咽郷雑記

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

一般市民向け現地説明会(その1 準備)

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 私の学生時代や「滋賀県の外郭団体」に在籍していた頃、「現地説明会」※通称「現説」 の意味は「発掘された遺跡を一般市民に広く公開すること」でした。

 しかし、「文化財調査会社」に転職すると「自治体などが入札前に業務施工場所を指名業者に公開し、業務内容や仕様書の説明をしたり、質問に答えたりすること」を「現地説明会」※通称も同じ「現説」 と呼び、この言葉には二つの意味があることが分かりました。今回、お話するのは前者の事です。

 遺跡の発掘調査が終わりに近づくと、「現地説明会」の日程を決め、当日配布する「パンフレット」を作り、まず団体の決裁をとり、次に県教育委員会にも決裁を回し、「遺跡について分かりやすく説明されているか」「文言に問題がないか」などについて十二分に検討してもらいます。

 OKになって返ってくるとマスコミ各社の分だけプリントし、「遺跡の目玉写真」も付け加え「県庁の記者クラブ」に持って行いきます。これを「資料提供」と言います。同じ遺跡記事の写真が各誌どれも同じなのは上記の理由からです。

 新聞1面に乗るような著名な遺跡なら「資料提供」と同時に取材陣が現場に押しかけてきますが、地味な遺跡の場合、取材に来ることはほとんどありません。

 「現説当日」の準備は、面積の広い遺跡なら1週間くらい前から、小さな遺跡では前々日ぐらいから取りかかります。テントを張り、中に机・椅子を置き受付とし、遺跡を安全に見学できるように通路を作り、井戸などの深い遺構に人が落ちないようにロープを張ります。前日午後に遺構面を入念に掃除すると準備は完了です。(その2)に続く

釣りシーズンの到来です。

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 今年、最初の釣行は4月29日(祝)場所はおなじみの今治港防波堤です。まだ水温が低く、防波堤の傍まで魚は寄っていません。そこで、10mほど沖の深場まで仕掛けを投げ込むと、魚信がありました。3時間で5尾しか釣れませんでしたが、結構大物が混じっています。

 11日後の5月10日(日)2回目の釣行に出かけました。温かい日が続き水温も上がって来たせいか、魚は「のべ竿」で届くところまで寄っていました。しかし、まだ魚信は小さく、クイもしぶく、数もいまいちでした。

4月29日(祝)の釣果

4月29日(祝)の釣果

5月10日(日)の釣果

5月10日(日)の釣果

 

またまたケーキの紹介です

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 「南京町」や「元町商店街」よりずっと南、港のすぐ近くに「乙仲通」(おつなかどおり)はあります。この通りには、事務所や船具店、レストラン、カフェ、小さなブティクの入った古めかしいビルなどが混在していますが、私たちが訪れた日曜日は、事務所や商店は休みなので、開いている店も少なく、通行人もまばらです。一か所、人だかりがあったので近づいてみるとカフェの店先でリコーダーの演奏が行われていました。

 櫛比する小さな商店が店先にも屋台を出して、賑やかに客を呼び込み、大勢の人の流れがある「南京町」とは好対照です。

 さて、今回紹介する「パティスリー」は、この「乙仲通」にあります。「食べログ」の順位は、「神戸市内10位から15位」くらいですが、地元では評判の店だそうです。入店するとショーケースの奥に喫茶室があり、沢山のお客で賑わっていましたが、お持ち帰りだけのお客は意外と少なく、しばらく並ぶと順番が来て、3個のケーキを買いました。私はケーキの評価には自信がないので、前回と同様、家内の分析を御披露いたします。

 まず、奥の作品は頂上部の「波のように躍動的な造形」が素晴らしい。人気のない店のケーキは「ありきたりの形」で「芸術作品」には程遠く、件の作品のような目を引く造形はありません。

 右の作品は上に挿してある「店名を記したチョコレート薄板」が目に留まり、断面に見える各層は、色目も味も調和がとれていて、パティシエの創作力の素晴らしさを感じます。

 左も断面各層の色目の調和がよく、味もいうことのないブリュレです。。

 以上で講評は終了です。ありがとうございました。

乙仲通のパティスリーのケーキ

乙仲通のパティスリーのケーキ

 

日銀の支店長

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 安土にある博物館に勤めていた頃ですから、平成四年から七年の間の事です。

 夏の午後、総務課長が呼ぶので事務室に行くと、「来館者が三人いるので三十分位で案内をしてくれないか」という命令です。来館者の名刺を見ると、県下で一位、二位の地銀の頭取と日銀の京都支店長で、どこかに視察に行った帰り道に立ち寄ったということでした。

 玄関ロビーにいた三人に挨拶し、展示室に入ると、支店長は「私は無類の歴史好きで、この館に来ることができて大変嬉しいです」と言い、どの展示に対しても興味津々で次々に質問します。ところが後から腰をかがめてついてくる頭取二人は時々愛想笑いするのですが、時計を見たり、こっそりその場を離れて携帯をかけたりして、心ここにあらずの様子です。

 予定の三十分を過ぎると、二人の顔に焦りの色がありありと表れてきました。クーラーが入っているのに汗をぬぐい、ひたすら揉み手をして、もの言いたげなのですが、支店長に対して「次の予定に間に合わないので、そろそろ出ましょう」とは言いません。地銀から日銀に「声をかけてお願いすること」は大きな身分差が障害となり実施不可能なのでしょうか?

 支店長は二人の気持ちを知ることもなく益々見学に夢中になり、予定時間はどんどん過ぎていきます。二人は頻繁に汗を拭き、数秒おきに時計を見て、意味もなく笑ったりしていましたが、とうとう絶望的な表情になり、小声で慰め合いを始めました。

 すると、まさにその時、四時三十分の「閉館案内放送」が流れてきました。支店長は「あー、もう時間ですか。残念、残念、今度は一人でゆっくり見に来ます。案内ありがとう」と落胆しながらもお礼の挨拶をしました。それを聞いた途端、二人の顔に生気が戻り、一人は玄関を飛び出して、駐車場の黒塗り高級車を呼び寄せ、もう一人は携帯でせわしなく指示を出すと、支店長を促して車に乗り込み、車は田んぼの中の道を猛スビードで走り去っていきました。

 それを見送りながら、なぜか「すまじきものは宮仕え」という言葉が頭に浮かびました。

「祝福されたお金」と「呪われたお金」

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 財布から旅立ってゆくお金には「祝福されたお金」と「呪われたお金」の二種類があります。

 「スポーツ観戦」「コンサート・演劇鑑賞」や「グルメツアー」などの経費は、「楽しみ」の対価であり、喜んで支払われるので「祝福されたお金」です。

 このお金には支払った人の「明るい気持ち」が乗り移っているので、お金を受け取った「芸能人」や「有名レストランのオーナー」が「豪邸」や「高級車」を自慢しても腹を立てる人はいません。

 反対に「呪われたお金」の代表は「義務なので仕方なく払う」税金でしょう。「祝福されたお金」に「明るい気持ち」が乗り移るように「呪われたお金」には「納税者の恨み」が「憑依」しています。

 納税者は「恨み心」を持っているので、税金の使い道については、いつまでも厳しく目を光らせていて、「公的機関」や「独立行政法人」などで少しでも「無駄遣い」や「使途不明金」が発覚すると「税金を返せ、責任者を処分しろ」という非難の声が一斉に上がります。

 「呪われた金を糧として豊かに暮し」「老後も天下りで安泰に過ごしている」官僚達も納税者の目は気になるので、「豪邸」や「高級車」を所持していても自慢することはなく、表向きは慎ましやかに暮らしています。

 「わが国は素晴らしい国なのに税金がこんなに少なくては申し分けない。もっと税金を払います」と国民が競い合って余分に納税するような国なら税金も「祝福されたお金」に入るでしょう。

 しかし、もしそんなことが行われている国が実際あったとすると、そこには「ファシズム」の影があるように思われます。「税金が呪われたお金」でいる国の方が健全なのかも知れません。

インドネシアの思い出 -ジェグボンド-

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 平成8年、「インドネシア史跡巡りの旅」の折に訪れたスラウェシ島南部に存在したビナム王国のイスラム墓地遺跡「Jegbond-ジェグボンド-」を紹介します。

 イスラム教は厳格な教義を持ち、墓の構造にも決まりがあります。同遺跡の墓も基本構造はアラブ伝来の「イスラム様式」をとっているのですが、全体を覆う「過剰な装飾」や墓の上部両端に刻まれた「女性像」「一対のコモドドラゴン」の文様などは、一般的なイスラム墓には見られません。

 インドネシア考古学当局により初めて調査された時には、墓の上部に被葬者と思われる「椅子に座った人物の石像」が置かれていました。(現在は博物館にあります)

 スラウェシ島に伝来したイスラム教が、地元の「自然信仰」と習合した結果、墓の形状は「イスラム様式」でありながら、装飾はイスラム教の教義に反する不思議な墓が出現したと思われます。

 この墓域に一歩踏み込んだ時、墓標群から発せられる言いようのない「不気味なパワー」を感じ、思わず後ずさりしました。同時に、幻覚を見ているような不思議な感覚がしばらく続いたことが、記憶に残っています。

ジェグボンド遺跡

ジェグボンド遺跡

墓石の過剰な装飾

墓石の過剰な装飾

女性の浮き彫り

女性の浮き彫り

コモドドラゴンの浮き彫り

コモドドラゴンの浮き彫り

 以前は上に石像が載っていた

以前は上に石像が載っていた

「先進地視察」は物見遊山?

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 滋賀県教育委員会の「外郭団体」に在籍していた頃、遠隔地にある県や市町村、各種団体の職員が「先進地視察」という名目で「施設」や「発掘現場」の見学に来ることが時々ありました。滋賀県の文化財行政は特に「先進的」とは思えないし、大抵忙しいさなかにやって来るので、迷惑この上ないのですが、上司の命令で仕方なく対応していました。

 しかし、本当に大変なのは、滋賀県内でも「本当に先進的な」取組みを進めていた自治体で、次から次にやって来る「視察団」に忙殺され、日常業務が進まず、職員は困りきっていました。

 さて、「先進地」とは、本来「他の自治体や組織が思いつかないような独創的で未来先取りの事業を立案し、困難を克服して実現させたところ」のことですが、そこを視察して学んだ「先進地事業」を「自分のところ」に導入しても、所詮「二番煎じ」で「先進地」を超えることはできません。

 それより、まず「硬直化した役所や団体のシステム」の中へ「新たな事業を導入」すること自体が非常に難しく、「関係部局との調整」だけでも何年もかかります。

 そんなことから、「A市の取組みは素晴らしいので、長期的な展望に立って、関係部局と調整、検討していくことが望まれる」などという「あたりさわり」のない「帰庁報告」を提出しただけで「終わり」になることが多く、「視察」が組織運営に生かされることはめったにありません。

 では、何のために「公務員」や「団体職員」は他府県に「先進地視察」に行くのでしょうか?

 実は「物見遊山」という裏の目的があるからです!!

 私は「視察団」を車で宿まで送ってあげたことが何度かあります。その送り先のほとんどが県内でも一流の「旅館」や「ホテル」で、中には、夜の「宴会」の期待から車中で既に盛り上がっているグループもありました。

 翌日の予定を聞くと「京都に行く」という答えがほとんどです。たしかに「京都」は文化財保護では「先進地」かもしれません。しかし、日程表に「視察先」として記載された「有名社寺」が何か「先進的」な取り組みをしているようには思えません。

 また、ある「視察団員」から「安くて喜ばれる京都のお土産を教えてほしい」と聞かれた時は、つい愛想よく教えてしまいました。「そんなことあなたの本来の業務とは関係がないでしょう。教えません」と断った方がやっぱりよかったのでしょうか?

 

近江の早春譜 日野駅

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 4月8日(水)久々に滋賀県蒲生郡日野町を訪れました。

「春や名のみの風の寒さや・・・」の歌詞とおりの寒い日で、古い駅舎を覆う空も冬のたたずまいです。

近江鉄道日野駅の駅舎

近江鉄道日野駅の駅舎

早春伊豆紀行(番外編)

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 今回、伊豆半島の移動には伊豆急行を利用しましたが、そこに乗り入れているJR東日本の「特急踊り子」(185系電車)を久しぶりに見かけ「まだ走っていたのか」と吃驚しました。

 「185系電車」は「国鉄時代」の1981年に「急行」「普通」両方に運用する目的で、関東方面に導入された電車で、車両の形状は前年に関西方面に導入され、その後、中部地方にも配備された「117系通勤電車」とよく似ています。

 「同系電車」は導入時から、「117系通勤電車」と類似した外形や内装が「安っぽい」「優等列車の風格がない」などと言われ評判がよくありませんでした。しかし、当時は全国的に「急行」の廃止が進んだ時代で、「185系電車」も導入からしばらくは東京⇔伊豆半島間の「急行」として運用されていましたが、すぐに「特急踊り子」用に格上げされました。もともと「急行用車両」なので「特急」の風格は全くなく、現在では、内外ともにくたびれてきて、特急料金不要の「伊豆急行のリゾート電車」よりも見劣りがするようになりました。

 なお、兄貴分の「117系通勤電車」は、車両更新ペースの速い「JR東海」ではとっくに全廃されました。しかし、物持ちのいい「JR西日本」では「2扉から3扉」「クロスシートから一部ロングシート」へと原型が想像できなくなるほど改造された上、悪趣味な「緑一色」に塗り替えられ、湖西線や草津線で悲しい晩年を送っています。

 「185系電車」は長すぎる運用の結果、国鉄用語でいう「陳腐化」してしまっているので、最期の日は遠くないでしょう。風格も威厳もない安っぽい車両ですが、最期の「185系踊り子」が東京駅を発つ時は「国鉄時代」からの車両の終焉ということで、「葬式鉄」(引退列車を見に来て写真を撮ったり、大声で別れの挨拶をする鉄子・鉄男のこと)が沢山やって来ると思います。たぶん。

早春伊豆紀行(その2)

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 伊豆高原駅に着きましたが、ホテルのチェックインまでは、しばらく時間があるので、駅近くに小さな美術館に入りました。展示品にはあまり期待していなかったのですが、2階の展示ケースに沢山の「鼻煙香」(びえんこう-中国の嗅ぎ煙草入れ―)が並んでいたのには驚きました。

 「鼻煙香」のコレクションは台湾の故宮博物院が有名で、大阪の東洋陶磁美術館にも常設展示室がありますが、ここのコレクションも中々レベルが高く、閉館時間近くまで粘ってじっくり見物し、それから、タクシーで大平台のプチホテル(昔は「ペンション」と言っていたような気がするのですが?)に移動。露天風呂に入り、料理自慢のオーナーが造る夕食を堪能し、早々と就寝しました。

 翌朝は「焼きたてパンとデザート付の豪華な朝食」ですっかり満腹になり、タクシー・電車を乗り継いで10時過ぎに伊豆急河津駅に到着。時雨の空、長く続く寒さのせいか河津川沿いの桜はまだ2~3分咲き。しかし、少し離れたところにある「原木」は見頃の8分咲きです。

 帰宅後、ネットで調べると「河津桜の原木が発見されたのは1955年、70年代になると増殖が盛んに行われ、河津川沿いの桜並木を整備、1981年に初めてさくら祭が実施された」とあります。今年は2015年ですから河津桜の歴史は60年しかありません。

 私が子供の頃、桜シーズンの先駆けは沖縄や奄美の「緋寒桜」でした。それは今でも変わらないのですが、近年それに加えて「本州の桜の先駆け」として「河津桜」の開花が報道されるのが「通例」となりました。

 何百年もの伝統があっても広く知られない「風物」もある中で、たった60年で早春の「歳時記」を育て上げた河津町の人々の「着目点の良さ」「宣伝のうまさ」「町民あげての努力」には、感心するばかりです。

 桜見物を終えて、電車で稲取に移動。漁師料理の店で「金目鯛の煮付定食」に舌鼓を打ち、近くの公共施設で「雛のつるし飾り」を見ました。「雛」といっても「宝尽くし」の造形が一本の糸で沢山つるされたもので、天井からいっぱいつるされた様子は中々壮観です。この雛飾りは江戸後期以来の伝統をもつものだそうです。

 これにて見物は終了。熱海に戻って新幹線で関西に帰ります。事前にきっちりとした予定を立てない、気まぐれ旅行でしたが、行く先々で新たな発見や感動があり、心が豊かになる伊豆紀行でした。(「番外編」に続く)

河津桜原木

河津桜原木

雛のつるし飾り

雛のつるし飾り

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