利休は生きていた その(2)-りきうのちやにて御ぜんもあかり-

 逐電した利休は、早くも翌年、秀吉の前に現れます。文禄元年(1592)五月六日、朝鮮出兵のため肥前名護屋城(佐賀県)に滞在していた秀吉は大坂城の生母「大政所」に「きのふ、りきうのちやにて御ぜんもあかり、おもしろく、めでたく候」(昨日、利休の点てた茶を飲み、御飯をいただきました。相変わらず利休の手前は見事で、めでたいことです)という手紙を送っています。

 また、桑田忠親氏によると秀吉が京都所司代(京都市長のような役職)の前田玄以に同年の十二月十一日付で送った手紙が残っており「ふしみのふしんの事、りきうにこのませて、ねんごろに申つけたく候」(伏見城の建設については、利休に設計させることを念入りに命令するように)という内容が記されているそうです。

 利休が生きていたという証拠はこのように存在するのですが、「利休は秀吉に逆らって怒りをかい、切腹させられた」というドラマチックな話が間違って広く普及してしまったので、これら手紙は曲解されるか、無視されています。

 中村教授の発表は、この現状に大きな一石を投じたのです。

 -最後に名護屋城に呼び出された利休と秀吉の会話を私なりに想像してみました-

秀吉 やっぱり、おみゃーの茶じゃにゃーと旨くねえだがや。茶がうみゃーと飯もすすむでよ。

利休 えらいすいまへんでしたお粗末な点前で。実は殿下に御許しいただくのを待ってましたんや。

秀吉 伏見城の設計のことは前田からあらためて命令させるから、うまいことやってちょー。

   それから息子らのことも心配せんでええ。二・三年隠れてから出てきたらゆるしてやるでよ。

   「利休が太閤に逆ろうて、太閤の嫌いな茶碗ばかり使こうとる」とかいうやつが出てくると

   わしも太閤の体面ちゅうものがあるから困るでよ。

   そんな訳で理由をつけてちょっと隠れてもろうたけど、

   これからはちょくちょく茶を点てに来てちょー。

利休 いつでもお呼びください。ええお茶と茶道具を用意してすぐに駆けつけますさかい。

   -ちょっと猫語でしたかね?-