査読論文の光と影(その3 査読論文の問題点)

 締切日までに「研究誌の編集部」についた「投稿論文原稿」は、研究者で数名で構成される「査読委員会」に回され「査読(審査)」を受けます。数か月後、第1次査読が終わった「原稿」が「編集部」を通じて「投稿者」の元に戻ってきます。

 開封すると「文字や文章の訂正」や「様々な指摘」、「加筆」等が直接書き込まれた「論文のコピー」出てきます。別紙「指示書」が同封される場合もあります。

 「訂正、指摘、指示」の数は、論文の「出来」に応じて違ってきます。少し手直しすれば、「掲載OK」になる原稿もある反面、「資料の検討」や「まとめ」が不十分で「書き直し」を命じられるものもあります。

 「投稿者」は指摘に従って「原稿」を手直しして「編集部」に再送すると、再び「査読委員会」で審査され、「掲載OK」になると一連の工程は終了ですが、再び手直しの指示が付された「原稿」が返送されてくることもあります。

 「投稿者」は再度、手直しして「編集部」に送ると、3回目の「査読委員会」が開催されますが、一般的にはこれが「最終審査」となり、掲載、不掲載が確定します。

 さて、「投稿論文」が「査読委員会」の「公正・客観的な査読」によって評価される場合は問題がありません。しかし、意外なことに、「査読委員」の恣意的な見方による査読が行われる場合もあるのです。

 恣意的な評価で一番多いのは、「定説以外の見解は受け入れない」という「定説主義」です。人文科学は自然科学と違い「解」が一つではありません。また、「旧石器の捏造事件」のように「定説」が一夜にして消滅してしまうこともよく起こりますが、実際は頑迷な「定説主義」がはびこり、「定説を揺るがす独創的な論文」よりも「定説を検証する論文」の方が掲載されやすい傾向があります。

 さらに「投稿論文」に記された「見解」と「一査読委員の見解」が違う場合、その委員が「投稿論文」に「難癖」を付け「重箱の隅をつつくようにして小さな間違い」を見つけ出し、「針小棒大に」にあげつらい、「査読委員会」で不掲載を強硬に主張し、結局掲載しないという、暴挙が行われる場合すらあるのです。

 また、ある「研究誌」では「査読委員会」が張り切って査読レベルを高くし、「実績を積んだベテラン研究者」しか書けないような優秀な論文以外をどんどん不掲載にしたため、その「研究誌」は長い間「投稿論文」の掲載がなく、「学会発表報告」と「依頼原稿」だけの実につまらない冊子になってしまいました。

 逆に「査読委員」の読解力と文章力が低く、「指示書」も意味不明で、「この査読委員会あかんのちゃう」と思わせることもあります。

 以前、ある新興学会の「研究誌編集担当者」が「発刊10年目にして大学の教員から査読論文を受け付けてくれないかといわれたよ!」上気した顔でしゃべっていたことを思い出しました。彼は「査読論文を受け付けることは一流研究誌の証なんだ」と思ったのでしょう。

 しかし、件の研究誌が「査読」を受入れ始めると、やはり「定説」や「研究誌の体面」ばかり考えるようになり、「破天荒な論文」を敬遠して「常識的で当たり障りのない論文」ばかり載せる保守的な冊子なってしまったことは残念なことでした。

事前に査読してくれる業者もいます

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