咽郷雑記

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

好きな漢詩 柳宗元 江雪

投稿日:

(原文)

千 山 鳥 飛 絶
万 径 人 蹤 滅
孤 舟 蓑 笠 翁
独 釣 寒 江 雪

(訳)

 山間の雪空に飛ぶ鳥もなく、小径の足跡も雪に覆われた冬の日、蓑傘の老人が一人、小舟から竿を出している。

 高級官僚でありながら政争に敗れ、度々地方に左遷され、若くして任地で亡くなった唐代の詩人・文学者である柳宗元の五言絶句です。

 ここ10年くらい、釣りシーズンは5月から11月までと決めている小生も40代までは冬場の釣行を度々行い、何度か雪にあったので「江雪」には大いに共感しておりましたが、実際のところは大した釣果もなく「しもやけ」を悪化させて帰ってくるのが関の山でした。

 ところで、この詩と共通する趣を持つのはなんと言っても「ヘラ鮒釣」でしょう。

 「ヘラ釣師達」は、水辺の釣座から伸びる竿掛けに竿を置き、笠の下から、細長いウキを凝視しています。

 餌の付け替えにため意外に短い間隔で竿を上げますが、動作がゆっくりしているせいか、せわしなさがありません。

 知合いの愛好者の話によると「釣具会社」や「釣餌会社」が主催する「ヘラ鮒釣り大会」が年何回か実施されるのですが、その中に必ず真冬に行われる大会があり、雪が傘に積もるほどの年もあったそうです。

 もともと冬場は食いが渋く、魚信も小さい上、雪の日はウキが見えにくく、風があると手はかじかみ、一日頑張り骨の髄まで冷えきったあげく「ボウズ」という日も多いそうで、ある年の大会では一人が1尾釣り優勝、他は「ボウズ」という悲惨な結果だったことも。

 ヘラブナ釣りは日本古来のゲームフッシングで、釣った魚はすべて放生して手ぶらで帰るのが規則です。

 「とらぬ狸」の調理を考えながら竿を出す小生には一生かかってもたどり着かない恬淡で優雅な釣といえるでしょう。

ついにその日が

投稿日:

 令和2年11月9日(木)!!

 

 昨年来、ポートアイランドエリアの釣行では「バリコ1尾」「ガシラ2尾」「チャリコ1尾」と惨憺たる成績ながら、なんとか「ボウズなし」の命脈を繋いできましたが、前週、神戸空港の市民広釣場に釣行した折、極細の小アジが6尾とツバクロ4尾しか釣れなかったことが、凶事の前兆だったでしょうか、平成21年6月7日以来、11年3箇月余続けてきた「ボウズなし記録」がついに途切れました。

 当日はポートアイランド北公園防波堤の先端というサビキ釣には最高のポイントで、14:30から16:30までひたすらアミエビをまき続けましたが、魚信はありません。

 餌がなくなり納竿し、ボウズの空しさをかみしめながら帰り支度をして、発つ前にもう一度、海を見るとそこには美しいブルーの水面がありました。

 昭和末から平成の初め頃、9月になるとポートアイランド周辺には沢山のアジ・サバが回遊してきて、どこの岸壁でもサビキを下せば鈴なりの魚が掛かりました。

 しかし、当時の海は茶褐色に濁り、水面には船舶廃油の帯が何本も浮かんでいて、低層を泳ぐアジは食べられても、上層のサバは油臭く食べられる代物ではなかったのです。

 下水道の整備も進まず、工場排水の規制もゆるかったことから、海水の栄養も充分で、プランクトン数が多く、赤潮が度々発生しながらも、魚影は濃かったのですが、平成も終盤になると、下水道の敷設が進み、生活汚水も浄化され、船舶廃油も排出規制が厳しくなったので、海はきれいになりました。

 反面、海水中の栄養分が低下し、プランクトン数も減少したため魚影も少なくなったのでしょう。

 「ボウズ」という厳しい現実に直面したおかげで、現状を認識し、来し方を思い出し「ボウズを遁れることばかり考えていた未熟な自分を反省する」ことが出来ました。

 釣りの楽しみは「得物獲得」だけではありません。釣場周辺の風光を愛で、時間の移ろいを感じ、環境の変化を知ることも重要な要素です。

 新年からは、真摯な気持ちで釣りに向き合うことを決意、当日を持って本年の「釣納め」とし、島を後にしました。

淡河用水と山田用水

投稿日:

1.はじめに

 

 小学校高学年の社会副読本に「淡河用水と山田用水」という項目がありました。

 概要は、

 播州平野東端に広がる印南野(いなみの)台地は30㎢もの広さがありながら「水源は溜池だけ」で毎年水不足に見舞われるため「麦」や「芋」「おかぼ」しか作れず、農民は貧しい暮らしをしていました。

 明治24年に旧美嚢郡淡河村(現神戸市北区)から淡河(おうご)用水(総延長26.3㎞)が、大正8年に武庫郡山田村(現神戸市北区)から山田用水(総延長10.75㎞)が開通すると、水不足が解消され、水稲耕作も可能になり農民達は喜びました。

という感動的な話です。

 しかし、高校生時代にタモロコを釣りに行った「大鳥喰池(おおとりいいけ)」や神出窯跡群(平安時代)の一部が残る「合ノ池(あいのいけ)」など、両用水により水の供給が安定したはずの同台地上に、上記を含む沢山の溜池がいまだに残っているのはなんでなの?

 とずっと不思議に思っていましたが、疑問が解決することはないまま、桑田変じて海となり、還暦を過ぎた頃「兵庫県広報」に「神戸の水の恵みウォーク&ツアー2018」の案内が掲載されました。

 内容は、

 「2014世界かんがい施設遺産に登録された淡河川疎水・山田川疎水(これが正式名称のようです)の諸施設をバスで巡る兵庫県庁神戸土地改良センター農村整備課主催無料ツアーの募集」

とあったので、

 「これこそ長年の疑問を解く千載一遇の機会」

と、さっそく申し込むと、日頃の籤運の悪い小生が倍率4倍を超える狭き門を潜り抜け、めでたく参加者リストに入ることができたのです。

 

2.淡河川頭首工

 

 当日朝、県公館前を出発したバスは、布引トンネルを潜り、丹生山塊を越え「淡河道の駅」を経由し、そこから1.8㎞東にある最初の見学地「頭首工」に隣接した淡河川沿いの空地に到着。

 バスを降り、川幅30m程の河原出ると「洗堰構造の小さなダム」と「小さな取水口」からなる「頭首工」がありましたが「たいそうな名前」とはかけ離れた貧弱な施設です。

 取水口から続く用水路も幅1mの地味なコンクリート溝で、印南野台地までの平均勾配が1m/2000mしかないということからか、流速は極端に遅く、淀んでいるようにしか見えません。

 用水路に沿って西にしばらく歩くと僧尾川の谷を横切る大きな土塁があり、水路は最上部を通って谷の向こうまで続いていました。

 淡河地区の見学はここまでで、参加者は「道の駅」に戻り、バスに乗車し次の目的地「御坂(みさか)サイフォン」に向かいます。

 

3.御坂サイフォン

 

 見学者は眼鏡橋北側の神社でバスを降り、ここで県の担当職員から同サイフォンの説明を聞きました。

 それによると、

 設計は英国人H・S・パーマー、英国から鍛鉄製の送水管を輸入し、現地で組み立て敷設するという大工事で、疎水工事予算の1/3が投じられ、明治21(1888)年に竣工しということです。

 ちなみにサイフォンとは「A地点とB地点の高低差を利用して、途中の障害(隆起や窪み)を越えて、送水管を敷き、水を通す仕組み」のことで「疎水」は「標高132.34mの北側の山」から志染川にかかる「標高56.95m眼鏡橋のたもと」まで高低差75mを下り、橋を渡ると今度は「南側の山の129.89m地点」まで高低差73mを登って南へ向います。

 参加者も橋を渡り「送水管路の南側の急な階段」を登ったところにある三木総合防災公園まで歩き、神社から回ってきたバスに乗車、神出の農業公園に移動し昼食となりました。

 

3.練部屋(ねりべや)分水所

 

 13:00になり農業公園を出発「練部屋分水場」を経由して最終目的地「山疎水・東播用水博物館」を目指します。

 竣工時、水流は「頭首工」の閘門から5日間かかって「練部屋分水所」に着き、ここで5方向に分けられ台地各所に向かっていましたが、現在は「同分水所」より手前の「広野ゴルフ場分水所」や「老ノ口分水所」からも分水され、一部の水路は台地南端で海岸近くの「魚住」までのびています。

 「練部屋分水所」は淡河川疎水竣工時煉瓦造りの「方形」でしたが明治27(1892)年の改修により「六角形」に昭和34(1959)年には直径10mのコンクリート製に改修されたそうで、ぜひ間近で見たかったのですが、道路沿いにあり、大勢の接近は無理ということで、県職員の説明を聞きながらバス内から見学しました。

 

4.淡山疎水・東播用水博物館

 

 施設の見学や写真撮影に忙しく、久々の早起きで移動中の車内で昼寝していたこともあり「溜池のなぞ」や新たに生まれた「細すぎる用水路のなぞ」の解明ができないまま最後の目的地である同博物館に到着。

 ここでは少人数に分けられた参加者に担当職員が、淡河川・山田川疎水のメカニズムについて、展示パネルや資料を参考にしながら、丁寧な説明を行いました。

 要約は、

・淡河川・山田川近隣の農村では「田植期(5月末)」から「稲刈期(9月末)」までの農繁期には、両河川の水を優先的に利用するため、淡河川・山田川疎水に通水することはない。

・しかし「9月末」から翌年の「5月末」までの農閑期になると、近隣農村で需要のなくなった両河川の水を24時間、休むことなく印南野まで通水する。

・「分水場」で枝分かれした水路はさらに小水路により各所の溜池に通じていて、印南野に到着した水は「滴水が何十日もかかって風呂桶を満杯にするように」長時間かけて溜池に水を満たす。

・農繁期になると、溜池の貯水を周辺の水田に引き稲作を行う。

・現在は、丹波篠山市の川代ダム、三田市の大川瀬ダム、神戸市の呑吐ダムなど新たな水源ができ、通水量に余裕ができ、用水に加えて上水道も整備された。

ということでした。

 説明を聞きようやく長年の疑問が解けました。溜池と疎水は不可分の関係だったのです。

 スケジュールがすべて終わり、

「副読本にもう少し詳しく疎水と溜池の関係について記されていれば、長年疑問を持たなかったのに」

と副読本に恨みを持ちつつ乗車したバスは台地を西に向かい、西神中央を経由して、明石駅に着き、ミニツアーは解散となりました。

 

小→大・・?

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 9月になりようやく殺人的な暑さが和らいできたので、ベラ釣りを計画したのですが、都合のいい日が中々見つからず、空いている9月12日(土)は最悪の「長潮」で釣果は期待できません。

 潮見表によると午前中は干満なし、15:00過ぎからようやく動きだし17:50に満潮ということで、暗い気持ちで遅がけに出発し、14:00過ぎに岩屋防波堤に到着しました。

 釣座を決め早速仕掛けを下したところ、いきなり5㎝にも満たない「クサフグ」が喰いつき、それ以後何度下しても「ミニフグ」が「サヨリ3号」を飲込むか、噛み切っていく始末。

 ベラの魚信は全くないのですが、時々かかる「ミニチャリコ」が強い引きをみせてくれるので、がまんして仕掛けを変えませんでした。 

 しかし、潮が動き始めた16:00を過ぎても相変わらずの「ミニフグ攻撃」は続き、「チャリコなら大きな針でもかかるだろう」と思い、大きさが倍以上の「キツネ1号」に変えた途端・・・。

 「ミニフグ」の魚信は嘘のようになくなり、15㎝以上のキュウセンや青ベラが次々掛かり始めました。

 驚くべきことに「サヨリ3号」でないと針にのらない10㎝以下の「ミニベラ」まで釣れてきます。

 食いが渋くなり「キツネ1号」を「サヨリ3号」に変えたことによりベラの喰いが立つことは度々ありましたが、その反対は初めてでした。

 防波堤の根元まで波が洗うようになった17:00過ぎに納竿し、帰りの電車の中で本日の海中の様子を想像してみました。

 おそらく、あの時、海中には「チャリコ」が少し混じる「ミニフグ」の巨大な群れがあり「サヨリ3号」に刺した小さな餌に争うように喰いつくので「ベラ達」は「ミニフグ軍団」に妨げられ餌までたどり着けなかったのが・・。

 針・エサを大きくしたため「ちびっ子達」は餌をかじることはできても針に喰いつくことはできなくなり、一方「ベラ達」は群れをかき分けて餌までたどり着き、喰いつくことができるようになったことが、釣れる魚種のチェンジにつながったのでは・・。

 今回の釣行では釣り方の工夫に関する「解」を一つ得ましたが、また新たな状況を迎えた時、試行錯誤の果てに新たな「解」にたどり着くことができるのか?

 「うーん・・・釣りは本当に難しい」

神魂神社(かもすじんじゃ)を訪ねて

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 8月初旬、コロナ禍もやや落ち着いてきたので、出雲地方へ2泊3日の名所遊山に出かけました。

 2日目の15:00頃、松江城下町にある田部美術館を見学し終えて当日予定は終了したのですが、ホテルに戻るには時間が早すぎるので「八雲立つ・・・」の歌で有名な「八重垣神社」と室町時代創建の本殿が国宝指定されている「神魂神社」の両社を参拝することを思い立ち、レンタカーで国道を南下。

 30分程で着いた八重垣神社は、あまり特色のない小ぢんまりした神社だったので、参拝後、路傍にある「資生堂の椿の印章」のモデル「夫婦椿」をちらっと見て、神魂神社に向います。

 ところが、地図上では近隣に見えたのに実際は山を一つ迂回しなければならず、その間に日は沈み、出発から1時間近く過ぎ、薄暗くなりかけた頃、周囲の風景とはなじまない、神気が立ち昇ぼる杉林を遠くに発見しました。

 そこからしばらく坂道を登り、ようやく当該神社の駐車場に着きましたが、付近に人影はなく、車を降り杉木立からひぐらしの声が降り注ぐ、暗い参道を進むと、道端にまるで「異界への道標」のような「苔むした手水鉢」があります。

 コロナ禍ということで、口は漱がず手だけを清め、石段を上ると社殿が立ち並ぶ境内に出ましたが、石段正面の国宝本殿・拝殿の古び方が尋常ではありません。

 創建以来風雪・風雨にさらされ続けたのでしょう、屋根の檜皮はボロボロで、柱も欄干も柵も痩せ細り、木肌はささくれ、少しの振動でも倒壊しそうです。

 本殿両脇の末社も本殿同様に古びていて、その一つ稲荷社の石狐は風化がひどく生気がまったくありません。

 参道と社務所の周りには大杉の木立があり、本殿裏の斜面は低木と草に覆われているのですが、境内の地表は苔と草が僅かに見えるだけの粗い砂地なので、社殿群は「砂浜から生えたきのこ」か「大きなケムール人が小さなケムール人を従え佇立している」ようにも見え、不気味さが募ります。

 気を取り直し、御参りするために、拝殿に入ると神前の案には磁器製一升瓶の御神酒一対と米、果物、野菜などの神饌があふれんばかりに供えられ、垂髪で紫の袴を穿いた女性の神官が夕方の御祀りを行っていました。

 「モノクロームな神域の中でここだけに華やかな色彩があるなあ・・」

と、思ったその時、小生は感じたのです・・!!

 神饌の供応を受けた本殿と末社の神々が静かに御霊を震わせているのを・・・!!

 ・・・・。

 神威を受けたためか、それからしばらくの間、体が麻痺したように動きませんでしたが、やがて我に返り、

 「これはもしかして、澱のように動かない夕凪の大気に包まれ、ひぐらしの声だけが響く逢魔が時に現れたあやかしではないか?」

と、思ったのですが・・・・。

 「あやかし」ではなかったのです。

 なぜなら、神官の祝詞を聞いているうちに「余生を明るく過ごす希望」と「死の恐怖を吹き飛ばす安堵感」が、心底から湧き上がってきたからです。

 これこそ神威を感得した何よりの証拠ではないでしょうか。

 創建以来、様々な自然災害・戦乱を乗り越えて、身を細らせながらも生き抜いてきた神魂神社の社殿群は、一見枯れて生気を失った屍のようにも見えます。

 しかし、そこに鎮座する神々は日々の神饌と御祀りを供されることにより、神威が衰えることなく、ずっと社殿を守り続けてきた・・・。

 まさに神魂神社です。

 「参拝したことで己の人生は変わった」ことを確信し、晴れやかな気持ちで御社を後にしました。

やきもち地蔵を訪ねて

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 小生は30年近く前「一生に一度だけ願いをかなえてくれる」という御利益がある北区山の街の「やきもち地蔵」を訪ねたことがあります。

 その時は自家用車で布引から新神戸トンネル通り谷上経由で行ったので、国道428号(通称「有馬街道」)の難所小部峠(おぶとうげ)は通りませんでした。

 忘れてしまいましたが、当然何か願掛けしたはずなので、再び参拝しても「二匹目のどじょう」はいませんが「往時の神戸市民と同じ小部峠越えルートでやきもち地蔵に参拝したい」という思いと「小学生の折、祖母と日帰りバスツアーで今田町(現丹波市)の丹波焼窯元を訪ねた際に一度だけ通った有馬街道をもう一度通行したい」という思いを実現するために、

・神戸駅から「有馬街道」を通る「鈴蘭台行き阪急バス」に乗り→最大の難所小部峠の手前で降り→歩いて峠越えし→そのまま焼餅地蔵まで歩を進める。

という計画を立て、実行予定を5月中旬としました。

 当日、曇天の昼前、神戸駅南口からバスに乗車、出発すると、湊川から夢野2丁目を経由し平野で左折、いよいよここからが4kmで300m強を登りきる急勾配の「有馬街道」です。

 バスは本道を少し進むと、分岐する狭い旧道に入りました。

 「こんな隘路ですれ違いは無理だ。対向のバスが来たらどうしよう」と心配したのですが、運転手はたまにある「すれ違い場」を巧みに利用しながら行き違いを行います。

 旧道にはバス停が何箇所かあり、その周辺には数軒の家が崖下にへばりつくようにして建っていました。

 10分程度で、新道に合流し、トンネルを抜けると鈴蘭台地区最南部に位置する「水呑(みずのみ)」バス停に到着しました。

 ここで下車し、有馬街道最高地点である小部峠(おぶとうげ)を徒歩で目指しますが、目的地は1km先で高低差はまだ70mあります。

 沿道に建つ王将やら丸亀製麺やらファミレスを横目に見ながら、蒸し暑い上に無風という悪条件の中30分近く歩いてようやく標高369mの小部峠に到着したので、来し方を振返って写真を撮ろうした時、道端に応永八年(1401)建立の宝篋印塔の由来を記した看板を発見しました。

 疲れも忘れて、急いで近づき、表示された「灌木が覆いかぶさってトンネル状になった細い山道」を身をかがめて20m程進むと、木々に遮られ日がさしこまない狭い平坦地があり、一石五輪塔や石地蔵従えた立派な宝筐院塔が建っています。

 早速、塔の周囲を一周して細部を観察した後、写真を撮り「力を振絞ってようやく峠にたどり着き、安全を祈って下って行く往時の人々の姿」を想像しながらしばらく休憩し、再びトンネル道を抜けて国道に戻りました。

 登りと打って変わって、快調に下って行くと谷底に大きなパチンコ屋が見えてきましたが、近づくと緊急事態宣言のため閉店しています。

 さらに歩を進め、峠から20分程で「焼餅地蔵」と表示された交差点に着きました。

 以前訪れた時には道から地蔵堂が見えたのに高台の団地に向かう「地蔵橋」なる大きな橋ができたせいか、まったく姿が見えません。

 道端にあった行先案内に従い、階段で河原におり、件の橋の下をくぐって川べりに出て、小さな橋を渡ると、少し先の崖下に地蔵堂が見えました。

 参道には赤い幟が立ち並び、景気がよさそうですが、平日ということで受付に人はおらず、やきもち地蔵の由来となった餅も無人販売になっています。

 参道の脇の「絵馬掛」には沢山の絵馬がありましたが「一生一願掛け」に適合するのは「社会的要求」より「個人的要求」が勝るのか、「コロナ終息祈願」の絵馬は僅かでした。

 堂内の地蔵さんは大きな前掛に覆われ姿は見えませんが二体あるようです。

 参拝後、自販機でお茶を買い、隣接する休憩所でしばらく憩い、汗も引いたところで、地図上ではかなり高台にあるため、急坂でもう一汗かかなければたどり着かない「神鉄山の街駅」を目指し、御堂を後にしました。

宝篋印塔

やきもち地蔵

釣行二題

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令和2年6月1日(月)

 今年の初釣行は「平磯うみづり公園」に出向き、入場ゲートに一番近いテトラの漁礁を3時間半攻めたのですが、長潮という悪条件もあって、磯ベラ4尾、ミニガシラ1尾、クサフグ1尾というさみしい釣果に終わりました。初釣行は「坊主寸前の1尾」など貧果になることが多いのでましな方ではないしょうか。

 初めての釣場ということで「ノベ竿」「カカリ竿」「投げ竿」の3本を試したところ、それら全てに魚が喰いついたのは今シーズンの大漁を示す瑞兆かもしれません。

 納竿し、東垂水駅に続く歩道橋の手前まで来た時、前月下見に来た折にもいた黒猫が「魚を分けて」とばかりに体を摺り寄せてきました。

令和2年6月22日(月)

 JR舞子まで進行し「橋の博物館裏」のポイントでマメアジ釣を実施したところ、から揚げや南蛮漬けにぴったりの「金魚くらいの鰺」が、夕マズメ2時間で31尾釣れました。

 夕飯のおかずには十分な量なので、満足して納竿ということに。

  磯ベラ 4尾

垂水区名谷町石造物めぐり

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 普段の春なら陽気に誘われて県内・県外の博物館を訪ねたり、史跡巡りをするのですが、コロナ禍による逼塞のため「裏山登山」くらいしか楽しみがありません。

 5月に入り、ついに我慢も限界に達し、石造物の宝庫といわれる名谷町に石塔巡りに出かけることを決意しました。

 なお、同町は垂水区東部に所在し、福田川と両岸の狭い耕地が、海岸近くから同川最上流まで続く長い谷地形となっています。

・転法輪寺

 5月11日、JR垂水駅から山陽バスに乗車し「阪神高速」「神戸淡路鳴門自動車道」の結節点となる「垂水ジャンクション」に程近い「中山」バス停で下車、細い坂道を登って行くと周囲に「生垣」「見越しの松を従えた立派な門構」「焼板の壁」「畑地」などが出現、景観が農村に変わるなかで、坂を上りきると転法輪寺に到着。

 入口脇に建つ庫裏から本堂までの長い参道の両側には、子院跡らしい空地がいくつも続いており、往時の繁栄が偲ばれますが、道を覆うように伸びた桜の枝から「沢山の毛虫」が自ら吐いた糸の先にぶら下がって行く手を阻んでいるのには閉口することに。

 立派な本堂を参拝し、境内の「一石五輪塔」「石仏」「墓石」が集められた「塚」を見学した後、身を低くして毛虫のカーテンをよけながら、境内脱出に成功しました。

・明王寺

 転法輪寺から県道65号線を福田川沿いに下ると名谷小学校があり、その西側に明王寺が建っています。

 本堂は転法輪寺に負けない大きさで、裏山に広大な付属墓地が広がっていました。

 境内の一角にある「赤松円心の供養塔」と伝えられる宝篋印塔には、観応二年(1351年 南北朝時代)の刻銘があります。

・西名谷御堂境内の五輪塔

集落の中に建つ小さな御堂の前に刻まれた梵字の種字もはっきりと残る堂々たる五輪塔がありました。

 五輪塔を背にして御堂に対すると農村時代に立ち戻ったような気持になります。

 阪神高速の雲をつくような橋脚が南の空に見えなければ。

・西名若宮神社参道脇の宝篋印塔

 谷をさらに下り、七曲り(市道名谷高丸線)の手前、若宮神社参道石段横の小社に細身ですっきりした高さ1.7mの宝篋印塔が納められていました。

 もともと近くの旧道沿いに建っていたもので、暦応庚申(1341年 南北朝時代)の刻銘があります。

・猿倉の宝篋印塔

 掘割バス停のすぐ裏手、アパートの駐車場脇の斜面に高さ1mに満たない可愛らしい宝篋印塔がひっそりと建っていました。

 小さいながらも暦応四年(1341年 南北朝時代)の刻銘があり、移築された石塔が多い中で珍しく旧道沿いに残っています。

・おわりに

 戦前までは、農村であった名谷地区も昭和30年頃から住宅開発と道路の新設・拡幅など都市化が進み、集落や農地がずたずたに切り裂かれましたが、開発のまだ及んでいない集落の奥や裏山などに往時の風景が断片のように残っていました。

 路傍から住民の生活を見守っていた石塔も都市化の波の中で、移築されたものが多いのは残念なことです。

 「往時の記憶をとどめる景観が、たとえ断片でも末永く残ればといいのに」と思いながらバスに乗り垂水駅に戻りました。

綾部山梅林散策

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 1月末日、北野町の播州物産店で買物をした際、商品棚の一隅に「綾部山梅林」の入場割引券があるのが目にとまり、いただいて帰りました。
 2月15日、JR元町駅から網干駅まで進行し、南口ロータリーからシャトルバス乗車、バスは南に向かい旧市内に入ると狭い道沿いにある「山陽電車網干駅」に停車、ここから西に方向を変え、田んぼに囲まれた国道を進み、低い山の手前で左折、山沿いの道をしばらく行くと梅林の入口に無事到着。
 コロナ禍の影響が出始めていたせいか土曜日にもかかわらず、専用駐車場に車は20台程、観光バスの姿もなく、登坂を山上に向かう人も僅かで、沿道に並ぶ売店の売子さんも手持ち無沙汰な様子です。
 しばらく歩いて到着した「入場ゲート」に隣接する「切符売場」の窓口に入場料と一緒に割引券を出し「案内パンフ」と「甘酒引換券」をもらって、ゲートを通ると山肌に広がる梅林が目に入ってきました。
 時期が早いせいか、五分咲き程度の開花で、枝間に遊ぶ鶯の囀りも「ホー」「ケキョ、ケキョ」と不十分で、初音には程遠い有様です。
 それでも梅見を楽しみながら山道をゆるゆると登り、見晴らしのいい茶屋で接待を受けた甘酒を啜りながら見下ろすと、梅林の中程に「蔓草が巻き付き打ち捨てられた枯木群」や「沢山の切り株が残る空き地」が見えました。 
 茶屋を出て、しばらく山道を進んだところにある園内食堂で「牡蠣うどん」を食べていると窓の外のステージでは大沢フルーツ・フラワーパークから来た「猿回し」さんが、
「先週は週末の雨で土・日続けて中止になり、つらかった」
などと話しながら、僅かな観客を前に興行しています。

 小生の子供の頃(昭和40年代)当時県内で随一だった「室津梅林」の名声を一気に吹き飛ばした「綾部山梅林」の勢いはすごいもので、同所を訪ねる慰安旅行や日帰りツアーの件数も目を見張るほどでしたが、現状を目の当たりにすると「盛者必衰、かつての栄光は何処に」という思いを持たざるを得ません。
 なにやらものさみしい遊山になってしまいましたが、山を下りる際に園内の残る古墳2基を見学できたことは幸いでした。
 帰ってから調べてると2基の古墳は、弥生時代の墳丘墓である「綾部山39号墳」から始まり、古墳時代後期まで続く県内でも著名な「綾部山古墳群(40基)」の一部だったのです。
 立て札等の表示がなく見落とし古墳もたくさんあったようなので「来春は午前中に来園し、古墳分布図で確認しながら梅見しよう」と思っています。

中央日報のコラム

投稿日:

グローバルアイ「私たちをそっとしておいてくれ」=韓国


                                                                  中央日報/中央日報日本語版2020.01.28

 日本で年末年始を過ごす楽しみの一つはテレビのスペシャルドラマを見ることだ。今年最も期待を集めたのは韓国にもファンが多いモッパンドラマ『孤独なグルメ』だった。1月1日に放映された特別編で、主人公の五郎は急な出張のため釜山(プサン)飛んだ。日本各地だけでは飽き足らず、海の向こうの韓国にまで足を伸ばした。
 職業が雑貨屋の主人公は、以前も韓国に行ったことはあるが、この渦中に釜山行きとは…なぜかうれしかった。福岡港で快速船に乗って2時間で到着した釜山。主人公は「うどんは韓国でもうどんと言うんだな」「この味は日本では食べられないだろう」などと独りごちながら釜山を満喫した。東京のコリアンタウンである新大久保には、すでに主人公が食べた「ナッコプセ〔ナクチ(タコ)・コプチャン(ホルモン)・セウ(エビ)が入った寄せ鍋〕」メニューの写真まで登場したという。
 NHKで特別編成したドラマ『心の傷を癒すということ』にも目が行った。主人公は在日韓国人の医師である故・安克昌氏。約6300人が亡くなった阪神・淡路大震災から25年を迎え、当時被災者を献身的に世話した彼の生き方にスポットを当てた。
 彼は出身を越えて日本人から広く尊敬を受けた。災害直後の対処、避難所と仮設住宅の生活、救助隊員の精神的ケアなど、当時その概念さえ新しかったPTSD(心的外傷後ストレス障害)治療が2000年代以降活発に行われ始めたのには安氏の役割が大きかった。
 劇場街では一歩遅れて公開された映画『パラサイト 半地下の家族』がブームとなっている。「ポン・ジュノ-ソン・ガンホ」コンビは多くの固定ファンがいるが、「アカデミー効果」で韓国映画に全く関心がなかった人々までファンに引き込んでいる。
 あるカフェでは映画の中に出てくる「韓牛チャパグリ」(注)メニューが登場している。(注:チャパグリは庶民的なインスタント袋麺の「チャパゲティ」と「ノグリ」をミックスしたもので、「韓牛チャパグリ」はこれに高級具材の霜降り肉を入れたもの。)
 ポン監督の熱烈なファンだというカフェのオーナーが公開前から特別メニューを苦心していたという。韓牛とチャパグリの不釣り合いな組み合わせの中に隠されている韓国文化の奥深さを、日本人がどれくらい理解できるか分からないが、週末には列に並ばないと食べられないほど人気だともいう。
 昨年7月以降、韓日関係は歴代で最も悪化した。政治と外交から始まった葛藤が、経済や文化など全方向的に拡大した。地方自治団体長が率先して青少年交流を中断させ、大学教授が率先して学術交流への不参加を宣言して「反日隊列」に賛同し参加した。
 だが、韓日関係が難しい状況でも市民は交流を絶やさなかった。政治や外交とは関係なく相手を心配し、変わらず好奇心を持ち続けた。
無理に止めようとしても止められないのが文化の力だ。ある放送局関係者は 「韓国コンテンツの人気には変化はない」としながらこのように話した。「政治でも外交でも何でもいいが、とにかく私たちをそっとしておいてくれ」と。

ユン・ソルヨン/東京特派員

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 昭和の終わり頃から平成の初めにかけて、小生は毎年のように訪韓していましたが、その後、趣味が変わり、とんと足が遠のいてしまいました。
 その代わりといってはなんですが、朝鮮日報、中央日報、東亜日報、聯合ニュース、ハンギョレ新聞など「韓国誌日本語サイト」の記事やコラムは、ほぼ毎日チェックして韓国の現状を認識しようとしています。
 それらの中では歴史資料を分析・活用した重厚なコラムを執筆する朝鮮日報「鮮于鉦記者」の論調が気に入っていたのですが、社会部長に出世して忙しくなったせいか、執筆間隔がすっかり間遠になってしまいました。
 日本語も堪能な上、テレビ映えするイケメン記者なので朝鮮日報を定年退職したら来日して、コラムニストやコメンテーターとして活躍していただけるといいのですが。
 ところで、ユン・ソルヨン特派員を含む中央日報の記事やコラムは朝鮮日報に比べるとかなり反日傾向が強かったのですが、上記のコラムの「最後の3行」はずいぶん控えめで冷静な論調です。
 確かに私の知合いの「韓流大好人間」も「嫌韓ニュース」や「不買運動」もどこ吹く風で、度々韓流ショップに出かけていますし、韓流スターのイベントやコンサートのために訪韓する人数は、航空運賃が安くなったこともあり、一昨年よりも増加したとか。
 しかし、国内にも韓国にも多数側に迎合し、「韓流」や「日流」に文句をつけ、道徳だの倫理など御託を述べている「おっさん勢力」も存在しています。
 「おっさん」達は「ハーレムのボスを目指してあくなき戦いを続けるトドの末裔」で、本当は「トドの境遇」を希望しているのですが、近代社会では、多数の側室を囲って好き放題できるのは、数少ない特殊な国だけですので、とりあえず「権力」を得ようと努力してきました。
 亡父は太平洋戦争中、商業学校で非常勤の仕事をしていましたが、校長が、週初めの朝礼で生徒や教員、職員を運動場に整列させ1時間近く軍国主義の重要さを訓話するのには閉口したそうです。
 在職中の昭和20年1月に応召しましたが、敗戦とともに復員し、同校に復職しました。丁度、復帰当日、朝礼があり、件の校長が「進駐軍が日本に民主主義を広めてくれるのは素晴らしい」と褒め称える訓話をするのを聞き新喜劇のギャグよろしく「こけかけた」そうです。
 戦時中はファシズムの嵐が吹き荒れていたので、校長が軍国主義擁護の訓話をするのもやむを得ないことですが、敗戦により体制が変わったのですから、反省しておとなしくしていればいいものを「おっさん」は「権力」を何より欲するので「このままでは終われない」とばかりに、かつての主張を億面なく捨て、民主主義を賛美することで「権力」にしがみつこうとしたのでしょう。
 しかし、変節の甲斐もなく「民主主義化した教育委員会」によって、平教員に降格され、校長室を追い出されてしまうことに・・。
 「おっさん」は昔から「こずるく」「恥知らず」で「信念」がありません。渡り鳥のように政党をころころ変える国会議員などは「おっさん」の代表と言えるでしょう。
 先日もテレビで「日韓関係が悪化しているのだから韓流ファンをやめろ」と「韓流ファン」に難癖をつけているおぞましい「おっさん」が放映されていました。

 しかし、最近彼らの意向に反して、不買運動で閑古鳥が鳴いていた「日本行の航空便」の搭乗者が増加し、観光地で韓国語を聞く機会も増えてきました。
 ユン・ソルヨン記者も「おっさん」達に負けず、しぶとく頑張る「韓流ファン」「日流ファン」を認めざるを得なくなり、「控えめ」なエールを送ったのではないのでしょうか。