利休は生きていた その(1)-木像の磔-

 科学の世界ではiPS細胞やらSTAP細胞?やら常識をゆるがす発見が相次いでいますが、文化系も負けてはいません。昨年の「茶の湯文化学会」において文教大学の中村修也教授は「千利休切腹の史料学的研究」という表題で衝撃的な発表を行いました。

 その、内容は「天正十九年(1591)二月二十九日に切腹したといわれている千利休は実は切腹しておらず、姿をくらましただけで、その後も生きていた」という驚くべき展開です。

 中村教授によると「都の公家の天正十九年二月二十五日・二十六日付日記」には「利休の木像が一条戻橋で磔にされたこと」と「利休は逐電(逃げて姿をくらますこと)したこと」のみが記されており、当時都に滞在していた伊達家の家臣が実際に見聞したことを記した手紙にも「大徳寺の山門上にあった利休の木像が秀吉の命により一条戻橋で磔にされた」とあるだけで利休自身切腹の記事はない。逆に「利休が天正十九年二月二十九日に切腹した」と記述するする文書は「信憑性が低い」としています。

 熊谷直実や荒木村重などの著名な武士は逐電しても、後に許されているので逐電した利休も後に許されたかもしれません。

 しかし、太閤の権威に負けず、「こびる」ことも「へつらう」こともなく、最後まで茶の湯の独自性を守り通して切腹したはずの利休が、生きていたとなると歴史が大きく変わります。逐電した利休はいったいどうなったのでしょうか。 (つづく)