2020年12月

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

ついにその日が

投稿日:

 令和2年11月9日(木)!!

 

 昨年来、ポートアイランドエリアの釣行では「バリコ1尾」「ガシラ2尾」「チャリコ1尾」と惨憺たる成績ながら、なんとか「ボウズなし」の命脈を繋いできましたが、前週、神戸空港の市民広釣場に釣行した折、極細の小アジが6尾とツバクロ4尾しか釣れなかったことが、凶事の前兆だったでしょうか、平成21年6月7日以来、11年3箇月余続けてきた「ボウズなし記録」がついに途切れました。

 当日はポートアイランド北公園防波堤の先端というサビキ釣には最高のポイントで、14:30から16:30までひたすらアミエビをまき続けましたが、魚信はありません。

 餌がなくなり納竿し、ボウズの空しさをかみしめながら帰り支度をして、発つ前にもう一度、海を見るとそこには美しいブルーの水面がありました。

 昭和末から平成の初め頃、9月になるとポートアイランド周辺には沢山のアジ・サバが回遊してきて、どこの岸壁でもサビキを下せば鈴なりの魚が掛かりました。

 しかし、当時の海は茶褐色に濁り、水面には船舶廃油の帯が何本も浮かんでいて、低層を泳ぐアジは食べられても、上層のサバは油臭く食べられる代物ではなかったのです。

 下水道の整備も進まず、工場排水の規制もゆるかったことから、海水の栄養も充分で、プランクトン数が多く、赤潮が度々発生しながらも、魚影は濃かったのですが、平成も終盤になると、下水道の敷設が進み、生活汚水も浄化され、船舶廃油も排出規制が厳しくなったので、海はきれいになりました。

 反面、海水中の栄養分が低下し、プランクトン数も減少したため魚影も少なくなったのでしょう。

 「ボウズ」という厳しい現実に直面したおかげで、現状を認識し、来し方を思い出し「ボウズを遁れることばかり考えていた未熟な自分を反省する」ことが出来ました。

 釣りの楽しみは「得物獲得」だけではありません。釣場周辺の風光を愛で、時間の移ろいを感じ、環境の変化を知ることも重要な要素です。

 新年からは、真摯な気持ちで釣りに向き合うことを決意、当日を持って本年の「釣納め」とし、島を後にしました。

淡河用水と山田用水

投稿日:

1.はじめに

 

 小学校高学年の社会副読本に「淡河用水と山田用水」という項目がありました。

 概要は、

 播州平野東端に広がる印南野(いなみの)台地は30㎢もの広さがありながら「水源は溜池だけ」で毎年水不足に見舞われるため「麦」や「芋」「おかぼ」しか作れず、農民は貧しい暮らしをしていました。

 明治24年に旧美嚢郡淡河村(現神戸市北区)から淡河(おうご)用水(総延長26.3㎞)が、大正8年に武庫郡山田村(現神戸市北区)から山田用水(総延長10.75㎞)が開通すると、水不足が解消され、水稲耕作も可能になり農民達は喜びました。

という感動的な話です。

 しかし、高校生時代にタモロコを釣りに行った「大鳥喰池(おおとりいいけ)」や神出窯跡群(平安時代)の一部が残る「合ノ池(あいのいけ)」など、両用水により水の供給が安定したはずの同台地上に、上記を含む沢山の溜池がいまだに残っているのはなんでなの?

 とずっと不思議に思っていましたが、疑問が解決することはないまま、桑田変じて海となり、還暦を過ぎた頃「兵庫県広報」に「神戸の水の恵みウォーク&ツアー2018」の案内が掲載されました。

 内容は、

 「2014世界かんがい施設遺産に登録された淡河川疎水・山田川疎水(これが正式名称のようです)の諸施設をバスで巡る兵庫県庁神戸土地改良センター農村整備課主催無料ツアーの募集」

とあったので、

 「これこそ長年の疑問を解く千載一遇の機会」

と、さっそく申し込むと、日頃の籤運の悪い小生が倍率4倍を超える狭き門を潜り抜け、めでたく参加者リストに入ることができたのです。

 

2.淡河川頭首工

 

 当日朝、県公館前を出発したバスは、布引トンネルを潜り、丹生山塊を越え「淡河道の駅」を経由し、そこから1.8㎞東にある最初の見学地「頭首工」に隣接した淡河川沿いの空地に到着。

 バスを降り、川幅30m程の河原出ると「洗堰構造の小さなダム」と「小さな取水口」からなる「頭首工」がありましたが「たいそうな名前」とはかけ離れた貧弱な施設です。

 取水口から続く用水路も幅1mの地味なコンクリート溝で、印南野台地までの平均勾配が1m/2000mしかないということからか、流速は極端に遅く、淀んでいるようにしか見えません。

 用水路に沿って西にしばらく歩くと僧尾川の谷を横切る大きな土塁があり、水路は最上部を通って谷の向こうまで続いていました。

 淡河地区の見学はここまでで、参加者は「道の駅」に戻り、バスに乗車し次の目的地「御坂(みさか)サイフォン」に向かいます。

 

3.御坂サイフォン

 

 見学者は眼鏡橋北側の神社でバスを降り、ここで県の担当職員から同サイフォンの説明を聞きました。

 それによると、

 設計は英国人H・S・パーマー、英国から鍛鉄製の送水管を輸入し、現地で組み立て敷設するという大工事で、疎水工事予算の1/3が投じられ、明治21(1888)年に竣工しということです。

 ちなみにサイフォンとは「A地点とB地点の高低差を利用して、途中の障害(隆起や窪み)を越えて、送水管を敷き、水を通す仕組み」のことで「疎水」は「標高132.34mの北側の山」から志染川にかかる「標高56.95m眼鏡橋のたもと」まで高低差75mを下り、橋を渡ると今度は「南側の山の129.89m地点」まで高低差73mを登って南へ向います。

 参加者も橋を渡り「送水管路の南側の急な階段」を登ったところにある三木総合防災公園まで歩き、神社から回ってきたバスに乗車、神出の農業公園に移動し昼食となりました。

 

3.練部屋(ねりべや)分水所

 

 13:00になり農業公園を出発「練部屋分水場」を経由して最終目的地「山疎水・東播用水博物館」を目指します。

 竣工時、水流は「頭首工」の閘門から5日間かかって「練部屋分水所」に着き、ここで5方向に分けられ台地各所に向かっていましたが、現在は「同分水所」より手前の「広野ゴルフ場分水所」や「老ノ口分水所」からも分水され、一部の水路は台地南端で海岸近くの「魚住」までのびています。

 「練部屋分水所」は淡河川疎水竣工時煉瓦造りの「方形」でしたが明治27(1892)年の改修により「六角形」に昭和34(1959)年には直径10mのコンクリート製に改修されたそうで、ぜひ間近で見たかったのですが、道路沿いにあり、大勢の接近は無理ということで、県職員の説明を聞きながらバス内から見学しました。

 

4.淡山疎水・東播用水博物館

 

 施設の見学や写真撮影に忙しく、久々の早起きで移動中の車内で昼寝していたこともあり「溜池のなぞ」や新たに生まれた「細すぎる用水路のなぞ」の解明ができないまま最後の目的地である同博物館に到着。

 ここでは少人数に分けられた参加者に担当職員が、淡河川・山田川疎水のメカニズムについて、展示パネルや資料を参考にしながら、丁寧な説明を行いました。

 要約は、

・淡河川・山田川近隣の農村では「田植期(5月末)」から「稲刈期(9月末)」までの農繁期には、両河川の水を優先的に利用するため、淡河川・山田川疎水に通水することはない。

・しかし「9月末」から翌年の「5月末」までの農閑期になると、近隣農村で需要のなくなった両河川の水を24時間、休むことなく印南野まで通水する。

・「分水場」で枝分かれした水路はさらに小水路により各所の溜池に通じていて、印南野に到着した水は「滴水が何十日もかかって風呂桶を満杯にするように」長時間かけて溜池に水を満たす。

・農繁期になると、溜池の貯水を周辺の水田に引き稲作を行う。

・現在は、丹波篠山市の川代ダム、三田市の大川瀬ダム、神戸市の呑吐ダムなど新たな水源ができ、通水量に余裕ができ、用水に加えて上水道も整備された。

ということでした。

 説明を聞きようやく長年の疑問が解けました。溜池と疎水は不可分の関係だったのです。

 スケジュールがすべて終わり、

「副読本にもう少し詳しく疎水と溜池の関係について記されていれば、長年疑問を持たなかったのに」

と副読本に恨みを持ちつつ乗車したバスは台地を西に向かい、西神中央を経由して、明石駅に着き、ミニツアーは解散となりました。