咽郷雑記

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

三階坂

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 28歳で滋賀県に引越すまでは家族と「坂の町」神戸に住んでいましたが、足運びが傾斜に合っているせいか「坂道」の方が「平坦な道」より歩行が快調で疲れもないので「坂道散歩」をよくしました。その中でも特に気に入った「坂道」を紹介しましょう。
 今回、取り上げるのは現在の通勤路の途中にある「三階坂」です。
 駅から拙宅までは約48mの高低差がありますが、ここを登りきるともう玄関は目の前なので、最後の難所となる急坂です。名称は「20m足らずの距離」なのに「地面から3階の高さまで一気に登る急勾配」から、小生が勝手に命名しました。

三階坂 山本通4丁目

 

2019年 釣りシーズンの終了

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 11月最終週の某日をもって今年の釣りシーズンは終了したので来し方を振り返ってみると、シーズン当初となる初夏の豆鰺はそこそこ釣れたのですが、夏の塩屋防波堤ではミニチャリコの猛攻のためベラはさっぱり。
 新規開拓した中八木の防止堤には大型ベラが居ついているのですが、沖まで続く捨石のため、ノベ竿の仕掛けがポイントまで届かないという欠点があります。
 やはり、須磨海釣り公園が閉鎖された影響は大きく、今年はノベ竿が全く活躍できませんでした。
 シーズン終盤恒例であるポートアイランド中公園防波堤のサビキ釣りは鰺が全く姿を見せず、3回の釣行で「ウミタナゴ1尾」「バリコ1尾」「フグ1尾、ミニガシラ2尾」という惨状。
 低調な時期の多いシーズンでしたが、「ボウズなし記録」は今年も途切れることがなかったのです!?
 来年はあまり意味のない「記録」の継続より「ノベ竿の活躍」を期待したいのですが。

中八木海岸釣行

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 今年の塩屋防波堤はミニチャリコの大量発生によりベラの食いが極端に悪く、ポートアイランド中公園防波堤も釣果はもう一つなので、思い切って神戸市を抜け出し、明石市中八木海岸に遠征。
 ここは以前、史跡巡りに行った折に目につけていた釣場で、心惹かれた点としては、
1、海岸の砂止堤が石積みでいかにもベラが潜んでいそう。
2、海岸は広く、明石海峡大橋・淡路島に臨み、砂止堤も須磨ビーチに見られる無粋なコンクリート製ではなく石積なので風景に溶け込んで感じがいい。
3、釣場は駅から徒歩10分程度と近い。
などがありました。
 さて、当日はお昼過ぎに現地に到着し、最寄りの砂止堤の先端からノベ竿を出しました。ところがミニフグの猛攻を受け針が何本も喰い切られてしまいます。
 20分ぐらいがんばってようやく赤ベラ1尾ゲットしましたが、

 「このポイントは捨石の幅が広いので沖まで浅い。ノベ竿の届く浅場にベラはほとんどおらず、ミニフグが群れている」

と判断して、ノベ竿を諦め短竿にリールを付け、10mくらい沖に仕掛けを飛ばしてみると、すぐに大きな魚信があり20㎝近いキュウセンが上がってきました。
 どうもそのあたりが捨石と砂地の境らしく、仕掛けを投入するとぼつぼつと魚信があり、4時間程でベラ、ミニチャリ、丸ハゲ合わせて13尾釣れたので納竿。
 塩屋防波堤のように数は釣れませんが、ベラの型は大きめです。
 ノベ竿が適合しない、少し残念な釣場でしたが、初回の釣行にしては、まあまあの釣果でした。

中八木海岸

釣果

                

                  

好きな和歌 弐

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大伴家持 天平勝宝二年三月一日の暮に、春の苑の桃李の花を眺矚めて作る二首

・春の苑くれないにほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ(万葉集十九巻 四千百三十九番)
・わが園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも(同 四千百四十番)
(はだれの:はらはらと降る雪)

 昭和40年代、友達と奈良に行った際、近鉄奈良駅ビル最上階あった奈良の史跡案内を目的としたガイダンス施設「奈良歴史教室」に立寄りました。
 入場券を買い展示室に入ると、入口扉横の壁の上に「奈良時代装束の乙女五・六人が梅林を逍遥する様子を描いた大きな絵」がかっていて「天平勝宝二年三月一日(750年4月15日)に作られた 春の苑・・」の歌を再現したと書かれたキャプションが添えられています。
 小生はこれを見て、
「鹿も居眠りしそうな陽春の夕刻、梅林を楽しげに歩く無邪気な乙女を詠んだこの歌こそ咲く花の匂うがごとき奈良の都にふさわしい」
と、とても気に入っていたのですが、後になって当該歌は家持が越中国守として同国の国府(現高岡市)に赴任していた時のもので、下照る道に現れたのも「越中乙女」であることを知ることに・・。
 それから遥に時が流れた先日、久しぶりに書架から万葉集を降ろし斜め読みしていると、四千百三十九番が目に留まったので、口ずさみながら往時を回想していたのですが、続く四千百四十番に目が移った時、
 「二首は同日に作られたので、桃と李が一緒に開花していたことになるが、李の開花は桃より早かったのでは?」
と思いついたので、早速調べてみると、
 富山県農林総合技術センターの記録では「一般的に桃は近畿・北陸では3月下旬から4月上旬にかけて開花するが、あかつきという品種の桃の県内での平均開花日は4月13日頃、しかし2011年には4月17日に開花した」
と記されていました。
 李については「おばあちゃんのひとりごと∞」というブログで、
 「富山県射水市足洗潟公園の李の花は2017年4月6日には3分咲きから8分咲だったが、前年の4月8日はもう終盤だった」
とあり、富山県でも李が桃より先に開花するようです。
 二首を比べると、下の道が赤く照り映えていることから桃は「開花期」で花は沢山残り、李は花弁が庭の残雪と紛れていることから「落花期」に入っていたのではないでしょうか?
 とはいっても、これは桃李の品種や気候が現在と違う奈良時代のことなので、確信は持てません。
 「越中乙女が逍遥した梅林は奈良の都と比べると少しばかり肌寒い風が吹いていた」
あたりでとどめておくのが無難かなと思っています。

勘違い

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1、「美腹(びばら)レディオ?」

 今の職場では就業時間中BGM代わりに「KISS FM」が流されていて、金曜日の11:30~16:00には「ビバラレディオ」なる「トーク番組」がかかります。
 小生は番組名の「ビバラ・・」について、
「美貌」「美乳」「美尻」「美脚」と関連する「美腹(びばら)」ではないかとずっと思っていました。
 ところで「美腹」とはどんな腹でしょう。
 「段のないすっきりした腹」なのか?
 「よく鍛えられ腹筋の割れた腹」なのか?
 しかし、16:00になり番組が終わると同時にその疑問も「すうっ」と消え、翌週11:30になると「積乱雲のようにむくむく疑問が湧く」の繰返しが続いていました。
 ところがある日「地下鉄県庁前駅」の切符売り場の横に「KISS FM」の広報誌「Kiss Press」 が、積み置かれていたのを見つけたので、1部いただいて、電車の中で斜め読みすると週間番組表の金曜11:30~16:00の欄に  「Viva Ia Redio」の文字が。
「なんや西洋語やったんか」とがっかりすると同時に恥ずかしさがこみあげてきて人知れず赤面しました。

2、新田原基地(にゅうたばる基地)

 宮崎県新富町にある「航空自衛隊新田原(にゅうたばる)基地」はF15Jが配属され、領空侵犯に対するスクランブル発進等でニュースに度々取り上げられます。
 ところで「原」を「はる」(連濁では「ばる」)」と読む地名は、「原の辻(はるのつじ」(長崎県)「原田(はるだ)」「平原(ひらばる)」(福岡県)「田原坂(たばるざか)」(熊本県)など九州には多くあります。
 新田原の田原は「たばる」で、おそらく古い「旧田原基地」があり、改修されて「新(NEW)田原基地」になったのだと、ずっと思っていました。
 ところが、最近神戸市内で新富町の「新田神楽(にゅうたかぐら)」を鑑賞した折「新田」を「にゅうた」と読む大変珍しい読み仮名があることを初めて知りました。
 小生が(「新」+「田原」基地)と思っていたのは、新田郊外の「原」にある(「新田」+「原」)基地だったのです。
 「新田神楽」の鑑賞がなければずっと認識違いを続けていたわけで、まさに僥倖としかいえない機会で正しい認識を得たわけです。ありがたや!ありがたや!

今年はチャリコが多いぞ

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 8月の塩屋防波堤では、金魚サイズの「チャリコ」がベラよりも素早く餌に飛びつき、次から次に上がってきたので、立派な明石鯛に成長すること期待してほとんどリリースしました。
 先日、同所に行くと5~6センチに成長した同魚が、やはりベラを押しのけて次々に針にかかる始末。
 例年なら10月もベラ釣りを続けるのですが、これではどうしようもありません。
 11月頃になると15㎝以上に成長したチャリ君たちがポートアイランドあたりで釣れそうなので、それを期待しましょう。

    当日の釣果(リリースを除く)


 

好きな和歌 壱

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京極為兼 沈み果つる入日の際にあらわれぬ霞める山のなお奥の峰 (風雅和歌集所収 現代仮名遣いで表記)

現代語訳 夕日が山の端に沈みきった時、その向こうに「夕闇に霞む山塊」が見えさらにその奥に「屹立する高峰」が現れた。

 

風巻景次郎「中世の文学伝統」(岩波文庫)に所収された同和歌に邂逅した時、全身が震えるような感動を覚え、この光景は「寒風山から見る石鎚の霊峰か、いやカンチェンジュンガから臨むエベレストの高峰だ」などと夢想して喜んでいました。

同氏によると、鎌倉時代末期、藤原定家の曾孫にあたる「大納言 京極為兼」を中心とする歌人グループ「京極流」が存在していて「同流」の和歌の特徴としては、

「夕方時の光線の中で景色を見る」

「大気と外光の陰影を伴った自然を歌にする」

ことがあげられ、代表的作品として表題の歌が示されています。

小生は「作者の為兼とはいかなる人物か」を知るために「土岐善麿氏」と「今谷 明氏」の著書をネット通販で取り寄せ、読み進めると、当該歌について土岐氏は、

「二条為世(註1)などには逆立ちしてもこういう歌はつくれまい」

今谷氏は、

千古の絶唱

と激賞していて、大変うれしく思いました。

さて、それからしばらくしたある夜のこと、なんと「当の為兼卿が夢に現れ、小生に話しかけるという仰天の出来事」がありましたのでここに紹介したいと思います。

なお卿が現代語で話すのは不自然さがありますが、夢ということで御容赦ください。

為兼卿  少しばかり、話したいことがあってここに来た。しばらく時間を拝借したい。

さて、貴殿は近頃「還暦を過ぎたからゆるゆる生きる」とか「研究はペースダウンする」などと怠けたことを言い、若き日「奥の峰」を目標に勉学に勤しんでいたことをすっかり忘れ、「霞める山」のずっと手前で足踏みしているようだが、いかがかな?

小 生 ・・・・・

為兼卿  日は落ちたといっても、まだ残照で前は見える。夜になれば月も出る。命の続く限り「奥の峰」を目指して研鑽に励むべきではないのか?

小 生 ・・・亜相様(大納言の唐名)私が間違っておりました。心を入れ替え「研究」に励みもう一度「奥の峰」を目指します!!

と、気負って宣言したところで目が覚めました。

為兼卿は、年を取ってすっかり怠け癖がついた小生が真面目に研究に取り組むようにこの歌を送り届けてくれたのです。これほどありがたいことはありません。頑張らねば!! 

1 定家の家系「御子左家」の本流「二条家」の嫡子で、為兼と同じ藤原定家の曽孫であるが、想像力豊かな「為兼」と違い、想像力の乏しい「ゴリゴリの守旧派」と言われる。しかし、歴史的視座からみると、和歌が「文芸」から「風流」に移り変わる分岐点にあらわれた重要な人物であるということができる。

 

 

 

 

 

居酒屋の話

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 大津市に住んでいた独身時代は、給料が入ると「祇園」や「木屋町」「先斗町」などの「高級居酒屋」で一合数千円もする銘酒を何杯も飲み「鮒鮨」なんぞを食するという「豪遊?」を繰り返していましたが、今治単身赴任時代になると光熱費が自宅と下宿の2箇所分になり、帰省旅費の出費も大きく、必然的に大衆的な居酒屋が行きつけとなりました。
 そこに通う中で確立してきた「居酒屋ルーティン」を御披露することにいたしましょう。
 まず、居酒屋に行く人数について。複数で行くと「対酌して山花も開き」楽しいのですが、返杯を繰り返したあげく二日酔になることが度々あったので、自分のペースで飲み、許容量も守れる「御一人様」で行くことに。
 「大将」や「女将さん」が「アテ」や「酒」に関する質問に親切に答えてくれるのはいいのですが、客に「世間話」や「愚痴」を無理に聞かせるのはNG。

 馴染みの居酒屋の大将は余計なことは一切言わず、黙々と「アテ」を作ってくれるので理想的でした。

 開店直後のあわただしさもなく「大将」の包丁さばきもより冴えてくる「19時半過ぎ」くらいに暖簾をくぐります。
 カウンターに陣取ると目の前に並ぶ「アテ」や「おかず」の入った「大皿」や「鉢」を全部チェックし、好物の「南蛮漬」「ぬた」があるとまず注文。

 馴染みの店は海鮮が自慢なので「刺身盛合」は必須ですが「天然ウナギの蒲焼」「マナガツオ刺身」など珍しいメニューがあった場合は追加注文することも。

 日頃は野菜をとり、DHAの多い魚を食べ、炭水化物を控えたりして健康を気遣っているのですが、酒が進んでくると「居酒屋にはたまにしか来ないし、ええか」ということで、コロッケやカキフライ、サイコロステーキなどカロリーが高く、中性脂肪値が亢進するような体に悪い「アテ」を注文する傾向があります。

 かつては日本酒一本やりでしたが、50歳を過ぎた頃から、キープしておいた安い焼酎に、体調に合わせて水を差し、濃さを調整する「湯割」「水割」を好むようになりました。

 酒が進み、陶然としてくるとなぜか耳の感度がよくなり、意識して耳を澄まさなくても、店内の酔客の話が自然に耳に入ってきます。 
 大抵が上司や同僚の悪口ですが、中には「釣り好きが高じて百年続いた会社をつぶしてしまった若社長の話」
 「業界No.1の優良会社を率いて近代経営の見本のように言われる創業者がつまらない失敗で度々会社を危機に陥れたことを隠している話」
「地元の有名な寺の住職で教育委員もしているお坊様が夜の帝王と言われているほど歓楽街で豪遊している話」など、ちょっと得した気分にさせる新知見を得ることもあります。

 好みの「アテ」も食べ終わり、酒量もそろそろ限界点を越え「終バス」の時間(今治では21:00頃)が迫ってくると、勘定をすませ退散します。店内滞在時間は45分から1時間弱くらいでしょうか。
 なぜ「バス」かというと「行き」は元気で歩いても「帰り」は酔って足取りは重く、また夏の暑さ、冬の寒さにさらされることなく帰宅できるからです。

 ところで、件の居酒屋には「麺類」「ご飯もの」などの「シメ」のメニューもあるのですが、大将の「シメ」に注ぐ情熱は「アテ」に比べると、不足がちなので注文しません。
 かといって「シメ」の王道と言われる「ラーメン」は50代の胃にはもたれるので、バス停近くのスーパーで「日本そばのカップ麺」を買い、帰ってから「シメ」として食べます。
 単身赴任時代は、月に何度も居酒屋通いをしていましたが、定年退職して同居生活になると、妻と「レストラン」などに行く機会が増え、年数回程度に激減しました。
 しかし、上記の「ルーティン」はしっかり身についているせいか、たまの機会に入店した初めての店でもつい実行してしまいます。 

釣りシーズンの幕開けです

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 6月初旬、今年最初の釣行場所は、新たなベラ釣りのポイントとマメアジの様子を見るため、舞子と決め、当日、昼過ぎ舞子駅にほど近い「橋の科学館」の裏手の「市民釣り場?」に到着、昼前ということもありマメアジの姿はなく、ベラ釣りをすることに・・。
 ところがこのポイントは水深が意外に深く6.4mの「ノベ竿」でも底にとどきません。
 そこで「かかり竿」を出して壁際をせめると、かすかな魚信があり餌がとられています。
 何度仕掛けを沈めても同じようにとられるので、これは「サヨリ2号」では魚がのらないと判断して、禁断の針「袖2号」にチェンジしました。
 これは小生の高校時代、加古川でハス(オイカワ)やタナゴ釣りをした時、使っていた「極小針」で、海釣りで登場することはまずないのですが、さすがに性能はよく、小さな魚信の主は見事に針にのりました。
 あがってきたのは予想通り5㎝以下のミニベラです。続けてもう1尾同サイズを釣りましたが、これらは成長を期待して放生。
 その後、普通サイズのベラ等も釣れたのですが、魚信が遠のいたので、「投げ竿」で少し沖に仕掛けを放り込むとミニテンコチかかりこれも放生。
 どうもこの付近には岩場はなく、ベラ釣りには不向きのようですが、釣り場の西端は「明石藩舞子台場跡」に隣接していて、そこには少し岩場があり、小学生の少年と父親が竿を出していました。
 少年は「魚はすぐ下におるから」と壁際をせめて磯ベラを3尾ゲット。感がよく、将来有望です。
 ところが、父親は彼の言うことを全然聞かず、岩場の向こうに仕掛けを何度も放り込みますが、魚信なし。
 しかし、この「台場前ポイント」もベラが潜む岩は少ない上、駅からも遠く「塩屋防波堤」に比べると魅力はありません。

 4時間かけて釣り場のあちこち歩きまわり仕掛けを下したのに「針を飲み込み吐血し、絶命した」ミニハゲ、磯ベラ、ベラ、合わせて5尾の釣果はさみしいものがありますが、昨年の初釣行はテンコチ1尾だったことを考えるとずいぶんましということで納竿し帰宅。
 いよいよこれから11月末まで、魚との知恵比べが続くことになります。
 

灘黒岩水仙郷を訪ねて

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 平成の初め頃「神戸新聞」に「厳寒の2月、風雪の浜坂港で松葉ガニの水揚げを見とどけてから車に飛び乗り南下を開始、夕方明石につき一泊、一番のフェリーで淡路に渡りさらに南下、昼前ようやく黒岩水仙郷に到着すると、陽光を一杯に浴びた南向きの斜面には香しい水仙が絨毯のように咲き誇り、蝶が舞い南国のような暖かさ、兵庫県はなんと広く、気候の差が大きいか実感する」というルポ記事が載りました。
 当時、浜坂から明石に行くには、県道で湯村温泉を経由し、国道9号線の春来トンネルを抜け、村岡、関宮、八鹿、和田山を通って生野町でようやく「播但連絡道路」に入り「福崎インター」から「中国道」に移っても「滝野・社インター」ですぐに一般道に降り、渋滞の多い175号線を進むしか道はなく、明石到着後、夜のフェリーで、淡路に着いても、水仙郷のゲートが開くのは朝9時なので、明石か神戸で一泊し、翌朝淡路に渡ったのでしょう。
 この記事はずっと頭の片隅に残っていたのですが、今冬ようやく「冬のうんと寒い日に水仙郷で地上の楽園を体験する」機会が訪れました。
 1月末、寒い日曜日の朝、三宮から福良行きの高速バスに乗車し、かつては航路しかなかった明石海峡を一跨ぎ「西淡三原インター」で一般道に降りて、南あわじ市に入ると玉葱畑の中に「レディ薬局」や「スーパー・マルナカ」などがあり四国の近さを感じます。
 昼前に到着した「福良バスターミナル」は福良港と道を一つ隔てた「旧淡路交通鉄道線福良駅」の跡地を利用していました。
 小生は50年以上前、家族と渦潮見物に行った帰り、同駅に立ち寄ったことがあり、当時「淡路鉄道」は健在で「福良駅」も機能していたのですが、残念ながら駅前のバス停からバスに乗車し洲本に向かうことに・・。

 その数か月後、同鉄道は廃止されたので、もし乗車していれば、鉄子や鉄男達に自慢話ができたのですが・・・。
 さて、当日は神戸ほどではありませんが、南国淡路とは思えない寒さで、空には灰色のちぎれ雲が北風に乗って流れ、港内も波立っていて魚影はありません。
 寒空の下、港のバス乗場で1時間ほど待っているとようやく「黒岩水仙郷」行のマイクロバスが到着、休日ということもあり、補助椅子を出すほどの満員になり出発。国道28号線を一旦洲本方面に戻り、八幡の交差点を右折、淳仁天皇陵を過ぎ、論鶴羽山脈を越える急坂に差し掛かりました。
 窓の外の木々の枝が大きく揺れているのを見ると北風は港より強そうです。
 ところが峠を越えた途端、風は嘘のように収まりました。海は縮緬皺に凪いで、雲の切れ目からは光が注いでいます。
 北風を見事にシャットアウトした同山脈の防風壁ぶりに驚いている間にバスは峠道を下り切って左折、海沿いの県道をしばらく進むと「おのころ島」のモデルといわれる沼島が見えてきました。

 連絡船が出る「土生港」を過ぎると、小さな魚港があり、3~40m沖合に大きな桶が四つ並んで浮いています。
 やがて右端の桶のそばに海女さんが浮かんできましたが、獲物はなかったらしく息継ぎだけしてすぐ潜ってゆきました。
 防波堤に海鵜が20羽くらい等間隔で並んで桶の方を見ているのは、おこぼれを狙っているのかもしれません。
 小さな岬を回ると、また沖合に四つの桶が・・。南淡路の海女さんは4人でチームを組んでいるのでしょうか?近くの防波堤には同じように海鵜が並んでいます。
 冬の太平洋とは思えない春の瀬戸内のような光景に見とれていると「黒岩水仙郷」の「水仙畑」が見えてきました。
 神戸新聞の記事には「畑は南向きの斜面にある」記されていましたが、目の前にある「畑」の立地場所は「斜面」というより「崖」です。

 程なくマイクロバスは「水仙郷」に到着し、入口ゲート東側の「バス専用駐車場」に停車。一番先に下車し、ゲート脇の案内図で、バスから見えた「海に面した崖」は見学コースの最後になることを確認してから、ゲートを抜け、小さな谷間に造られた道を順路に従って進んで行くと「一般車両用の駐車場」がありました。
 その西側にある水仙が一面に咲く「谷に面した崖」の「九十九折れの山道」をたくさんの観光客と一緒に登るのですが、辺りには「濃く」「きつく」「神経が麻痺するのではないか」という「恐怖感を抱かせる」ような「水仙の危険な香り」が漂っています。
 香りに酩酊しそうになりながら崖の山道を登りきると展望台があり、谷底を見下ろすとマッチ箱のように小さい車が駐車場に並んでいました。
 帰り道がある「海側の崖」の向こうに見える沼島は雲の切れ目から射す光に輝やいていて、神の島にふさわしい神々しさにあふれています。
 展望台では風景写真を沢山撮り、ベンチで十分寛いでから「海側の崖の山道」を足元に気を付け、手すりを伝って慎重に降り、水仙の香りに見送られて、下界にたどり着くと、簡素の建物の二階に食堂があってので、入店し、少ないメニューの中から「にゅう麺」と「蛸のから揚げ」を注文し、海を眺めながら食事、一階の土産屋で「日本水仙の鉢植え」を買うと、帰りのバスの時間まであと僅か!
 駐車場に急ぎバスは乗り込むとすぐに出発。海は相変わらず凪いでいますが、海女さんたちはお昼ごはんに帰ったようで、桶はなく、海鵜達も消えていました。
 そんな海を眺めているうちにぐっすり眠ってしまったようで「間もなく福良港です」のアナウンスで目覚め、慌てて荷物を網棚から降ろす間もなく、バス乗場に到着し、ドアが開いた途端、冷たい風が車内に吹き込んできました。

 下車して空を見上げると灰色の冬空を雲が北風に乗って流れています。
 水仙郷で過ごしたひと時は、水仙の香りに酩酊して見た「春の夢」だったのでしょうか?
 いやいや、彼の地で買った「鉢植え」があります。「地上の楽園」は間違いなく存在していました。諭鶴羽山脈の彼方、神の島の近く、冬を知らない里に。

谷に面した崖

                  

神の島 沼島

                  

海側の崖