咽郷雑記

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

三毛媛と仲間たち(インドネシアの猫さん、猫君)

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 ブログを始めた頃「三毛媛」のことを紹介しましたが、最近パソコンのハードディスクの片隅にインドネシアで撮影した猫の写真データが保存されていたのを見つけました。

 当地の猫の体の文様は、日本猫と変わりませんが、顔はシャムネコのように「長いもの」と「やや長めもの」が大半で、日本猫に見られる「鞠」か「豚饅」ような「ぽっちゃり顔の猫」は見た記憶がありません。

 「やや長めの顔」で「顎が細く」「目も大きい」美形猫が多いようです。

 彼の国はイスラム教国で、猫は大事にされ可愛がられているせいか、初対面の人にもすぐなついてくるので、猫好きの方は一度訪ねられてはいかがでしょうか。

雉猫

髭猫

仔猫

老猫

やっぱり三毛媛は美しい

 

 

 

受診の思い出(3)

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3、静脈注射

 小学校3年生の時、祖父が亡くなりました。

 肺に疾患を抱えていましたが、夕食は普通に食べ、就寝したのに、翌朝急死したのには、家族全員びっくり仰天です。

 父もよほど動揺したのか、小生のような「小学生ごとき」に向かって深刻な顔で「人生いろいろなことがある」などと述懐していましたが、気を取り直して向かったのは、実家から歩いて4~5分のところにある内科医院だったので、前出の老先生はもう亡くなったか、医院をたたんでいたのでしょう。

 小生もこのころから、そこで診察してもらうようになりました。

 医院は「職住同一」の老先生の所と違い、店が何軒かある表通りに面した「専用の建物」で、ドアを開けるとすぐ待合室があり、奥に受付のガラス窓があるのですが、薬の調合は受付のずっと奥の方で行っているらしく、窓から見えないので、受診時の二つの楽しみ(調合の見学、市電の乗車)は残念ながら消滅することに。

 ところで、ここの先生は喘息治療に静脈注射を用いていました。

 その手順は「長さが10㎝位の太いアンプル」と「小さなアンプル」合計2本の口を切り、長さが17センチ位、直径も2㎝以上ありそうな大きな注射器にまず「太いアンプル」、次に「小さなアンプル」から注射液を吸い込むと、看護婦さんが消毒したひじの内側に針を刺すのですが、先生の腕がいいのかあまり痛くありません。

 針を刺してから何度か押引きして、注射器が安定するとゆっくりピストンを押してゆきます。

 痛くないといってもやはり注射は怖いので目を反らしたいのですが「徐々に注射液が腕に入ってゆく様子」には大変興味があり、目を反らしたり見つめたりしているうちに、半分位注入が済むと、先生は必ずピストンを停め、少し引きます。

 すると注射器内に血液が糸をひくようにスーと入って来て、ゆらゆらゆれて広がり、透明な注射液は濁ってしまうのです。

 きれいな注射液が血で汚されるのは嫌なので一度顔をしかめたことがあります。すると先生は気分が悪くなった勘違いし「大丈夫?」と言って針を抜いてしまいました。

 その時は「しまったせっかくあの液が全部腕に入るのにもったいないことをした」と後悔し、それ以後注射中は務めて無表情を装うことにしましたが、はたから見るとその不自然さは随分滑稽に見えたでしょう。

 この注射の効き目は早く、注射液が全部腕に入る前に喘息の発作が「すー」と嘘のように遠のいてゆくので気に入っていました。

 しかし、近年は点滴に取って代わられたらしくとんと見かけません。

 幼い時の記憶に「受診体験」が多く含まれているのは、小児喘息のため度々受診し、怖い場所ではあるのですが、反面好奇心をくすぐる事象がそこここにある医院という異次元の世界での様々な体験が記憶として長く残されたからでしょう。(この項終わり)

受診の思い出(2)

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2、チミツシン

 

 かかりつけの内科で渡される「粉薬」は子供でも飲みやすいように、少し甘みがついていましたが、美味とは程遠いものだったので、オプラートに包んで飲んでいました。

 逆に飲むのが楽しみでだったのが、一緒にもらう「喘息の飲み薬(チミツシン)」です。

 その臭いは強く、味もおいしいものではないのですが、甘味は結構あり、飲み慣れてしまうと何故かおいしく感じるようになる不思議な薬でした。

 冷蔵庫で十分冷やした薬瓶を食後に出し「瓶の側面に刻まれた1メモリ分の薬液」を慎重に計って湯飲みに入れ、ジュース感覚でゆっくり味わって飲むのです。

 ところで、当時祝い事や忘年会等で家族、親せき一同集まって出かける三宮の中華料理店があり、そこではいつもコース料理を頼むのですが、最後のデザートに出て来るのが大きなボウル一杯の「杏仁豆腐」で当時は「中華プリン」と呼ばれていました。

 もちろんケーキ屋さんで売られている一般的な「西洋プリン?」と違い「カルメラ」もかかっていません。

 「杏仁」の割合が多いのか、現在市販されているマイルドな杏仁豆腐と比べると「臭いも味も」強烈でした。そして何故かその両方が「チミツシン」のそれとよく似ているのです。

 「チミツシン」の主成分は「咳止め」「痰切り」の効果がある「杏仁(あんずの種)」であることを知ったのは、ずっと後のことだったので、当時は「咳止めの薬」と「中華料理のデザート」が同じ味なのはずいぶん不思議なことだと思っていました。

 近年、薬膳料理など漢方薬を用いた料理がもてはやされていますが、50年前から(おそらくもっともっと以前から)漢方薬は中華料理の材料として当然の如く用いられていたのでしょう。

 幼いころの「陰の思い出(受診)」と「陽の思い出(中華料理の会食)」に「杏仁」という共通項があったというお話でございました。(続く)

受診の思い出(1)

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1、上皿天秤と薬包紙

 

 幼稚園から中学生までの間(昭和30年代から40年代初め頃)小生は持病の小児喘息発作が月に何度も起こり、その度「掛かりつけの内科医院」に連れて行かれました。

 そこは「最寄り市電停留所」の「次の停留所」近くにあるので、たいてい父と市電に乗って出かけます。

 発作で苦しいのに市電に乗った途端、ずっと乗っていたくなるのですが、残念ながらすぐに下車し、大きらいな細い坂道を下って「医院」まで歩かなければなりません。

 この道の街灯は電球のため街は暗く、その上途中に「マムシ酒」の大きな瓶をウインドウに飾っている店があり、それが怖いので店の前を通る時は反対側に目を反らします。

 この難所?を過ぎると未舗装の広い道が坂道に交差していて、東に曲がるとようやく目的地が見えてきました。

 「医院」は大きな看板は出ているのですが、外観は普通の和風家屋で、玄関を入り右の廊下に進むと受付のガラス窓があり、窓の向こうに座っている看護婦さんに保険証を渡し、庭に面した廊下をさらに進み、右側の扉を開けると中は帽子掛けとソファとある待合室になっています。

 ソファに座ってしばらくすると、看護婦さんに呼ばれ、父と一緒に診察室に入ると蓋の端から湯気をさかんに噴き出している「注射器の煮沸消毒器」が脇の棚の上にあり、大きな机の左側に老先生が座っていました。

 入室し、机の前の丸椅子にちょこんとのると、先生は小生とそばに立っている父から病状を聞き、聴診器で胸にあて「何時もの発作ですなあ」と毎度おなじみの診断結果を宣い、横の棚から「薬液のアンプル」を出し「ハート形のヤスリのような小カッター」で首のところを少し削り、アンプルの先をもって折ると「ポン」と音がして先の部分が取れます。

 すかさず看護婦さんが「煮沸消毒器」の脇にあるケースから細い注射器を出して先生に渡たすと、消毒液の付いた脱脂綿で小生の「二の腕」を消毒。

 先生は注射器でアンプルから注射液を吸い取って、上を向けてピストンを動かし針から空気を押出すと、針が腕にズブリと突き刺ささり、とても痛いはずなのですが、痛みの記憶は全くないのです。

 実は、この先生「皮下注射を痛みなく打つ不思議なテクニックを持つ魔術師だった」のかもしれません?

 無事診察が終わると、薬の調合が終わるまで待合室で待つのですが、小生は父を部屋に残し、受付へ行き、窓から看護婦さん(薬剤師さんだったのかもしれません)が「薬を調合」する様子をじっと眺めるのが定番となっていました。

  その「調合」を最初から順を追って記すと、まず先生の持ってきたカルテをも見て、横の棚から「茶色の瓶」を幾つか、机の抽斗から「硫酸紙」を何枚か取出します。

 次に「上皿天秤」の片方に分銅を南個か載せ、反対側の皿には「硫酸紙」を置き、銀色の匙で「瓶」から「薬の粉末」を掬い、その上に載せて、釣合の取れるまで粉薬の増減を実施。

 「出した瓶」全てから粉薬を掬い出し、定量にすると、それらを一つの「乳鉢」に入れ「乳棒」で混ぜ、新たに取出した「大きな硫酸紙」にあけますが、その時乳鉢や乳棒に付着した粉末は「小さな刷毛」で丁寧に「紙」に落とされます。

 最後に皿の片方には、先ほどよりずっと小さな分銅が、もう一方には「薬包紙」が置かれ「大きな硫酸紙」上の粉薬を「先ほどより小さな匙」を使って少しずつ「薬包紙」に移し、釣合が取れると「紙」は降ろされ、手早く折りたたまれました。

 薬が配分された十数枚の「薬包紙」全てをたたみ終えると、飲み薬に取り掛かりますが、こちらは大きな瓶から「茶色の飲薬」を目盛りの付いた小瓶に移すだけなのですぐ終わります。

 薬の調合が終わり、待合室に連絡がゆくと、父が出てきて会計を済ませ、薬をもらい、元来た坂道を戻るのですが、発作で息苦しい上「マムシ」が怖い往路と違い、症状も少し軽くなり、甘い飲薬までもらっているので気分は軽く「市電の停留所までの坂道を元気よく登っていこう」意気込むのですが「マムシ」の前まで来るとやはり怖さに耐えられず、往路同様目を反らし通り過ぎるのでした。(続く)

※「看護婦」という言葉を用いることは現代にあっては不適切かと思われますが、拙文は半世紀前の記憶の再構成であり、この言葉も当時は一般的に用いられていながら、現在は歴史的用語としてしか存在しえないことを認識した上で用いています。

これが「薬包紙」です。

                  これが薬包紙です

シロン1

                              シロンSは今でも薬包紙を使っています

平成30年 初釣行

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5月中旬某日今年最初の釣行を実施しました。

 しかし毎年初釣行の釣場に決めている「須磨海釣り公園」が、当日定休日のため、やむなく行先を塩屋防波堤に変更。

 最寄駅からJRに乗車し「海釣り公園」なら園内で餌を買うところを須磨駅で途中下車し、餌店で石ゴカイを購入して駅に戻ったところ、駅東方の「上りの急行線」には新快速「緩行線」には快速が停まっていて「須磨駅と須磨海浜公園駅間の踏切で緊急停止ボタンが押されたため、すべての列車が停まっています」との構内放送が繰り返し流されています。

 「あちゃー、もしかして今日は三隣亡?」と落胆し「JRをあきらめて、山陽電車で塩屋に行こうか?」と思いつつも「しばらく待つか」と、ベンチに座ってミネラルウオーターを飲んでいると、突如「緩行線」の快速が動き出し、徐行運転で東方へ消えてゆきました。

 5分後、新快速も出発し、ほどなくして「全線開通」のアナウンスがあり、7~8分後須磨駅に到着した乗客満載の各停に乗車、予定より30分以上遅れて、ようやく塩屋防波堤に着きました。

 まず、防波堤の先端まで行き「ノベ竿」を出しましたが、何度振り込んでも魚信はなく、餌にはかじられた痕もありません。

 まだ水温が低いので「魚は深場にいるかもしれない」と、「投竿」で沖目を狙ってみたのですが、根がかりするばかりで全く魚信なし。

 そのうち「ノベ竿先に結んだ糸がほどけて仕掛けをすべて流してしまう」という大惨事が起こり「9年間続いた坊主なしの記録が今日遂に途絶えてしまうのでは」という不吉な情景が脳裏に浮かんできました。

 仕方なく昨年、テンコチやキスが数多く釣れた防波堤の根元に行って砂地に座っている石の周りを探ると「小さな小さな魚信」が何度もあり、合わせるのですが、釣針に乗りません。

 それでもしつこく探っているとついに5cmほどの「ミニテンコチ」が釣れたので、直ちに放流して、納竿。正常に動き始めたJRで早々と帰宅しました。

 今回は「坊主なし記録」が途切れることはありませんでしたが、実は近頃、記録を続けていくことに精神的な負担を感じていて、鳥谷の連続試合出場記録も5月29日に途切れたことだし、そろそろ「記録を途絶させ、気楽な立場になりたい」という思いが心の中に芽生えつつあります。

「よろしくお願いします」

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 かつて「よろしくお願いします」という挨拶は、塾に入ることになった子供を連れて挨拶に行った親が教師に

「不肖の豚児ですが、どうぞよろしくお願いします」

と、頭を下げたり、弟子が師範に稽古をつけてもらう前に

「先生よろしくお願いします」

と、一礼する時など「願いごとの折に使われる挨拶」の一種でした。

 ところがいつ頃からか分かりませんが「営業に行って商談に入る前」や「対談やインタビューの冒頭」などに「双方が同時にこの挨拶を交わすような習慣」が生まれ。

例えば 

アナウンサー  本日のお客様をご紹介いたします。○×大学教授の△先生です。

(二人同時に)  よろしくお願いします。

-(間)

アナウンサー  それでは、まず最初に時事問題から話を進めてまいります。

と、いうように使われるようになりましたが、同時に発声するので、どうしても発生直後に「短い無言の間」が出来てしまいます。小生はこの「間が悪く」「間が抜けた」会話中断が大嫌いです。

 また「間の後、どちらが先に発言するか逡巡した挙句、同時に発声してしまい、お互い気まずい思いをする場面」も何度も見てきました。

 この「欠点の多い挨拶」に変わる「よい例文」はないかと色々考えたのですが、中々いいアイデアが浮かびませでした。

 ところが最近、テレビアーカイブスで昭和40年代テレビインタビュー番組を視聴する機会がありました。

冒頭の部分は、 

アナウンサー こんにちは。

ゲスト    こんにちは。

アナウンサー 本日お越しのお客様は、文芸評論家のA先生です。先生は長年、近代文

       学の研究に取り組まれ、多くの実績をあげられておられます。

       そこで、本日は近代文学の神髄についてざっくばらんにお伺いしたいと

       思います。

       それでは先生、まず明治時代初頭の文学について質問をいたします。

ゲスト    どうぞ、お手柔らかに(笑い)

と、なっていて「例の挨拶」がないので「間」も出来ず会話が順調に進行しています。

「これはよい」

と、この事例を参考に、初めは「例の挨拶」を排除した「例文」構成しようとしたのですが、うまくいかず断念。

 そこで「例の挨拶」を使っても「間」が出来ない「例文作成」に方針を転換し、ようやく出来上がりましたので、以下紹介します。

Aさん こんにちは

Bさん こんにちは

Aさん よろしくお願いします。

Bさん こちらこそ

Aさん それでは、早速ですが・・・。

 つまり、「よろしくお願いします」と同時に言うのをやめ、Aさんの「よろしくお願いします」を聞き終わってから、Bさんが「こちらこそ」と受けると「間」もできず、会話が途切れることがありません。

 早速実践してみると、この「受け言葉」は予想以上に上品に聞こえるようで評判も良いようです。

 一度この言葉を使ってみよういう勇気のある方はおられませんか?

「お山の杉の子」の後日談(その2)

投稿日:

 お待たせしました。

 

「お山の杉の子」その後                           

 

1 いくさに敗れた兵隊さん 復員してきて見たものは

  焼け跡だらけの神の国 神の国

  とにかくなんとか木を集め お家や 役所や 学校を どんどん作って復興だ

     杉の木 山から 切り出そう 切り出そう

2 トンチンカンチントンチンカン 全国各地で復興の

      槌音 大きく 巻き起こる 巻き起こる

  ところが 頼みの杉の木は 戦争中に切りすぎて 全然足りない 困ったな

  しかたがないから 植林だ 植林だ

3 椎の木 ドングリ ブナ 楓 用なし樹木は 切り払い

     どんどん杉の木 植え付ける 植え付ける

  植え付けられた杉の木は みんなの希望を一心に 大きくなったら 国のため

  お役に立とうと 伸びてゆく 伸びてゆく

4 ところがにっくき米国は 戦争勝利で飽き足らず

      材木不足の日本に付け込んで

  自国の材木売りつけて 日本の林業潰そうと 関税引き下げ強要す

     たちまち杉の木 将来が暗くなる

5 そのうち杉の子成長し 立派な大杉が増えたけど

    値段が高くて 売れません 売れません

    数百倍に増えた杉 大人になったあかしとし 春には花粉を大放出

  国民たちまち花粉症 花粉症

6 さあさあ 負けるな杉の木に 今では薬も揃ってる

       目薬 点鼻 飲み薬 塗り薬

   お医者先生と薬屋は 杉の木様のおかげです 患者が増えて大儲け

       わっははの わっははと高笑い 高笑い

7 ところが奇跡か天祐か 豊かになった 唐国が

    家をどんどん 建てるので 建てるので

       材木足りない どうしよう それなら 輸入だ 日本から

        杉の木ようやく役に立つ 役に立つ

 

お粗末でした(この項終わり)

「お山の杉の子」の後日談(その1)

投稿日:

お山の杉の子

                            作詞 吉田テフ子

                            作曲 佐々木すぐる

 

1昔昔その昔 椎の木林のすぐそばに小さなお山が あったとさ あったとさ

 丸々坊主の禿山は いつでもみんなの笑いもの「これこれ杉の子 起きなさい」

 お日さまにこにこ 声かけた 声かけた

2 一二 三四 五六七 八日九日十日たち にょっきり芽が出る 山の上 山の上

 小さな杉の子顔出して「はいはいお日さま 今日は」これを眺めた椎の木は

 あっははのあっははと 大笑い 大笑い

3 「こんなチビ助 何になる」 びっくり仰天 杉の子は 思わずお首を

 ひっこめた ひっこめた

 ひっこめながらも 考えた 「何の負けるか 今に見ろ」 大きくなったら 皆

 のため お役に立って みせまする みせまする

4 ラジオ体操一二三 子供は元気にのびてゆく 昔昔の禿山は禿山は

 今では立派な杉山だ 誉れの家の子のように 強く大きく逞しく

 椎の木見下ろす 大杉だ 大杉だ

5 大きな杉は何になる 兵隊さんを運ぶ船 傷痍の勇士の寝るお家 寝るお家

 本箱 お机 下駄 足駄 おいしいお弁当 たべる箸

 鉛筆 筆入れ そのほかに 楽しやまだまだ 役に立つ 役に立つ

6 さあさ 負けるな杉の木に 勇士の遺児なら なお強い

 からだを鍛え 頑張って 頑張って 今に立派な 兵隊さん 忠義孝行

 ひとすじに お日さま出る国 神の国 この日本を 護りましょう護りましょう

 

 この歌は、太平洋戦争中の昭和19年「少国民文化協会」が行った「少国民歌の歌詞懸賞募集第一位」に輝いた元小学校教員吉田テフ子氏作の歌詞に「月の砂漠」や「じゃんけんぽん」などで有名な作曲家佐々木すぐる氏が曲を付けたものです。

 吉田氏は、林業の盛んな「徳島県宍喰町」の出身なので、杉の植林についてもなじみが深かったのでしょう。

 佐々木氏は、「兵隊さんよありがとう」のような「愛国歌」から「日教組の歌」まで「多様な分野の歌詞」に曲を付けています。

 また校歌も多く作曲していて、その中には私の実家に程近い神戸市立西灘小学校や長田区の真野小学校、新居浜中学校、松山北高校などが含まれていました。

 ところで「杉の子の歌」は歌詞に「誉の家」や「勇士の遺児」が出てくるように元々「父親が戦死したため残された子供を励ます歌」だったのです。

 「戦死した父親と同じ危険な職業に就くことを勧める」という歌詞は、現代人にとっては抵抗感もありますが、戦前の軍人は社会的地位も高く、また「親の敵を討つために軍人になること」を勧める意味があったのかもしれません。

 しかし、歌詞を子細に読むと「ひょっこり芽を出し、お役に立つことを誓った杉の木」も天寿を全うする前に伐採され、製材・加工された製品には、下駄や足駄、箸、鉛筆など消耗品が多く、考えてみれば輸送船も魚雷や機雷、敵艦の攻撃により多くが沈められたように消耗度の高いものです。

 もしかしたら、作詞者は「兵隊は消耗品として扱われる」という反戦的思想を歌詞に密かに込めたのかもしれません。

 さて、小生が滋賀県で仕事をしていた頃、戦前「小国民」だった「爺様」達から「戦時中、学校から布引丘陵(東近江市)まで歩かされ、そこで杉の植林の手伝いをさせられた」「戦前の安土山には、杉の木など一本もなかったのに戦時中に盛んに植林したのですっかり杉山になってしまった」など杉の植林の話をよく聞きました。

 戦時中、「少国民」達まで動員し、全国津々浦々で「杉の植林」を行ったため、杉の木が増え過ぎ、それが原因で「花粉症」になってしまった小生は、歌詞の主題である「杉の植林の寓話」にずっと反感を持ち続けています。

 しかし、「杉の植林」の歴史を少し調べてみると、実際に杉の木が大量に植林されたのは、復員兵が新所帯を持ち、ベビーブームにより人口が増大し住宅が不足、さらに住宅以外の復興事業に伴う木材需要も増加した「復興期」のことが分かりました。

 では重要な目的をもって大量に植林された杉の木の多くが、手入れも不十分なまま山中に放置され、花粉の発生源として花粉症患者から忌み嫌われているのはなぜなのででしょうか?

 その理由については、小生が創作した「杉の子の歌の続き」に示しました。次回この歌詞をご披露しますので、お楽しみに!(続く)

漢方薬の効き方(その2)

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 絶望感が消えず、やる気もおこらないまま、だらだら過ごす内に昼時になり、食後しばらくすると食間の投薬時間が迫ってきました。

 憂鬱な気持ちで土瓶に手を伸ばした時「一度病院に苦しみを低減させる方法を聞いてみよう」という考えが浮かんだので、病院に電話し院内の薬局に繋いでもらいました。

 早速、薬剤師に「煎じ薬を飲むのがいかに辛いか」を訴えると、

「それなら冷蔵庫で十分冷やしてから飲めば、刺激的な味は軽減されます」

「2日分までは、まとめて作っても構わないので、それを冷蔵庫で保管すれば作る手間も半減します」

 と午前中にはなかった「御教示」があったので、1回分土瓶に残っていた煎じ薬をコップに移し、急冷すべく冷凍室に1時間ほど入れてから口に含んでみると、臭いはかなり弱くなり、舌に対する攻撃力も減って、少しの我慢で飲むことに成功。

 その夜には、翌日と翌々日の2日分を作り、麦茶用のガラスボトルに入れて冷蔵室で保管し、翌日の出社時には水筒に入れて携行し、食間に飲みました。

 ある時、東京で研究会があり、休憩時間に廊下で薬を飲んでいると臭いは低減されたとはいえ周りに漂ったらしく「稲垣氏が怪しい液体を飲んでいる」という「悪い噂がたったこと」を後で参加者から聞き、苦笑することに。

 ところで、薬の効能はいつ頃出てきたと思います?

 飲み始めて1年目の春「涙がぽたぽた」の症状は一向に改善されません。2年目も効能がないまま「今春看又過ぐ」という気持ちで空しく春をおくりました。

 同時期に受診し始めた「患者仲間」も何人かいたのですが、中々効能が現れないことに悲観したらしくその姿は2年を待たずして待合室から消滅。

 小生は学業、スポーツ両方とも成績はもう一つでしたが、「根気強さ」には絶対的な自信があったので、ただ一人治療を続け3年目の春、ついに変化が訪れました。

 その年、目は充血してかゆくなりましたが涙の量は明らかに減少し、パソコンのキーボードに涙が落ちることがなくなり、4年目、症状は「充血」と「わずかなかゆみ」だけになり涙はピタッと停まりました。担当医の言った通り4年目にして症状は大きく改善されたのです。

 「漢方薬治療をやってみよう」と思っている皆さん!!

 個人差はあるでしょうが、大事なことは「根気」です。それさえあれば必ずゴールにたどり着けるでしょう。(この項終わり)

漢方薬の効き方(その1)

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 小生は、幼稚園の頃からアレルギー物質が原因の「濾胞性結膜炎」「アレルギー性鼻炎」「小児喘息」等の免疫異常疾患を患い「内科」「耳鼻科」「眼科」に月に何度も通うひ弱な子でした。

 成人する頃には「喘息」と「鼻炎」は何とか「小康状態」になったのですが「濾胞性結膜炎」(いつの間にか「花粉症」と名前を変えていました)は、治る兆しもなく、30歳を過ぎた頃からさらに悪化し「スギ花粉」時期には、デスクワークをしていると涙がぽたぽたパソコンのキーボードに落ち、仕事がはかどらないほどになりました。

 「眼科」で治療を受け、出してもらった目薬は、一時的に涙を止める効能はあるのですが、持続時間はわずかで、根本治療にはなりません。

 それでもしばらくは、こまめに目薬をさしていましたが、わずらわしさもあり「根本治療に取り組もう」という決心をして、京都にある漢方治療専門の病院を予約しました。

 当日、病院を訪れると、待合室は大変な混雑で、予約したのに30分くらい待たされ、ようやく診察室に入ると、担当医の長い問診、聴診器・打診の後「手首の3か所の脈診」「舌の裏表を観察」など漢方医独特の診察があり、ようやく「診療方針」の説明が始まります。

 まず、最初に

「治療薬には煎じ薬と粉薬があるが、煎じ薬の方の効き目が早い、どちらを選択するか?」

と聞かれたので、

 「煎じ薬でお願いします」

と答えると、

 「煎じ薬でも目に見える効能が現れてくるには2年から3年かかります。4年で1クールだと思って下さい」

と念を押されました。

 帰りに院内の「薬局」で薬をもらいましたが、煎じ薬1日分(食間2回)は、細かく刻んだ何種類かの薬草からなり、即席ラーメン大のビニール袋にぎっちり詰まっています。

 薬剤師から

 「土瓶に薬を入れ、水を1㍑注ぎ、弱火で煎じて、300ccまで煮詰めるように」

と言われたので、帰って早速実施してみると煮詰まるにつれて、面妖な匂いが漂ってきます。

 予定の300ccになったところで火を消し、少し冷まして、湯飲み注ぎ、飲もうとして口をつけると眼がチカチカし吐き気を催すほど強烈な匂いの攻撃を受けたので、思わずテーブルに置きました。

 数分後意を決して湯飲みを取ろうとするのですが、体中の臓器すべてが本能的に拒否反応を起こしているようで、手が出ません。

 しかし、長年苦しんだ花粉症を治すために蛮勇を振るい「どうとでもなれ」とこの「最高に体に悪そうな異質の液体」を一気に飲み干すと!!

 味蕾は完全に麻痺し、体全体がぶるぶる震え、全身の毛根が総毛立ち、寒気に襲われ倒れそうな状態に!

 数分経ってようやく、人心地が着いたのですが「これから毎日二回もこの難行を実施しなければならないのか」と思うと絶望感に打ちのめされました。(続く)