咽郷雑記

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

堕涙碑に堕涙す(だるいひにだるいす)

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 平成22年8月2日から7日まで中国湖北省の史跡を訪ねる旅に行きました。彼の国は「陶磁器研究者や陶芸家と一緒に古窯跡を見学するツアー」では何度も訪れているのですが、件のツアーは、「漢文の研究者」が主催者だったので、「黄鶴楼」や「古琴台」(春秋時代の琴の名演奏家兪伯牙と友人鍾子期の逸話の舞台となった旧跡)、「米芾」(北宋代の有名な書家)・「杜甫」・「孟浩然」(唐代の詩人、李白の友人で「春眠暁を覚えず・・・」の詩が有名)ゆかりの地など、従来とは違い「漢詩文」や「史書」にちなんだ名所・旧跡を巡りました。

 さて、このツアーで最も印象に残ったのは襄樊市(旧襄陽)の「堕涙碑」です。晋時代、名将軍で任地の襄陽では仁政を敷いた「羊祜(ようこ)」の遺徳を顕彰するために、襄陽の人々が郊外の峴山(けんざん)に「羊公碑」を建てたのですが、碑に刻まれた銘文を読んだ人は、誰しも羊祜を偲んで涙したことから「堕涙碑」と名付けられました。唐代には「李白」や「孟浩然」の詩にも登場する名跡になり、その名声は遠く平安貴族にも知られるほどになりました。

 しかし、この「昔の堕涙碑」は、文化大革命の折、紅衛兵によって破壊され、亡失してしまい、ようやく、近年になって峴山(けんざん)の麓に再建された「現代の堕涙碑」も、鉄道の敷設に際して移転を余儀なくされ、さらに、移転先に工場が建設されたため引き抜かれて、工場脇の瓦礫の上に放置されていたそうです。

 今回、我々のツアーがこの碑を尋ねて日本からわざわざ襄樊市に来ることを知った「地元共産党の偉いさん」が、観光の目玉になるかも知れないと思い、急きょ瓦礫の中から拾いあげ、仮に建てたのが、添付した写真です。

 過酷な運命に翻弄される「新旧堕涙碑」。その悲惨な境遇を思うと堕涙せずにはいられません!!皆様はどう思われます?

瓦礫の上に建つ堕涙碑

瓦礫の上に建つ堕涙碑

よく見ると傷だらけ、堕涙碑と刻まれているのが御愛嬌

よく見ると傷だらけ、堕涙碑と刻まれているのが御愛嬌

心の中の京都人

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 まだ私が生まれる以前の昭和20年代終わりごろ、神戸に住んでいた私の祖父のところに京都の一流旅館の主人から「末娘さん(私の叔母)を息子の嫁にほしい」という話が持ち込まれました。

 有名な旅館から所望されたわけですから、祖父も乗り気になったのですが、祖母は「京都に嫁にやったらいじめられるから絶対いかん」と強硬に反対したので、祖父も折れて縁談を断わったそうです。

 叔母はその後、大阪のサラリーマンと結婚しましたが、祖母はこの話を何度も何度も孫の私に聞かせるので、「京都人は意地悪だ」という意識が頭に刷り込れたまたまま成長し、京都市内の大学に入学しました。祖母の話もあり、京都人に対する時、最初は身構えていたのですが、意地悪をされることもなかったので、話も忘れかけていました。

 しかし、卒業後、バイトや嘱託を経て、滋賀県内の団体に採用されると、当時の上司が「京都人との交渉法」を詳しく教えてくれたおかげで、記憶がよみがえって来ました。

 上司の話を要約すると、まず、「京都人は腹黒いから、気いつけんとええとこを全部持っていかれる」そうで、そうならないためには、

 「交渉をする時は相手の顔をしっかり見て、少しの表情の変化も見逃さず、話を一言も漏らさず聞き、言葉の語尾や抑揚にも気をつけ、体全体の動きも把握し、雰囲気をつかみ、話の流れに少しでも違和感がある時は話を打ち切って帰ってこい!」

 「京都人はこっちが積極的で出なければ、絶対話に乗って来んから、必ず右足で一歩踏み込む気持ちでおれ!でも同時に左足にも45%体重を乗せておくんや、相手のペースに巻き込まれ話が不利な方向に行きそうになったら、左足で思いっきり後ろに飛んで逃げろ!」

という姿勢が大事だそうです。

「大学在学中、京都人から意地悪をされた経験が特にない」ことを上司に言いますと、「学生は、京都にとって地元の負担にならず、金を落とすだけの上客やから大切にされるんや。大事にされるのは学生の間だけや、そんなことも知らんのか!」

と切り捨てられてしまいました。

 その後、転職した会社では、京都市内の会社に営業に行くこともあったのですが、再度転職してからは京都とのかかわりはなくなりましたが、ツアー旅行などで空港に集合し、初対面同士が自己紹介をする時、相手が京都人と聞くと反射的に身構えてしまい、気がついて苦笑しながら肩の力を抜くこともありました。しかし、最近は、記憶力の低下とともに「京都人に対する条件反射」も薄れてきたようです。

予讃線 下灘駅にて

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 「日本一夕日がきれいな駅」に行ってきました。

 夕暮れ前の景色も中々よいでしょう。

春の海ひねもすのたりのたりかな

春の海ひねもすのたりのたりかな

線路は続くよどこまでも

線路は続くよどこまでも

 

「サスペンスドラマ」と現実の犯罪

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 私は行き当たりばったりで生きているせいか、帰宅時間が一定ではなく、続きものの「テレビドラマシリーズ」は、見逃すことが多いので、意識して見ないようにしています。しかし、一話完結の「サスペンスドラマ」はよく見ます。

 それにしても近年、世の中の歪みが拡大しているせいか「殺人依存症に取りつかれた高校生や大学生」「残虐な少年犯罪」「夫をバットで撲殺する妻」「老人と結婚を繰返し、次々と毒殺する女」など「サスペンス」顔負けの事件が頻発していますし、「現実の事件」を扱う「警察密着ドキュメント番組」では「リーゼント刑事(デカ)」や「バイリンガル刑事(デカ)」など役者のような個性派刑事が活躍し、ドラマと現実の境界が薄れてきています。

 そんな世相の中でおこった

①「八王子ホスト殺人事件」

(被害者の遺体が溶かされ、下水に流されたことを確信した刑事が、共犯者宅の汚水槽の内容物を執念で調べ上げ、被害者のインプラントを発見し、事件を解決した)

②「PC遠隔操作事件」

(保釈中の容疑者を徹底監視し、犯行現場を押さえ逮捕した)

は、「犯人を追いつめる刑事の執念」や「肉親の愛情に応えようとして生じた少しの油断から完全犯罪が崩れてしまう」という「見せ場」があり、登場人物の名前を変えただけで「ドラマ」の脚本になりそうです。

 このまま行くと「現実の事件」が「海沿いの断崖の上で解決する日」も遠くないかもしれません??

花には団子

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 昨年4月中旬、家族と兼六園を訪ねました。やや肌寒い風が吹いていましたが、晴天のお花見日和で、桜は八分咲き、当日は入園料無料だったこともあり、沢山の花見客が紺屋坂を登り、桂坂口から入園してゆきます。

 坂の途中にある団子屋さんには長い行列が出来ていました。園内の茶店や屋台でも団子を売っていて、花見客の多くが桜の下で団子を食べています。

  阪神間にも夙川公園や芦屋川畔、王子動物園、満池谷墓地などいくつか桜の名所があります。しかし、団子の屋台を見たことはなく、団子を買って御花見に行った記憶もありません。 兼六園では団子を食べながらお花見をするのが、伝統なのでしょうか?

 今年は北陸新幹線の開業により兼六園の花見客も増え、団子の売り上げも新記録を更新するかもしれません。 バーベキューや花見弁当を囲んで酩酊するのもよいのですが、団子を友に優雅にお花見するのもまた一興だと思います。

立場は人を変える

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  昭和61年から平成13年まで16年間在籍した滋賀県の「外郭団体」の職員構成は「団体が独自に採用した職員」と、「県で採用され団体に出向してきた職員」からなっていました。しかし、両職員の仕事内容に区別はなく、「独自採用職員」の部下が「出向職員」だったこともよくありました。

 さて、件の「出向職員」ですが、出向後何年か経つと「団体」の管理部局である「県教育委員会事務局文化財保護課」に戻ってゆくのが通例です。「団体」出向中は、発掘現場や埋蔵文化財センターなどで「一技術職員」として働くだけですが、「文化財保護課」に戻ると20代の若手職員であっても「行政官」として外郭団体や市町村の文化財担当職員を指導・監督する役目を担います。

 市町村職員にとって県は大きな権限を持ち、指導は絶対で、各種補助金も握っていますから、年下の県職員であってもへりくだって接します。毎日そんな状況が続くと「自分は偉い」と勘ちがいして、接客態度が横柄になったり、慇懃無礼になる県職員は結構多いのです。

 ある年の4月初めに県庁に行ったところ。「団体」にいた3月末までは「控えめ」で「おとなしい性格」だった同僚が、ぞんざいな言葉遣いで某市の職員に電話をしているのを聞きびっくりしたことがあります。

 私に対する態度も高圧的で、そのあまりに速い人格変化に驚きました。しかし、数年後、彼が「団体」に再出向してきた時、たった一日で元の「控えめ」で「おとなしい性格」に戻ってしまったのにはもっと驚きました。

 私自身は上記のことを反面教師として「たとえ役職につくことがあっても人格が変わることがないよう、重々自戒すべきである」といつも心がけています。

 

東京グルメ

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 私はめったに上京しませんし、よく上京する同僚もいません。職場の御近所の小母さんは生まれてから一度も上京したことがなく「東京に行ったら、電車に乗る時、自販機で切符を買ったり、自動改札を通らなあかんし、怖い、やっぱり行きたない」と話しています。

 しかし、東京キー局はこんな地方住民も含む全国ネットで「都内グルメ巡り」番組を盛んに放映しています。なんで「都内グルメ巡り」なのかと、常々考えていましたがやっとその意図が分かりました。

 東京キー局が「都内グルメ巡り」で取上げるのはどんな店でも構わないし、放映後にそこが「はやろう」が「つぶれようが」そんなことはどうでもいいのです。逆に局として絶対に避けるべきことは他局と同じ店を紹介してしまうことつまり「かぶってしまう」ことです。これをやってしまうと「視聴者」的にも「スポンサー」的にも「社内的」的にも大チョンボになります。

 幸い一千万以上の人口を有する東京には星の数ほど飲食店があり、移り変わりも激しいので、キー局全てが都内の飲食店を片っ端から紹介してもめったに重なることはありません。グルメ番組は「かぶり」さえしなければ、クイズ番組のようなセットもいらず、安上がりで御手軽なことから、毎週のように放映されているのでしょう。

 まあ、しかし、どちらにしても地方の視聴者にとってはどうでもいい話なんですが。

「えべっさん」とボラの話

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佐賀県の民話です。

 ある日、恵比須さん(関西風に「えべっさん」と呼ばせてもらいます)が、鯛釣りに行きました。ところがいつもはたくさん釣れるのにその日に限っては全く釣れません。そのうち夕方になったので、あきらめて納竿しようと思い、竿を上げかけると魚信がありました。

 今までの暗い顔がとたんに恵比須顔になり「バラしては大変」と慎重に竿を上げました。ところが釣れたのはなんとボラ。今度は一転して鬼の形相になり、腹立ちまぎれにボラの頭を殴りつけました。それからボラの頭は「ぺったんこ」になってしまいましたとさ。おしまい、おしまい。

 この御話は中々含蓄の深い話でして、確かにボラを上から見ると頭は靴ベラのように「ぺったんこ」です。横から見るとのっぺりしていて、体も下腹が膨らんだ中年太り体型で、全体の見栄えはよくありません。しかし、水面から1m近くジャンプするところを時々見かけるので身体能力は意外と高いのかもしれません。

 また、真鯛とボラが一緒にいることは少ないのですが、チヌ(黒鯛)とボラは生息する水域が同じで、今治城の濠でも仲良く泳いでいます。そんなことから、チヌ釣りの外道でボラが釣れることも多く、チヌがかかったつもりで機嫌よくリールを巻いていた釣人もボラの姿が見えると「えべっさん」のように「怒る」か「がっかり」します。ボラは海底のヘドロを食べており、身が臭いので、食用にはむかないからです。

 こんなボラでも産卵のために外洋に出たものには身の臭みがありません。刺身は血合いの赤と白身のコントラスがきれいで、知らずに食べると鯛と間違えるほどです。「えべっさん」がボラを釣ったのは港内の水の汚い場所だったのでしょう。舟で沖に出て釣ったボラなら喜んで持って帰ったに違いありません。

東京メディア

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 阪神・淡路大震災の折、東京からは筑紫哲也氏、久米 宏氏、安藤優子氏ら一流のテレビキャスターが被災地を訪れ、リポートしました。

 キャスターや放送スタッフは中継が終わると帰京します。家に帰り、風呂で疲れを癒し、酒でも飲みながら「いやあ、神戸はすごかったよ」などと家族に話すこともあるでしょう。しかし、同時刻、被災者たちは風呂や暖房のない悲惨な境遇に置かれているのです。

 実は私も神戸の実家で被災したのですが、職場も住まいも滋賀県だったので、地震後しばらくして滋賀に戻りました。度々休みを取って、帰郷し、後片付けの手伝いをしましたが、滋賀県では風呂にも入ったし、酒も飲みました。後ろめたい思いが離れず、心の中で何度も詫びました。

 シリア内戦のドキュメンタリー番組で特派員が日本に帰国する時、別れに集まった地元の人々が羨望と悲しみが入り混じったなんともいえない表情をしていたことが、大変印象に残りました。帰京を見送る被災者の中にも同じ表情の人がいたと思います。

 東京メディアのキャスターやアナウンサーが災害報道を行う時「この悲惨な状況を全国に届けることが我々の使命です」などとよく言われます。しかし、「悲惨な状況」をきめ細かく長期間にわたり取材・報道するのは被災者と同じ境遇で活動する地元メディアです。東京メディアの皆さんには、報道に先だち、まず自分の幸せに感謝し、被災者に思いを寄せから、 崇高な使命を全うしていただきたいと思いますが、いかがでしょうか?

浪人時代 1

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  長男と言う立場は全く割の合わないもので、進学、成人、就職、結婚、退職などの人生の関門を先陣切って突破しなくてはならないのに、先達がいませんから、自分で突破方法を考えるしかありません。しかし、自分はあわて者で熟考が大の苦手ときておりますので、成功や達成より失敗や挫折の方がはるかに多いというのが実情です。

 その点、妹や弟やたちは兄の失敗や挫折を参考にでき、事前に十分、準備をしますので、大体うまく関門を突破し、人生も順調に進んでゆきます。

 私がバイトや嘱託職員を経て、何とか採用試験に合格。29歳にしてようやく正式採用された頃、妹弟たちはとっくに仕事についており、兄の面目は丸つぶれでした。

 さて、時間は少し遡りますが、私は大学受験の時も甘い判断から志願校を高望みして全敗し、1年間の浪人生括を送ることになりました。入学した予備校は高校よりずっと近くにあったので、朝はゆっくり起きてのんびり出かけました。授業は高校の時に比べるとはるかに分かりやすかったのですが私自身は勉学意識が高まらず、停滞していました。

 そんな予備校講師の中で一風変わっていたのが、下半期になって初めて現れた漢文の先生です。彼は70代の痩せた老人でトレードマークの赤いベレー帽を被り、黄色か白のセーターを着ていました。漢文の授業はあまり人気がないらしく受講者は10人程度しかいません。しかし、いざ授業が始まると漢文の解説が講談のように面白く、受講者でファンクラブを作ろうかという話が出たくらいでした。

 その才能が最も発揮されたのは、白楽天が楊貴妃を称えた「長恨歌」の解説です。その中の「華清池の温泉」部分を紹介します。

原  文

「・・・温泉水滑洗凝脂 侍兒扶起嬌無力・・・」

読み下し

「・・・温泉の水すべらかにして凝脂を洗う、侍兒たすけ起こさんとすれども矯として力なし・・」

先生の解説

「楊貴妃はぽっちゃり型の美人で、ボインちゃんでして、温泉の湯船から少し体を出すとそのぽちゃぽちゃした真っ白いお肌の上をお湯がツ・ツ・ツーと滑っていくわけであります。侍女が支えるその姿のあでやかなこと、あでやかなこと、支えられてようやく湯船から上がる姿、なよなよとしたたたずまい、重いものなど持ったたことのない手弱女そのものでございます」

 浪人時代の授業で一番記憶に残っているのは「・・・お湯がツ・ツ・ツー・・・」ですから・・・、2度目の受験は高望みせず自分の学力レベルでもいけそうな大学を受験し、なんとか入学できました。

 「長恨歌」以外の漢文も面白おかしく解説してくれた先生のおかげで「漢文の魅力に開眼したこと」のみが浪人生活唯一の収穫だったということで、本日のお話はおしまいでございます。お粗末さまでした。

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