新幹線の思ひ出

 現在、予土線の看板列車「0系新幹線型気動車」は地元の皆さん、鉄子・鉄男・通学生達を乗せて毎日四万十川沿いの鉄路を走っています。

 4年前の早春「同気動車」の試運転が予讃線で実施されることを鉄男のN君から聞いた小生は、デジカメを持って通過予定時間の少し前に伊予富田の駅に出向き、小松方面からやってきた「同気動車」の撮影に成功しました。

 ところで、実際の「0系新幹線」を初めて知ったのは東海道新幹線開通直前の昭和38年のことで、当時幼稚園のいわゆる「年長組」だった小生は友達(名前は忘れました)の「夢の超特急の模型を見せてあげる」という言葉に誘われて家に遊びに行き、そこで「0系の模型」に対面しました。

 模型の箱には「ひかり号」の文字はなく「夢の超特急」とだけ書かれていました。飛行機のように突き出た丸いフロントは在来線の特急にはなく「夢の超特急」にふさわしい未来の乗り物でした。

 本物の「0系」を見たのは東海道新幹線が開通した昭和39年。父が新大阪駅を見せに連れて行ってくれた時です。

 当日は阪急で梅田に行き大阪駅から在来線に乗り換え、新大阪に着くと、一旦改札を出て入場券を買い、新幹線の改札口から入場しましたが、駅構内のあまりに未来的な光景にまず度肝を抜かれます。

 戦前の駅舎をそのまま使っている「灘駅」や薄汚れた「大阪駅」と違い、沢山のガラス窓と照明を反射して輝く柱の間を通り抜け、長いエスカレーターに乗って真新しいホームに着くと、真っ白な高い天井が覆っています。

 そこには「0系新幹線ひかり号」が停まっていたはずでしたが、構内の光景に圧倒されてしまったたため「0系」の記憶はほとんど残っていません。

 父の「今度は乗せててやるから」という言葉も上の空に、未練たらしく何度も何度もホームを振り返りながら下りエスカレーターに乗ったものです。

 実際、新幹線に乗ったのは、それからずいぶん後、大阪万博の頃でした。

0系新幹線型気動車

0系新幹線型気動車