2015年2月

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

みんな「天の声」を待っている -月釜受付顛末記-

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 悲惨な月釜体験から10年が過ぎた頃、私が所属する茶の湯教室が地元の公民館で「月釜」を掛けることになりました。自身も「月釜」は2・3回お手伝いしましたが、何れも水屋の雑用係でした。しかし、師匠から今回は「受付」をするように命じられました。

 「これはえらいことになった」と思いました。なぜなら私の社中はOLさんのところと違い「受付」が正客の指名を含む席順のコントロールをするという「伝統」があります。しかし、まだまだ新参な私が、師匠と同格の茶人やもっと偉い方が出席する「月釜」の席順コントロールを行う自身が全くないからです。

 そこで、入門以来何かと頼りにしているA先輩なら知恵を授けてくれると思い、教室の帰り道「受付」ノウハウを聞いてみたところ、先輩は、以前「月釜」の「受付」をした時の経験をもとに作成した「受付の秘策」を記したノートを貸してくれました。「秘策」の通りに動けば受付はばっちりだということなので、当日は「秘策」のコピーを袂に入れて会場に出かけました。開会1時間前の打合せでは、師匠から数人の名前が記された名簿を渡され、「この人達には事前に正客をお願いしてあるので受付で確認してください」と言われました。開会して、一席目、二席目は、御客の中に「名簿」記載の人がいて快く正客を引き受けてくれ、順調なスタートを切りました。ところが三席目の御客は三人連れが二組と二人連れが一組の計八人なのですが、「名簿」記載の人はその中に含まれておらず、正客を決めなくてはなりません。

 早速、袂から秘策を取り出すと、まず最初に、

秘策1  茶席の相客の中に「知り合い」がいないか探す。「知り合い」がいたらその人を正客候補にする。いなければ50代以下で和服を来た御客(茶の湯修行中堅クラスの人)を正客候補にする。60代・70代は頼んでもうまく逃げる術を知っている古狸なので駄目」

 と、あります。

 私 「よし、正客候補をまず決めよう。あの三人グループの一人どっかで見たことあるな。そうそう、Bさんや、師匠の知合いで御祭の茶席を手伝いに来ていた人や、京都の偉い先生の弟子とか言うてた。どうみても40代やしあの人で決まり」

 次の「秘策」は、

秘策2  前席終了の10分前位、待合の御客に「正客」が決まったか尋ねるが、決まっているはずはなく、全員「正客」就任も拒否している。ここで、しばらくおろおろした様子を見せ、おもむろに「すこし、お待ちを」と言い残して、水屋に行き、師匠に「X氏(自分が決めた正客候補)が正客でよろしいか」と聞く、師匠は茶道具の準備や、御菓子の盛付、点て出し(たてだし 註1)の指示、などで忙しく、あまり考えず「はい、よろしわ」と答える。これが言質になるので、必ずそれを聞いてから帰ってくる。

 私もおろおろして見せてから「すこし、お待ちを」と言い残して、水屋に行き、正客について師匠の同意も得て来ました。さて、次は、

秘策3 待合に行き「亭主がX氏(受付が決めた正客候補)を是非お正客にと申しております」と宣言する。

 早速、待合に行き「亭主がBさんを是非御正客にと申しております」と宣言しました。すると、

・Bさん 「えー、そんなん無理です。先生無茶言いはるわ。絶対無理やわ」

・Bさんの連れ 「なにゆうてんの、先生の御指名なんよ」

・もう一人の連れ「あなた御茶名(註2)持ってはるし、やりよし、やりよし」

・連れ二人で一斉に 「やりよし、やりよし」

・Bさん 「えー、むりよ、むり、むり」

 ここで、最後の秘策です。

秘策4  グループの一人が正客に指名されると、グループの仲間は自分は難を逃れたいので必ず同意する。その波に乗って「そろそろ前席も終わりますし、師匠の意向でもありますしなにとぞ、よろしく」と候補者に強くお願いする。

 「そろそろ、前席も終わりますし、師匠の意向でもありますしなにとぞ、よろしく」と強くお願いすると、

・Bさん 「かなんわー、二人とも、恨むわ、私きっと失敗するから、助けてよ、時間も来ているみたいやし、私がやらせてもらいます」

 これで無事正客が決まりました。めでたし、めでたし。

 茶の湯のキャリアが長い人でも、短い人でも正客で失敗したら後で悪口を言われるし、ましてキャリアの浅い人が立候補したりしたら「生意気や」「身の程知らず」などと非難されます。そんなわけで、みんな「正客」なりたくないのですが、決めないことには席入りができません。実は御客は「天の声」を心待ちにしているのです。

 「天の声」によって決まった正客なら茶席で上手くいけば褒められるし、失敗しても「天の声」のせいにすることができます。新参者の「受付」が御客に「天の声」を発することはできませんが、「受付」が決めた「正客候補者」を亭主が承認すれば「天の声」として通用します。面白いことに「正客」が決まると同じグループの人達は仲間に「正客」を押し付けた後ろめたさからか「正客」の次に手間のかかる「御詰め」をすすんで受けることが多いのです。

 さて、四席以降についても「秘策」通り「受付」を行ったおかげで「正客」も「御詰め」も順調に決まり、流血の惨事もなく「月釜」は無事終了しました。本当にもつべきものはよい先輩だと心から思いました。

註1 「月釜」のように御客がたくさん来る茶会では、時間がかかるので亭主が御客一人一人に茶を点てることはありません。亭主が由緒ある茶碗で御茶を点てるのは「正客」「次客」までで、それより下座の御客には弟子たちが水屋内で普通の茶碗で点てた茶が一斉に振る舞われます。これを「点て出し」といいます。

註2 全ての点前を教授された弟子にその証として家元から与えられる特別な「名前」で、芸能修行の「名取名」のようなもの。裏千家では「宗」字と自分の名の一字を組み合わせて作成されます。例えば名前が久子なら「宗久(そうきゅう)」になる。

今度は京菓子です

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 私があまり得意ではない洋菓子のレポートを短期間に2回も記載し、御菓子の話題はしばらくないと思っていたら、家内が江戸時代以来十代以上の歴史を刻む老舗の京菓子を買ってきました。

 包装、箱、中身すべてにおいて洋菓子とは違う「雅(みやび)」としか言いようのない魅力にあふれています。まずは御一見あれ。

洲浜1_new

                                             包装紙です。右端が御店の紋章です

押物3                 包装紙を取ると、中身が筆書きで

洲浜1                   蓋を取り、薄紙を開くと

 いかがですか?洋菓子とはまた違う美しさがあるでしょう。

日本酒の銘柄

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20141219084555 焼酎の銘柄は、「明るい農村」「吉四六(きっちょむ)」「いいちこ」など素朴で泥くさい名が多いのですが、日本酒の銘柄は優雅で格調高く、その由来も歴史にちなんだものが多いのが特徴です。今回は「味」はさて置き、銘柄が大変印象深いものについて紹介します。

 

・小鼓(こつづみ)

 兵庫県丹波市の「西山酒造」の酒です。小鼓とは肩のところで打つ鼓で、大鼓とは床に置いて打つ鼓ですが、音は大鼓の方が高く「カーン」、小鼓は「ポン」という音がします。

 小鼓の由来は大正3年(1914)3代目社長の友人である俳人「高浜虚子」の命名によるものです。

 

・浅茅生(あさぢを)

 大津市旧市街、丸屋町商店街にある酒蔵「平井商店」の銘柄です。名前の由来は、延宝五年(1677年)、後水尾天皇の皇子である聖護院宮道寛親王から蔵主が賜った和歌

  「浅茅生のしげき野中の眞清水のいく千代にとも汲みは尽きせじ」(野原の井戸からわく清い水は何年たっても枯れることはない)

より命名されたものです。

 「野」は都に対して田舎である「大津」を示し、「蔵の井戸から湧く清水を用いて使った酒は、幾世代も後までも名声を博するであろう」という意味があると思います。ラベルにもしっかりこの和歌が書かれています。

 

・醴泉(れいせん)

 文化三年(1806)創業の岐阜県養老郡養老町玉泉堂酒造の酒です。養老は現在でも名水の里として有名ですが、「醴泉」という銘柄は続日本紀に記載された奈良時代の「養老元年(717)十一年 十七日付元正天皇の詔(天皇の命令)」に出てくる「醴泉」に由来します。

 詔の内容は、以下の通りです。

 

 朕(元正天皇)が美濃国(現岐阜県)を訪ねたおり、養老の美しい井戸水(美泉)で顔を洗うと「肌がつるつるになり」、痛いところを浸すと「痛みが取れる」という効能があらわれた。

 この水を飲んだり浴びたりすると「白髪は黒くなり、禿頭に毛は生え、盲目の人も目が見え、全ての病気が治る」と言われている。

 「後漢の光武帝の時に醴泉(おいしい水)が湧き、飲んだ人の病気が治った」と言う故事がある。

 「符瑞書」いう本には、「醴泉とは美泉であり、飲めば老人が元気で長生きする(可以養老)。なぜなら水の精だからである」と記される。

 「美泉が湧くということは瑞兆である」とする本もある。

  朕は凡庸であるが、(以上の事から)天道が定まったと思われるので、大赦を行い、霊亀三年を養老元年に改元(元号を変えること-例-昭和→平成)する。

 

 まるで万能薬のような水ですが、同年の十二月二十二日の記述には、養老の井戸水が奈良に運ばれて酒造に用いられたとあり、奈良時代から酒造に適した水だったことがわかります。

 

・刈穂(かりほ)

 大正二年(1913)創業の秋田県大仙市刈穂酒造の銘柄「刈穂」は奈良時代よりはるか前、滋賀県大津市にあった大津宮で668年に即位した天智天皇の「御製」(天皇の作った和歌)

 「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わか衣手は 露にぬれつつ」

に由来します。この歌は「百人一首の第一番目の歌」としても有名で知っている方も多いと思います。

 「刈穂」の命名者は銘柄の中に、「秋の田」=「秋田(県の酒)」と「百人一首 第一番」=「酒の評価も第一番」の意味を潜ませています。中々にくいですね。

 

・華鬘(けまん)

 20年位前の話です。静岡県三島市で二日続きで「暦の研究会」が行われました。そのおりに宿泊したホテルのロビーで同郷の会員とくつろいでいると、同会員の友達(三島在住)が持ってきた日本酒が「華鬘」です。

 これは私が知っている酒の銘柄の中で最も上品で優雅な名前です。「華鬘」とは「花環」を表すサンスクリット語の音訳で、日本では仏像が安置される佛座や仏壇の装飾品として使われます。繊細な模様の金属製が多く、中には国宝に指定されているものもあります。命名者は佛教美術に造詣が深い人でしょう。

 何年か前、この酒を手に入れたくなり探しまわったのですが、どこの酒蔵で作られたか手がかりが全くなく、手に入れることができませんでした。

 私にとって幻の酒になってしまった訳ですが、最近では「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」に示される佛教の無常感を重んじ、美しく、儚い記憶として心の中にとどめておくのもよいのかなと思っています。

 

 

芦屋のパティスリー

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 以前、食べログ人気神戸市内第一位のパティスリーを紹介しましたが、実はこの上に兵庫県内第一位があります。私は洋菓子に特に興味を持っているわけではないのですが、神戸市内第一位でも相当おいしいのにさらに上があるのなら、一度話のタネに買ってきて味わってみようという気が起こり、帰省中の日曜日、芦屋にあるその店に行くことにしました。

 当日は二時過ぎに自宅を出て、最寄駅から阪神電車に乗り、芦屋駅で降りて北口に出ると「昭和二年竣工のクラシックな正門を残す警察署」「無添加生地が売りのパン屋さん」「クレープ・シュゼットで一世を風靡し、今では全国展開している洋菓子舗の本店」「ちょっとおしゃれなスーパー」が四方に建つ交差点があり、街の雰囲気は随分華やかです。

 その交差点を右に曲がると、すぐ向こうに小ぢんまりした店が見えました。入店するとオレンジ色と白の壁に囲まれた店内の右には「焼菓子・マドレーヌ・サブレなどの箱」が置かれた棚とこれらの「ばら売りコーナー」、中央にはフレッシュケーキのショーケースがあります。

 店に着いた三時頃、店内には女性客三人がばら売り品のセレクト中でしたが、フレッシュケーキは、早くに売れてしまうのか、ケース内にはフルセットの1/4ぐらいしかなく、事前に調べた一番人気品は名札だけがさびしく残り、影も形もありません。

 女性客が買い物を済ませた後で、ケーキ三個とサブレ二箱を注文し、包装を待っていると、一気に七人ぐらいの御客が入って来て、どんどん注文し始め、見る見るうちにショーケースからケーキが無くなってゆきます。会計が済んだ頃には、また二人、三人と御客がきて、狭い店はいっぱいになりました。なにかにつけタイミングの悪い私にしては入店の時間は絶妙だったようです。

 店を出ると少し歩きたくなり芦屋川畔に出て「このオレンジ色の袋にみんな注目しているんじゃないかな?」と優越感に浸りながら北上し、阪急芦屋川駅から三宮行き各停に乗車しました。

 夕食後のデザートで私が選んだ「イチゴショート」のスポンジはふわふわで、クリームも甘さ控えめです。家内が食べた「カシスのムース」(もっとおしゃれな名前がついていたのですが忘れました)を少し味見しましたが、酸っぱさ、甘さともに控えめで、随分上品な味でした。

「控えめな味だけど、こういうケーキが人気あるの?」と家内に聞いてみると、

「この店の御菓子類はパティシェール(女性の洋菓子職人)が作っていることもあり、形にてらいがなくすっきりとしていて、それぞれのカラーバランスも絶妙。味は繊細でやさしく、肉類など脂っこいメニューの食後デザートには最適で、沢山食べてももたれないケーキやと思う」

「だいたい、パティシエの作品は、大胆な造形でリズム感があり、味もリキュールや香料を効かせた強いものが多いが、パティシェールの作品は形の色もバランスがとれていて静謐感があり、素材の下ごしらえや飾り付けは慎重に慎重に行うので、香りも味も繊細そのもの」と、評論家顔負けの分析を示してくれたので、洋菓子の芸術性と味わいは実に奥が深いことが私にもよく分かりました。

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FC今治のこと

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 三年前のことです。職場で釣り大会が行われることになり、1週間前に会場の桜井海岸に下見に行きました。私の日常生活は大雑把で、行き当たりばったりですが、釣りに関してはいつも用意周到で慎重です。新しい釣り場に釣行する場合は、必ず下見に行き、地形や海岸の様子を観察してから、対象魚を絞り、針の種類や大きさ、仕掛けや餌を決めるようにしています。

 当日、最寄りの「桜井ふれあい海浜広場」の駐車場に車を止め、海岸に向かって歩いていると、途中にあるサッカー場で大学生チームが試合をしていました。20人ぐらいのサポーターもいて、その中で太鼓を叩いて応援している男をよく見ると会社の同僚です。早速、寄道して試合のことを聞くと応援しているのは大学チームではなくここがホームグラウンドの「FC今治」で対戦相手は徳島のチームだと言います。

 「FC今治」は「四国サッカーリーグ」に所属するアマチュアチームです。国内のサッカーリーグの格付けはJリーグ(J1→J2→J3)→JFL→四国サッカーリーグ→愛媛県リーグ1部・2部の順で、一つ下「愛媛県リーグ1部」には「松山大学」や「愛媛大学」などの学生チームも所属しているので、大人ばかりのチームとしては一番下のクラスです。このホームグラウンドにも観客席はなく、スコア―ボードは手書きの黒板です。

 そのうちに、勤め先が夏休みに実施した「地域イベント」に「FC今治」の選手数人がボランティアで参加し、子供達にリフティングを教えてくれたこと、その時の選手の印象も「地味な大学生風」だったことを思い出しました。

 ところが、この四国の片隅でひっそりと活動していたチームに奇跡が起こりました。昨年11月「元ナショナルチーム監督の岡田武史氏がFC今治のオーナー兼社長に就任」というニュースが流れ、その中で岡田元監督は、「10年後にはJ1で優勝争いできるようなチームをつくりたい」という壮大な目標を語っているのです。

 「うそやろ」と思っていたら、年が変わり市長も参加して歓迎会が行われたところを見ると、夢ではなさそうで、「FC今治がいつあの桜井のグラウンドを卒業できるのか?」という将来の楽しみもできました。

 3月からはプロを目指す女子中学生を英才教育する「JFAアカデミー今治」も市内に開校します。今治は突然サッカーで注目される町になりましたが、考えてみれば、冬暖かく、雪も降らず、年間を通じて晴天が多いわりには、夏の水不足の心配がない当地は、サッカー向きの土地かもしれません

 ちなみに、釣り大会では、下見で目をつけておいたポイントで釣り上げた28㎝の青ギザミをが大物賞となり、景品としてビール1ダースを獲得しました。

今年は何が釣れるかな?

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 子供のころからいろいろな釣りをしてきました。高校生の頃はルアーをやりましたし、舟釣りの経験もあります。しかし、磯釣りやアユ釣りなど道具にも釣行にも金のかかる釣りは経験がありませんし、遠くに遠征することもなくせいぜい神戸周辺の川・池、港、淡路島など安上がりなところで済ませていました。

 30代以降は神戸港ポートアイランドの防波堤に通い詰めていました。私はあちこちの釣り場に行かず、一か所に通うのが好きで、今治に来てからも職場の釣り大会で桜井海岸に釣行した以外、今治港の船着き場か防波堤にしか行っていません。

 さて、シーズンを通して一か所で釣っているとポイントはもとより季節ごとに釣れる魚種もよく分かります。そして、神戸港や今治港などの狭い水域でも食物連鎖のバランスが崩れることがあるようで、今治港では、昨年はバリコ(アイゴの子供)、一昨年はカタクチイワシ、三年前はサヨリが大量発生しました。

 神戸港においてもサンバソウ(石鯛の子供)、サッパ、バリコなどが大量発生した年があります。しかし、不思議なことに翌年になるとその魚種はかき消したようにいなくなってしまうのです。

 春のシーズン到来が待ち遠しいこの頃ですが、今年はここ2年間不漁だった鰺が、そこそこ釣れそうな予感がするですが、どうでしょうか?

父の趣味

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 父の趣味は釣りと謡曲、ハーモニカでした。釣りは私におぼえさせることが目的だったようで、中学生になると「一人で行け」と言って、自身はやめてしまい、謡曲一本になりました。

 所属していたのは50年以上の歴史を持つ謡曲同好会で、指導は人間国宝の豊嶋弥左衛門氏。同輩は古参の自信家ばかりで、若き日の金剛永謹氏(現金剛流宗家)が代稽古に来た時など、皆が「お前のような小僧の稽古が受けられるか」と怒り出し、追い返したという伝説もあるそうです。※宗家=家元の事

 父も人間国宝に習っていることが自慢でしたが、先生は偉いのに、才能がないのか腕前は全く向上せず、家で謡の練習が聞こえてくると、家族から「また、牛が鳴きはじめたわ」「先生の謡はよく分かるけどお父さんはなに言っているのか全然わからないわ」とか言われ、評判は散々でした。

 私も「運動にもなるし、仕舞でもやった方がええんちゃうの」と言ったことがあります。しかし、何を言われても気に留めることもなく「観世の謡本は楷書やけど、金剛は行書で読みにくいんや」と自身の腕前とは関係ないことをぼやきながら「もーもー」やっていました。

 晩年は、練習が面倒になり、友達から誘われたこともあってハーモニカに趣味が移りました。その父もすでになく、謡曲同好会もどうなったのか、時代の流れは速いものです。