2018年1月

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

漢方薬の効き方(その2)

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 絶望感が消えず、やる気もおこらないまま、だらだら過ごす内に昼時になり、食後しばらくすると食間の投薬時間が迫ってきました。

 憂鬱な気持ちで土瓶に手を伸ばした時「一度病院に苦しみを低減させる方法を聞いてみよう」という考えが浮かんだので、病院に電話し院内の薬局に繋いでもらいました。

 早速、薬剤師に「煎じ薬を飲むのがいかに辛いか」を訴えると、

「それなら冷蔵庫で十分冷やしてから飲めば、刺激的な味は軽減されます」

「2日分までは、まとめて作っても構わないので、それを冷蔵庫で保管すれば作る手間も半減します」

 と午前中にはなかった「御教示」があったので、1回分土瓶に残っていた煎じ薬をコップに移し、急冷すべく冷凍室に1時間ほど入れてから口に含んでみると、臭いはかなり弱くなり、舌に対する攻撃力も減って、少しの我慢で飲むことに成功。

 その夜には、翌日と翌々日の2日分を作り、麦茶用のガラスボトルに入れて冷蔵室で保管し、翌日の出社時には水筒に入れて携行し、食間に飲みました。

 ある時、東京で研究会があり、休憩時間に廊下で薬を飲んでいると臭いは低減されたとはいえ周りに漂ったらしく「稲垣氏が怪しい液体を飲んでいる」という「悪い噂がたったこと」を後で参加者から聞き、苦笑することに。

 ところで、薬の効能はいつ頃出てきたと思います?

 飲み始めて1年目の春「涙がぽたぽた」の症状は一向に改善されません。2年目も効能がないまま「今春看又過ぐ」という気持ちで空しく春をおくりました。

 同時期に受診し始めた「患者仲間」も何人かいたのですが、中々効能が現れないことに悲観したらしくその姿は2年を待たずして待合室から消滅。

 小生は学業、スポーツ両方とも成績はもう一つでしたが、「根気強さ」には絶対的な自信があったので、ただ一人治療を続け3年目の春、ついに変化が訪れました。

 その年、目は充血してかゆくなりましたが涙の量は明らかに減少し、パソコンのキーボードに涙が落ちることがなくなり、4年目、症状は「充血」と「わずかなかゆみ」だけになり涙はピタッと停まりました。担当医の言った通り4年目にして症状は大きく改善されたのです。

 「漢方薬治療をやってみよう」と思っている皆さん!!

 個人差はあるでしょうが、大事なことは「根気」です。それさえあれば必ずゴールにたどり着けるでしょう。(この項終わり)

漢方薬の効き方(その1)

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 小生は、幼稚園の頃からアレルギー物質が原因の「濾胞性結膜炎」「アレルギー性鼻炎」「小児喘息」等の免疫異常疾患を患い「内科」「耳鼻科」「眼科」に月に何度も通うひ弱な子でした。

 成人する頃には「喘息」と「鼻炎」は何とか「小康状態」になったのですが「濾胞性結膜炎」(いつの間にか「花粉症」と名前を変えていました)は、治る兆しもなく、30歳を過ぎた頃からさらに悪化し「スギ花粉」時期には、デスクワークをしていると涙がぽたぽたパソコンのキーボードに落ち、仕事がはかどらないほどになりました。

 「眼科」で治療を受け、出してもらった目薬は、一時的に涙を止める効能はあるのですが、持続時間はわずかで、根本治療にはなりません。

 それでもしばらくは、こまめに目薬をさしていましたが、わずらわしさもあり「根本治療に取り組もう」という決心をして、京都にある漢方治療専門の病院を予約しました。

 当日、病院を訪れると、待合室は大変な混雑で、予約したのに30分くらい待たされ、ようやく診察室に入ると、担当医の長い問診、聴診器・打診の後「手首の3か所の脈診」「舌の裏表を観察」など漢方医独特の診察があり、ようやく「診療方針」の説明が始まります。

 まず、最初に

「治療薬には煎じ薬と粉薬があるが、煎じ薬の方の効き目が早い、どちらを選択するか?」

と聞かれたので、

 「煎じ薬でお願いします」

と答えると、

 「煎じ薬でも目に見える効能が現れてくるには2年から3年かかります。4年で1クールだと思って下さい」

と念を押されました。

 帰りに院内の「薬局」で薬をもらいましたが、煎じ薬1日分(食間2回)は、細かく刻んだ何種類かの薬草からなり、即席ラーメン大のビニール袋にぎっちり詰まっています。

 薬剤師から

 「土瓶に薬を入れ、水を1㍑注ぎ、弱火で煎じて、300ccまで煮詰めるように」

と言われたので、帰って早速実施してみると煮詰まるにつれて、面妖な匂いが漂ってきます。

 予定の300ccになったところで火を消し、少し冷まして、湯飲み注ぎ、飲もうとして口をつけると眼がチカチカし吐き気を催すほど強烈な匂いの攻撃を受けたので、思わずテーブルに置きました。

 数分後意を決して湯飲みを取ろうとするのですが、体中の臓器すべてが本能的に拒否反応を起こしているようで、手が出ません。

 しかし、長年苦しんだ花粉症を治すために蛮勇を振るい「どうとでもなれ」とこの「最高に体に悪そうな異質の液体」を一気に飲み干すと!!

 味蕾は完全に麻痺し、体全体がぶるぶる震え、全身の毛根が総毛立ち、寒気に襲われ倒れそうな状態に!

 数分経ってようやく、人心地が着いたのですが「これから毎日二回もこの難行を実施しなければならないのか」と思うと絶望感に打ちのめされました。(続く)

嫌いな言葉 「大丈夫?」

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   『新明解国語辞典 第7版』による「大丈夫」という言葉は本来、

「金銭の誘惑に負けたり、権威に屈したりしない、志の高い男子」

という意味があるそうです。

 まさに現在では「絶滅危惧種」というべき存在ですが、そこから転じた「大丈夫」の一般的な意味は、

①「危険や損失・失敗を招くおそれがないと断定できる状態※例(「この建物なら地震があっても大丈夫だ」「彼に任せておけば大丈夫だ」等)

②「良い結果になることを受けあう様子」※例(「大丈夫、君なら成功するよ」「なに大丈夫明日は晴れるさ」等)

の2件があげられていて、このような使い方は妥当で、問題はないのですが、

「大丈夫?」「大丈夫ですか?」

のように「疑問形」として用いられると、途端に相手に不快感を与える悪しき言葉になってしまうのはなぜでしょうか?

 取りあえず、その使用例をあげてみます。

①体調が悪い上にその日に限って仕事が超多忙で疲労困憊し、ようやく家にたどり着き玄関を入った時。

 出てきた家人に

「大丈夫?」

と聞かれた時、

「このぐたぐたな状態を見てよく『大丈夫か?』と聞けるな。お前の目は節穴か」

と、怒りがこみあげて来ませんか?

「えらいしんどそうやないの?」と率直に言ってくれた方が腹も立たず、素直に心境を吐露できると思うのですが。

②AEDの講習会に出た時

 「倒れている人を見つけたら駆け寄って、肩のあたりを叩きながら『大丈夫ですか?』と3回呼びかけてください」

と、教えられましたが、「意識朦朧状態」か「無意識状態」で倒れている「大丈夫ではない状態」の人に「大丈夫かどうか」3回も確認する必要があるのでしょうか?

 万が一、呼びかけが功を奏して奇跡的に意識が戻ってきたとして、もし患者が私なら「大丈夫ですか?」につられて「大丈夫です」と言ってしまいそうな気がします。

 この「大丈夫ですか?」は病人に「カラ元気を出すことを強要するよう」に思えることもあり、好きになれません。

「私の声が聞こえますか?」「肩を叩いていますが感じますか?」

と、端的に聞く方が適切だと思うのですが。

③コンビニやスーパーのレジで支払いをする時

 「小銭があるからちょっと待って」と銭入れを探し始めた途端、店員に「大丈夫ですか?」と言われると、

「たしかに小生は手先の動きが遅いかもしれないが、小銭の中から1円玉を数枚選り出すことぐらい数秒でできるわい」

と怒りがこみ上げてきませんか?

 以上の使用例から見て「大丈夫の疑問形」は、

・単なる気休め

・相手の「否定」を期待しての言葉かけ

・相手の「肯定」を期待しての言葉かけ

の、三つに分類されるようです。

 しかし、実際に使われた「大丈夫の疑問形」が、「三つの内どの意味なのか」は、「当事者を取り巻く状況や発言者の語調から類推するしかない」という、「京都弁」のような難解さがあり、そのことが聞き手に誤解を生じさせる原因になっています。

 そんなことを考えながら車を運転していて、ガソリンスタンドに入り、店員に

「満タン、現金で」

と告げると、

「はい、現金満タン、OK」

と元気な返事まではよかったのですが、一呼吸おいて

「吸い殻、ごみ大丈夫すか?」

とのご質問。

 御心配なく、私の「吸い殻」も「ごみ」も健康そのもの、大丈夫です!(怒り)

新幹線の思ひ出

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 現在、予土線の看板列車「0系新幹線型気動車」は地元の皆さん、鉄子・鉄男・通学生達を乗せて毎日四万十川沿いの鉄路を走っています。

 4年前の早春「同気動車」の試運転が予讃線で実施されることを鉄男のN君から聞いた小生は、デジカメを持って通過予定時間の少し前に伊予富田の駅に出向き、小松方面からやってきた「同気動車」の撮影に成功しました。

 ところで、実際の「0系新幹線」を初めて知ったのは東海道新幹線開通直前の昭和38年のことで、当時幼稚園のいわゆる「年長組」だった小生は友達(名前は忘れました)の「夢の超特急の模型を見せてあげる」という言葉に誘われて家に遊びに行き、そこで「0系の模型」に対面しました。

 模型の箱には「ひかり号」の文字はなく「夢の超特急」とだけ書かれていました。飛行機のように突き出た丸いフロントは在来線の特急にはなく「夢の超特急」にふさわしい未来の乗り物でした。

 本物の「0系」を見たのは東海道新幹線が開通した昭和39年。父が新大阪駅を見せに連れて行ってくれた時です。

 当日は阪急で梅田に行き大阪駅から在来線に乗り換え、新大阪に着くと、一旦改札を出て入場券を買い、新幹線の改札口から入場しましたが、駅構内のあまりに未来的な光景にまず度肝を抜かれます。

 戦前の駅舎をそのまま使っている「灘駅」や薄汚れた「大阪駅」と違い、沢山のガラス窓と照明を反射して輝く柱の間を通り抜け、長いエスカレーターに乗って真新しいホームに着くと、真っ白な高い天井が覆っています。

 そこには「0系新幹線ひかり号」が停まっていたはずでしたが、構内の光景に圧倒されてしまったたため「0系」の記憶はほとんど残っていません。

 父の「今度は乗せててやるから」という言葉も上の空に、未練たらしく何度も何度もホームを振り返りながら下りエスカレーターに乗ったものです。

 実際、新幹線に乗ったのは、それからずいぶん後、大阪万博の頃でした。

0系新幹線型気動車

0系新幹線型気動車