」が同封される場合もあります。

 「訂正、指摘、指示」の数は、論文の「出来」に応じて違ってきます。少し手直しすれば、「掲載OK」になる原稿もある反面、「資料の検討」や「まとめ」が不十分で「書き直し」を命じられるものもあります。

 「投稿者」は指摘に従って「原稿」を手直しして「編集部」に再送すると、再び「査読委員会」で審査され、「掲載OK」になると一連の工程は終了ですが、再び手直しの指示が付された「原稿」が返送されてくることもあります。

 「投稿者」は再度、手直しして「編集部」に送ると、3回目の「査読委員会」が開催されますが、一般的にはこれが「最終審査」となり、掲載、不掲載が確定します。

 さて、「投稿論文」が「査読委員会」の「公正・客観的な査読」によって評価される場合は問題がありません。しかし、意外なことに、「査読委員」の恣意的な見方による査読が行われる場合もあるのです。

 恣意的な評価で一番多いのは、「定説以外の見解は受け入れない」という「定説主義」です。人文科学は自然科学と違い「解」が一つではありません。また、「旧石器の捏造事件」のように「定説」が一夜にして消滅してしまうこともよく起こりますが、実際は頑迷な「定説主義」がはびこり、「定説を揺るがす独創的な論文」よりも「定説を検証する論文」の方が掲載されやすい傾向があります。

 さらに「投稿論文」に記された「見解」と「一査読委員の見解」が違う場合、その委員が「投稿論文」に「難癖」を付け「重箱の隅をつつくようにして小さな間違い」を見つけ出し、「針小棒大に」にあげつらい、「査読委員会」で不掲載を強硬に主張し、結局掲載しないという、暴挙が行われる場合すらあるのです。

 また、ある「研究誌」では「査読委員会」が張り切って査読レベルを高くし、「実績を積んだベテラン研究者」しか書けないような優秀な論文以外をどんどん不掲載にしたため、その「研究誌」は長い間「投稿論文」の掲載がなく、「学会発表報告」と「依頼原稿」だけの実につまらない冊子になってしまいました。

 逆に「査読委員」の読解力と文章力が低く、「指示書」も意味不明で、「この査読委員会あかんのちゃう」と思わせることもあります。

 以前、ある新興学会の「研究誌編集担当者」が「発刊10年目にして大学の教員から査読論文を受け付けてくれないかといわれたよ!」上気した顔でしゃべっていたことを思い出しました。彼は「査読論文を受け付けることは一流研究誌の証なんだ」と思ったのでしょう。

 しかし、件の研究誌が「査読」を受入れ始めると、やはり「定説」や「研究誌の体面」ばかり考えるようになり、「破天荒な論文」を敬遠して「常識的で当たり障りのない論文」ばかり載せる保守的な冊子なってしまったことは残念なことでした。

事前に査読してくれる業者もいます

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