査読論文の光と影(その1 論文とは?)

 私が現役の頃(昭和50年代)大学文科系学部では、大学を卒業し、大学院修士課程の試験を受けて入学。2年間で必修科目を履修し、修士論文を提出。更に博士課程に入学し、3年間履修。学位(博士)論文を提出して、口頭試問を受け、審査に通ると、めでたく学位(博士号)を取得することができました。

 ところが近年、上記に加えて「研究誌に査読論文が2本以上掲載されること」が、学位取得の条件になり、道が険しくなりました。大学院生達は学位論文を提出する前に、それぞれの専門分野の「研究誌」に「論文」を送り査読を受け、採用結果を待たなければなりません。

 今回はこの「査読論文制度」の弊害を紹介したいと思い筆を起こしましたが、その前に「学位論文」「査読論文」に共通する「論文」そのもの、特に私がよく読む考古学論文について検討したいと思います。

 一般的な考古学論文の構成は、巻頭の「第1章 はじめに」からスタートします。この章では、論文の「視点」や「ねらい」が記されますが、これについては、特に問題はありません。

 次が「第2章 先行論文(報告)の紹介」です。ここでは「自身の論文テーマ」に関連する「論文」や「報告」を網羅した上で、要約して紹介します。ほんの少しでも、自説にかかわる部分があれば記載するので、必然的に件数が多くなります。

 次に登場するのが「第3章 事例報告」で、「論文」のテーマに関わる全国各地の「実例」(遺跡や遺構、出土遺物等)が「写真・図面」と「無機質な文章」のセットで何十例も掲載されます。このあたりまでくると疲れてきて読書意識が薄れてくるのですが、その後「表組」や「ドットマップ」が延々と続くこともあります。

 「事例報告」がようやく「第4章 まとめ」が現れました。目をしっかり見開き、読み進めてゆくと、これまでとは打って変わって短文が多く、中には「本論は先行研究を補強することとなった」などと誇らしげに書かれている例もありますが、「これって、自作に独自性がないことを宣言してるんちゃうの?」と思わざるを得ません。

 最後の「註」になると再び頁数が増大します。「註」の中にも文章が多く引用されていて、いつ巻末にたどり着くのか想像もつきません。

 こんな論文を巻頭から一生懸命読んでいては、命がいくつあっても足りないでしょう。

(その2)に続く