日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
身近なファシズムの話
以前、アップした「京都の嫁入り」と同じく、祖母から何度も聞かされた話です。
太平洋戦争が始まった頃、父は旧制中学の生徒で「速記クラブ」に所属していました。
「速記」と言っても知らない方が多いと思いますが、「テープレコーダー」や「音声リコーダー」などの録音機器が発明される前の発言記録法で、「五十音それぞれを1本の線で表す速記符合を基本とし、熟語や文章の省略符合も使って、発言を紙に記録する」という技術です。
日本では、明治時代の帝国議会開設に合わせて、イギリスの速記術を改良した「日本語速記術(日本傍聴記録法)」が考案されたので、第一回の帝国議会から現在の国会に至るまで、すべての会議の議事録が残っています。
さて、旧制中学の「速記クラブ」では、「顧問の先生や先輩が文章を読み上げ、部員が速記する」というやり方で練習していたのですが、父は「自然に話す人の発言を速記すればもっとよく技術が身につく」と常々思っていたところ、良い機会が巡ってきました。著名な思想家大川周明氏が、実家の近所の小学校で「時局講演会」を行うというのです。
当日、父は政治好きの祖母と親子二人で「講演会」に出かけました。会場の講堂に入ると一番後ろに立って、講演を手帳にせっせと速記しました。大川周明氏の話術は実に巧みで聴衆も大いに盛り上がり、拍手喝采の中、講演会は無事終了。
ところが、祖母と父が家に帰ると間もなく、後をつけてきたらしい憲兵2名が玄関にずかずかと入って来ました。憲兵は、厳しい口調で「学生が大川氏の講演をひたすら手帳に記録していたのが怪しい、間諜の疑いがある。詰所まで来い」と言って父を連行しようとします。
吃驚した祖母が「この子は中学で速記を勉強していて、大川先生の講演を聞いて速記の練習をしていただけです」と言うと、憲兵の一人がたまたま速記を習ったことがあったらしく「速記なら知っている。手帳を見せろ」と言い父の手帳を取上げてじっと見ていましたが、しばらくすると穏やかな表情になり手帳を父に返し「これは確かに速記だ、速記は役に立つ技術だ、よく勉強しなさい」といって、もう一人の憲兵を促して帰って行ったそうです。
以上が私の一世代前の家族が実際に体験したファシズムです。
皆さん、恐ろしいと思いませんか?当時は罪がない人間が、当局の思い込みによって、簡単に連行されてしまう、人権などは簡単に踏みにじられる時代でした。日本のファシズムは敗戦により消滅しましたが、戦争終結から70年たった現在でも、中国や北朝鮮では、ファシズムの嵐が吹き荒れているのは残念なことです。
一般市民向け現地説明会(その3 記者会見)
「担当者」は最初に自己紹介をします。記者は学歴やゼミの教官を聞くのが何より好きなようで詳しく聞かれます。中には高校時代のことまで聞く記者もいますが、それらが記事になることは、ほとんどないのです。
それから、遺跡の質問になりますが、「資料提供」のプリントには「今回の遺跡は県内に同様の遺跡が数か所あり特殊なものではなく」「遺構や遺物に日本最古、日本最大、日本唯一というものはない」ことを明示しているので、記者たちの舌鋒は鋭くありません。
しかし、遠くまでやって来て、質問ひとつせずに帰るのも時間と経費の無駄だと思うのか、論点を変えて「この遺跡は保存する価値があるのか?」「日本史を変える可能性のある遺跡なのか?」などはっきり答えにくい質問ばかりします。
民放と新聞社の記者は、「もう一歩踏み込んでもらえまへんか?」「大丈夫、大丈夫、思い切った発言でもオブラートに包んでさらっと出しますんで」などと「ぼけ」と「つっこみ」を交えた関西トークで迫って来ます。しかし、「NHK様」は、質問自体が標準語で「きつく聞こえる」上に、答えようによっては「あなたの答え方は不誠実だ」と本気で怒りだす人がいるので要注意です。
なんとか、記者会見も終わり、記者達も三々五々帰宅に着くと、会場を後片付けして現地説明会は終了します。本来なら、同僚やバイトの諸君と打ち上げでもやって、泥酔したいところですが、残念ながら上司からは当日夜は自宅待機が厳命されています。仕方なく、帰宅して自宅でぽつねんとしていると、県教育委員会から「○○新聞の記者から聞きたいことがあると電話があった。今から言う電話番号に電話してくれ」という電話がかかってきました。
新聞社に連絡すると「遅いのにすんません。ちょっと聞きそびれたことがあって、お聞きしたいんですが」と謝りながら何点か質問するので、昼と同じように当たり障りのない答えをすると「すんませんでした。おやすみなさい」意外とすんなり電話を切ります。その頃は、なんで「現説」の夜に新聞社から電話がかかって来るのか分かりませんでしたが、大分後になって、その理由が新聞社側にあることが分かりました。
夜、記事の集まりが悪く、翌日の紙面に穴が開きそうになると、支局長は当日取材に出た記者に命じて、記事を膨らませて、穴埋めさせようとします。しかし、記者が自分の筆力では記事の膨張が無理だと思った時、再取材の電話をかけてくるのです。県教育委員会でマスコミとの付き合いが長く「うちとブンヤさんは持ちつ持たれつや」とよく言っていた上司は、そのことを知っていてマスコミサービスのために「自宅待機」を命じたのでした。
一般市民向け現地説明会(その2 当日説明)
当日は、まず、受付横の机に出土品を並べ、開始2・3時間前からやって来る考古学ファン達の受付をして、パンフレットを配り、出土品の説明をしたりしているうちに、開始時間が近付いてきて、マスコミの皆さんも姿を現しはじめます。
新聞記者は各社大抵1人しか来ませんが、他社同士でも仲が良いらしく、1・2台の車に相乗りしてやって来ます。現場に着くと家庭用ビデオに声を吹き込みながら撮影を始めました。
民放も記者がカメラマンも兼務していることが多く、やはり1人でやって来ます。ビデオカメラを回しながら来場者にインタビューしている器用な人もいます。ある在阪テレビ局は、地元の老舗写真館の息子さんに取材・撮影を頼んでおり、彼もいっぱしの記者気分でカメラを回したり、出土品を見てメモをとったりしています。
その内、黒塗りタクシー(中型)が静々とやってきました。「NHK様」の登場です。タクシーで来るのは「NHK様」だけで、他社とは違い必ず記者とカメラマンの2名が来ます。プロデュ-サーが加わり3名で来る時もあります。
昨年、松山で「福祉の集まり」があった時、新聞・民放の取材陣は、各社1人づつでしたが、「NHK様」は3人来ていました。受信料の蓄えがふんだんにあるので取材には湯水のように金を使うのでしょう。
「遺跡の説明」は、その遺跡の「埋蔵文化財担当者」(※以下「担当者」と略)が行います。「担当者」とは発掘現場に赴き発掘の指揮・監督をする人のことですが、実は「担当者」それぞれが得意とする時代は違っています。
私は現役時代「中・近世遺跡」の調査にあたることが多く、それらの発掘は得意で、知識もありましたが、「古墳」の発掘調査経験は調査員生活30年でわずか1回、それも1箇月間だけ。「縄文遺跡」も1回、「旧石器遺跡」の発掘調査経験はゼロでした。
ところが「現説」にやって来る考古学ファン達は、あちこちの「現説」や講演会にこまめに出かけ、ファン同士で「現説パンフ」の交換をしている人も多く、「担当者」よりも沢山の情報を持っている人が少なくありません。「担当者」よりも遺跡に詳しい人もいて、「担当者」が考古学ファンに助言を求めたり、御教示を受けることもよくあります。
話題の遺跡で来場者も多い場合は、何回も「説明」が行われます。しかし、普通は2回くらいです。2回目の説明が終わり、考古学ファン達が帰り始める頃、いよいよ各社の取材が始まります。(その3)に続く
一般市民向け現地説明会(その1 準備)
私の学生時代や「滋賀県の外郭団体」に在籍していた頃、「現地説明会」※通称「現説」 の意味は「発掘された遺跡を一般市民に広く公開すること」でした。
しかし、「文化財調査会社」に転職すると「自治体などが入札前に業務施工場所を指名業者に公開し、業務内容や仕様書の説明をしたり、質問に答えたりすること」を「現地説明会」※通称も同じ「現説」 と呼び、この言葉には二つの意味があることが分かりました。今回、お話するのは前者の事です。
遺跡の発掘調査が終わりに近づくと、「現地説明会」の日程を決め、当日配布する「パンフレット」を作り、まず団体の決裁をとり、次に県教育委員会にも決裁を回し、「遺跡について分かりやすく説明されているか」「文言に問題がないか」などについて十二分に検討してもらいます。
OKになって返ってくるとマスコミ各社の分だけプリントし、「遺跡の目玉写真」も付け加え「県庁の記者クラブ」に持って行いきます。これを「資料提供」と言います。同じ遺跡記事の写真が各誌どれも同じなのは上記の理由からです。
新聞1面に乗るような著名な遺跡なら「資料提供」と同時に取材陣が現場に押しかけてきますが、地味な遺跡の場合、取材に来ることはほとんどありません。
「現説当日」の準備は、面積の広い遺跡なら1週間くらい前から、小さな遺跡では前々日ぐらいから取りかかります。テントを張り、中に机・椅子を置き受付とし、遺跡を安全に見学できるように通路を作り、井戸などの深い遺構に人が落ちないようにロープを張ります。前日午後に遺構面を入念に掃除すると準備は完了です。(その2)に続く
釣りシーズンの到来です。
今年、最初の釣行は4月29日(祝)場所はおなじみの今治港防波堤です。まだ水温が低く、防波堤の傍まで魚は寄っていません。そこで、10mほど沖の深場まで仕掛けを投げ込むと、魚信がありました。3時間で5尾しか釣れませんでしたが、結構大物が混じっています。
11日後の5月10日(日)2回目の釣行に出かけました。温かい日が続き水温も上がって来たせいか、魚は「のべ竿」で届くところまで寄っていました。しかし、まだ魚信は小さく、クイもしぶく、数もいまいちでした。
またまたケーキの紹介です
「南京町」や「元町商店街」よりずっと南、港のすぐ近くに「乙仲通」(おつなかどおり)はあります。この通りには、事務所や船具店、レストラン、カフェ、小さなブティクの入った古めかしいビルなどが混在していますが、私たちが訪れた日曜日は、事務所や商店は休みなので、開いている店も少なく、通行人もまばらです。一か所、人だかりがあったので近づいてみるとカフェの店先でリコーダーの演奏が行われていました。
櫛比する小さな商店が店先にも屋台を出して、賑やかに客を呼び込み、大勢の人の流れがある「南京町」とは好対照です。
さて、今回紹介する「パティスリー」は、この「乙仲通」にあります。「食べログ」の順位は、「神戸市内10位から15位」くらいですが、地元では評判の店だそうです。入店するとショーケースの奥に喫茶室があり、沢山のお客で賑わっていましたが、お持ち帰りだけのお客は意外と少なく、しばらく並ぶと順番が来て、3個のケーキを買いました。私はケーキの評価には自信がないので、前回と同様、家内の分析を御披露いたします。
まず、奥の作品は頂上部の「波のように躍動的な造形」が素晴らしい。人気のない店のケーキは「ありきたりの形」で「芸術作品」には程遠く、件の作品のような目を引く造形はありません。
右の作品は上に挿してある「店名を記したチョコレート薄板」が目に留まり、断面に見える各層は、色目も味も調和がとれていて、パティシエの創作力の素晴らしさを感じます。
左も断面各層の色目の調和がよく、味もいうことのないブリュレです。。
以上で講評は終了です。ありがとうございました。
日銀の支店長
安土にある博物館に勤めていた頃ですから、平成四年から七年の間の事です。
夏の午後、総務課長が呼ぶので事務室に行くと、「来館者が三人いるので三十分位で案内をしてくれないか」という命令です。来館者の名刺を見ると、県下で一位、二位の地銀の頭取と日銀の京都支店長で、どこかに視察に行った帰り道に立ち寄ったということでした。
玄関ロビーにいた三人に挨拶し、展示室に入ると、支店長は「私は無類の歴史好きで、この館に来ることができて大変嬉しいです」と言い、どの展示に対しても興味津々で次々に質問します。ところが後から腰をかがめてついてくる頭取二人は時々愛想笑いするのですが、時計を見たり、こっそりその場を離れて携帯をかけたりして、心ここにあらずの様子です。
予定の三十分を過ぎると、二人の顔に焦りの色がありありと表れてきました。クーラーが入っているのに汗をぬぐい、ひたすら揉み手をして、もの言いたげなのですが、支店長に対して「次の予定に間に合わないので、そろそろ出ましょう」とは言いません。地銀から日銀に「声をかけてお願いすること」は大きな身分差が障害となり実施不可能なのでしょうか?
支店長は二人の気持ちを知ることもなく益々見学に夢中になり、予定時間はどんどん過ぎていきます。二人は頻繁に汗を拭き、数秒おきに時計を見て、意味もなく笑ったりしていましたが、とうとう絶望的な表情になり、小声で慰め合いを始めました。
すると、まさにその時、四時三十分の「閉館案内放送」が流れてきました。支店長は「あー、もう時間ですか。残念、残念、今度は一人でゆっくり見に来ます。案内ありがとう」と落胆しながらもお礼の挨拶をしました。それを聞いた途端、二人の顔に生気が戻り、一人は玄関を飛び出して、駐車場の黒塗り高級車を呼び寄せ、もう一人は携帯でせわしなく指示を出すと、支店長を促して車に乗り込み、車は田んぼの中の道を猛スビードで走り去っていきました。
それを見送りながら、なぜか「すまじきものは宮仕え」という言葉が頭に浮かびました。