日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
蜃気楼
年末、かなり冷え込んだ朝のことです。「JR西明石行電車」が須磨駅に停車した折、目の前に広がる大阪湾に蜃気楼が浮かんでいることに気が付きました。
思わず目を凝らすと普段霞んで見えない対岸「泉佐野市」あたりのビル群が宙に浮かび、不自然なほど沢山の船が湾内を行きかっています。
これらの姿は全てぼやけていて、じっと見ていると体がふらつくような気持ち悪さに襲われました。
江戸川乱歩の名作「押絵と旅する男」の「男が富山湾の蜃気楼シーンを見て、平衡感覚に変調をきたすシーンから怪奇な物語が始まること」を思い出し、背筋がぞくぞくしてきて、おもわず視線を海から山に移動すると、ほどなく電車は須磨駅を発車。
垂水の街に入るころには「平衡感覚」も「蜃気楼のために少し乱れた心」も正常になり、いつもと変わらない日常が戻ってきました。
「謹慎」の話
小生は子供の頃から内向的かつ依怙地な性格で、人付き合いが大の苦手でした。その性格は成長してからも変わることなく、現役時代も上司や同僚、部下との関係は齟齬ばかりでうまくいかず、しょっちゅうトラブルを起こして処分を受けましたが「降格」「減給」「左遷」の三件については回数が多く、慣れてしまったこともあり「まあ、しゃあない」と成り行きに任せておりました。
定年退職間近になって、初めて5か月間の「謹慎処分」を受けました。
「処分言い渡し」の翌日、今までいた事務所から「デスクだけが置かれた倉庫二階の洋室」に移され、本部の事務員が、週一回出勤簿チェックに来る以外、社員は誰も来ないさみしい環境で「プロジェクトの残務処理」を一人細々と行うのが、与えられた仕事です。
ところが、実際「謹慎生活」に入ってみると煩わしい「部下の管理」や「月例報告」、役所からくる「無駄な質問票の処理」等から解放された上、倉庫一階を休憩場所に利用していた作業所のパートの方が、おやつ時間に「コーヒー」をサービスしてくれるという好待遇。精神状態は処分前より格段に良くなりました。
そんなわけで「謹慎期間」も順調に?消化し、あっという間に年度末になりましたが、「謹慎」のおかげで「送別会」に参加せずに済み、後始末にやってきた「週一事務員」に挨拶しただけで退職出来たのは幸いでした。
小生の経験した「送別会」は「天下り・再任用に係る退職者の今後の地位」「実力者転退職後の派閥の消長」「転退職上司に対する部下の積年の恨み」等の「危険因子」を含んで開催されることから大荒れになることが多く、とばっちりで怪我をしたこともあり、参加が憂鬱だったからです。
退職当日、「お別れ」に来てくれた気骨ある同僚が退職記念にくれた「鉢植え」の枝は2年たって少し伸びました。秋には紅葉するので、眼福にあずかることが出来ます。
「 山月記上演」
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
定年退職後、パート社員になってからも「8時間×週5日間」働いているので、兼好法師のように「日くらし硯にむかひて」ブログを執筆することはできず夕食後数十分程度パソコンに向かうのが関の山です。
そんな中でも時々「あやしうこそものぐるほしい」ような気分が高じてくると「妄想の種を発芽させ、好き放題に成長させ、枝も伸び葉も茂り始めた頃になって、意味もなく剪定し、変梃な形の木にしてしまう」という、自己満足の「文芸作品」を生み出してしまうことがあります。
「発芽」から「変梃な木」に成長するまで1年かかった「山月記のパロデイ」の「妄想の種」は
「主人公李徴が変身した虎の行状は、認知症の症状に似ているんじゃないの?」
という思い付きでした。
「山月記、認知症」の文言でネット検索すると同じ思い持った先駆者として「ゆうあいクリニックの片山 敦理事長」や「下村徹氏」がおられますし「統合失調症、山月記」で検索すると松岡・うっでぃ氏、門倉貴史氏、ruisou氏が両者の関連を追及されています。
なお、出来上がった愚作は「篋底深く秘して、娑婆には出さないでおこう」と一度は思ったのですが、既に「大魔神が戦国時代の堺に現れたら」という、小説とも映画台本ともつかないものをアップしたこともあり、恥さらしを承知の上で皆様に披露することにしました。どうぞ御笑覧下さい。
資料 | タイトル |
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「 山月記上演」 |
垂水区と須磨区(その2)
垂水区は、播州平野の西端にあたりますが、六甲山地の東端に繋がっていることから土地の傾斜がきつく、そこに刻まれる塩屋谷川、福田川、山田川などの河川はいずれも全長10km以下と短く、河口以外は海食崖が続いているので、水稲耕作に適した耕地は河口のごく狭い沖積地と川に両岸の細長い土地だけです。
しかし、そんな小河川の一つである「福田川」河口西の海食崖の上に全長194m、県下最大、全国でも41位の大きさを誇る前方後円墳「五色塚古墳」が築造されています。
「同古墳」に隣接して直径70mの円墳「小壺古墳」があり、周辺にもいくつか小古墳があることから、この崖の上は古墳築造の適地とされていたようです。
「古墳の大きさ、数はそれを支える近辺の生産力の大きさを反映している」という「学説」がありますが、福田川流域の狭い平地の農業生産力がこの大古墳と古墳群を支えているとはとても思えませんし、農業生産の担い手が住んでいた集落遺跡も同川流域では確認されていません。
ところで、日本書紀には「仲哀天皇の子である麛坂(かごさか)皇子、忍熊(おしくま)皇子が神功皇后を殺害するために淡路から石を運んで作った偽陵が播磨の赤石(明石)にある」という逸話が記載されていて「五色塚古墳」がその偽陵に比定されています。
また、市内では摂津の国にあたる灘区から東灘区に続く海食崖の上にも西に全長110mの「西求女塚古墳」真ん中に全長68mの「処女塚古墳」東に全長80mの「東求女塚古墳」が並んでいますが、六甲山地の南麓にあたるこの付近の地形は、垂水区以上に土地の傾斜がきつく、河川も急峻で耕作地はごくわずかです。
海上からみると「五色塚古墳」も「三古墳」も海食崖の上にそびえたっていてすぐ見つけることができるので「これらの古墳の築造された場所」と「近辺の生産力」の関係は特になく、海上から見て目立つことが、古墳立地の決め手となったのではないでしょうか?
なお、「三古墳」には「一人の処女(おとめ)と結婚しようと争った二人の男と処女の墓である」という言い伝えが万葉集に記載されています。
目立つ古墳は、海上を通る船の航路の目印や距離の目安とされ、時代を経るにつれて「偽陵伝説」や「悲恋伝説」がそこから生まれてきたのかもしれません。
整備が進み、ほぼ築造時の姿に再現された「五色塚古墳」は、垂水区有数の観光資源になり、ゆるキャラも誕生し、年に何回もイベントが行われています。
垂水区と須磨区(その1)
神戸の市街地の北側を東西に連なる六甲山脈は、西端の須磨浦公園(須磨区)あたりまで来ると「海になだれ込む崖」となって途切れてしまうので、市街地を平行して西に進んできた「国道2号線」「JR緩行線」「JR急行線」「山陽電鉄線」の車や列車は「崖」を削って造られた「東西方向の狭い雛壇」の上を肩を寄せ合うように通り過ぎて行きます。
そのままさらに西に進み「垂水区」に入ると、地形が「播州平野西端の台地」になるので、西の彼方まで見渡せる景色になりました。
さて、「律令制度」により定められた「古代の地域区分」は、国の中心である畿内(摂津、河内、和泉、山城、大和)と、遠方の(七道)に分けられていて、神戸市は「東灘区」から「須磨区」までが「畿内の摂津国」それより西の「垂水区」「西区」は「山陽道の播磨国」で、その境は「須磨浦公園」の西端にある「境川」がそれにあたるそうです。
百人一首に撰ばれた源兼昌の歌「淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬ須磨の関守」の「須磨の関」は、現在「山陽電鉄須磨駅」の裏手の「関守神社」がその「旧跡」と言われていますが、ここに「関所」が存在したという確証はありません。
ところで、東に目を転ずると、「畿内の東部」にある山城(京都府南部)と「東山道の西端」にあたる近江国(滋賀県)の境にも「逢坂の関」と言う関所が設けられていました。
同関所は都のすぐ近くにありながら、出境すると「東山道」の辺境ということで、東へ向かう旅人が立ち止まって都を偲び、旅の無事を祈る場所として有名でした。
「百人一首」にも著名な三人の歌人(「蝉丸」「清少納言」「右大臣藤原定方」)が読んだ「逢坂の関(逢坂山)の歌」が撰ばれています。
「須磨の関守の歌」は百人一首撰歌の中で「神戸市内の旧跡」が舞台となった数少ない例でありながら、読み手は「生没年不明」で「残された歌も少ない」地味な歌人で、「逢坂の関グループ」には知名度で圧倒的に負けているのが残念です。
「豆アジ」の季節
7月中旬、「舞子で20㎝クラスのサヨリがあがっている」との情報が入ったので、早速下見に行くと多くの釣人が「サヨリ仕掛」を降ろしているのですが、釣果はゼロで、魚影もありません。
しかし「豆アジ」は数え切れないほど群泳していたので、翌週「豆アジ」釣りに出かけると2時間で50尾近い釣果を得、さらにその2週間後の釣行では3時間で100尾近くを釣上げました。
さて、この釣りでは「疑似針6本」の「サビキ」を用いますが、魚を全部の針に乗せようと欲張って「仕掛け」を長く沈めておくと、針に乗った多くの魚がそれぞれ違った方向に動き回り、釣糸がもつれやすくなります。
それを防ぐためには、まだ1~2尾しか乗らないうちに仕掛けをあげる必要があり、結果的には「最初の魚信でリールを巻き、魚を取り込み、手返しよく仕掛けを降ろす」という「単調でせわしない釣り」になってします。
また、秋になれば成長して「一人前?」の大きさになるのに「子供のうちに釣ってしまうのは、資源保護の面からも問題がある」という御批判もあるでしょう。
しかし、10㎝以下の「豆アジ」は「ゼンゴ」をつけたままでも短時間で「から揚げ」に出来、「南蛮漬にすると飛び切りおいしい」という大きな魅力がある上、夏の初めになると、明石海峡に臨むほとんどの港では「豆アジ」の群泳が見られるので、「少しくらいいただいてもいいか」と自分に言い聞かせながら毎年釣行してきました。
ところで、彼の魚も8月下旬になると「南蛮漬」にするには大きすぎる10㎝以上に成長するため、(刺身や一夜干しに最適な)20㎝程度になる10月まで「アジ釣り」は休みにしています。
「目の健康講座と壬生狂言」(第2部)
第1部の終了後、短い休憩を挟んで第2部「壬生狂言」の幕が開きました。
壬生寺の「定期公演」では「鰐口」「笛」「太鼓」で構成される「囃し方」は舞台となる大念佛堂の奥に控えていますが、今回は舞台の上手に並んでいます。やがて聞き覚えのある単調な演奏とともに劇が始まりました。
最初は源頼光と家来が酒宴をする場面で、酒宴が終わり家来が袖に下がると入れ違いに「土蜘蛛」が舞台に現れ、頼光に襲い掛かります。
頼光が攻撃をかわし一太刀浴びせると、傷を負った「土蜘蛛」は逃げ去り、再び舞台に現れた家来達に頼光が「土蜘蛛」退治を命じるところまでは「能の土蜘蛛」の展開と同じようです。
「能」ではその後「引幕」となり「舞台の設え」が替わるまで「間(アイ)」が幕前で「間(アイ)語」りを行って時間をつぶし「設え」が替わり、幕が開くと「土蜘蛛」は古墳の横穴式石室のようなところにクモの巣を張って潜んでいます。
「壬生狂言」では命令を受けて「土蜘蛛」の本拠地にやってきた家来たちが、暗闇の中、松明をもって居場所を探す歌舞伎の「暗闘(だんまり)」のような場面が長く続き、ついに姿を見つけて打ちかかると「土蜘蛛」は糸を何度も投げて抵抗します。
糸が投げるたびに客席は大いに沸き「能」にない「家来が土蜘蛛の首をあげる」演出には拍手喝采がおくられました。
演目が終わり演者が橋かかりを通って退場するまで咳き一つ聞こえない武家の式楽「能」と庶民の芸能「壬生狂言」では客席の反応には違いがあるようです。
終演後、主催者による閉会の挨拶がありましたが、講演をしたドクター2名も最後まで鑑賞していたようで、主催者と並んで御辞儀をしていました。
「目の健康講座と壬生狂言」(第1部)
眼科の定期検診に行った家内が、「目の健康講座と壬生狂言」と題されたパンフレットを取ってきました。実施日は2月12日(日)、主催は京都府眼科医会と日本眼科医会。第1部は理化学研究所の高橋政代医師と京都府立大学の木下茂医師による「網膜の再生医療」「角膜の再生医療」についての講演、第2部は壬生狂言「土蜘蛛」の上演です。
「医学講演会」と「壬生狂言」という面白い取り合わせのイベントですが、今をときめく高橋政代医師の講演はぜひ聞いてみたいし、能の「土蜘蛛」は見たことがあるのですが、壬生狂言の同演目については鑑賞経験がないので、さっそく申し込みをし、当日は会場である龍谷大学「響都ホール」校友会館に早めに出向き、前の方の席に陣取りました。
13:00になると司会を務める美貌の女性眼科医が登場し第1部の開幕を告げ、紹介を受けた高橋政代医師が白のスーツに細身の体を包み微笑みながら登壇しました。大げさな言い方ですがそこだけスポットライトがあたっているような華やかさがあります。
講演では「網膜の再生医療」の具体的方法である「治験の実施方法」や「iPS細胞を元にした移植細胞の作製」などを、難しい医療用語も分かりやすく解説しながら話されるので、素人にもよく理解できました。
続いて登壇した木下茂医師は「角膜の再生医療」の第一人者という紹介でしたが、自分の顔を加工した「おふざけスライド」を使ったり、おやじギャグをいったりして、受けねらいを連発するも不発が多く、残念ながら話の内容も高橋医師に比べると分かりにくさがあります。
講演が終わった後はかなり長い時間質疑応答が行われましたが、やはり高橋医師の答えの方が的確で分かりやすいという印象がありました。
平成29年の釣りシーズンの開幕です。
例年なら連休明けに初釣行するところですが、今年は中々気温が上がらず水温も低そうなので、釣行は延期して下見に行くと、予想通り市内各釣り場とも寒さに強いガシラとメバルがわずかにあがっているだけで、ベラの姿はまったくありません。
かなり気温が上がってきた5月31日になって「須磨海釣り公園」に出向きました。水温は低い上に強風でカカリ竿しか出せないという悲惨な状況下で3時間半苦闘しましたが、獲物12尾でさみしく納竿。
ベラが盛んに餌を追うようになるにはまだまだ時間がかかりそうです。
行幸啓の話(その4) 後日談
安土城考古博物館を無事出発された両陛下は、ホテルレークビワで御昼食をとられ、午後は琵琶湖栽培漁業センター、第一びわこ学園を御視察になり、琵琶湖ホテルに御宿泊されました。
翌日の近江神宮御参拝で滋賀県内の行幸啓の日程は全て終わり、車列は逢坂山を越えて京都府に入り京都駅に到着、両陛下は京都駅から新幹線で次の御視察先である愛知県に向かわれました。その間、小石が車列の上を飛ぶことはなく、警備責任者の首も無事だったようです。
・恩賜のたばこ
行幸啓の翌日、職員に「恩賜のたばこ」が一箱づつ配られたので、早速封を切ると菊の御紋章がプリントされたたばこが10本入っていました。
小生は喫煙しないので、知り合いの町役場の係長にプレゼントすると部下の女性職員と共にありがたく押し頂いて一服したととたん二人共ひどくせきこみました。
しばらくして回復した係長は「こんなきついたばこは久しぶりやハイライトちゃうか?」と言い、10分以上せきこんでいた女性職員は息も絶え絶えに「もういりません」と火を消しました。
「恩賜のたばこ」はたばこの健康被害が広く周知されるとともに批判が増え、平成18年末に廃止されたそうです。
・思わぬ副産物
行幸啓からしばらくして博物館、県庁、役場、警察の担当者が一堂に会して反省会が行われました。
その席上、地元警察署の担当者から
「行幸啓前に安土山と観音寺山で不審者対策のために山中くまなく山狩りを行ったが、その際身元不明遺体が数体見つかった。遺体や周辺の状況からいずれも自殺遺体と思われる。現在、各地の警察署に行方不明者や犯罪被害者等の紹介を行っており、遺体の特定ができるかもしれない」
という報告があったそうです。
・慰労会
行幸啓が終わり11月になりましたが、11月は元々館の行事が多く忙しかったのでそれらが一段落した12月始めに行幸啓の慰労会と忘年会を兼ねて職員全員で芦原温泉に一泊旅行に行くことになりました。
休館日前日の夕方、館員の数名が車を出し全員が分乗して博物館を出発、旅館に着くなり宴会に突入しました。一次会は和やかに行儀よくお開きになったのですが、カラオケスナックに場所を変えた二次会は普段生真面目な管理職達も次々リクエストし、酒も進み、大変な盛り上がりです。
遅くまで飲みつかれた翌朝の朝食後、往路と同様車に分乗して帰路につきましたが、敦賀まで晴れていた空も県境を超えて余呉町に入った頃には冬の曇り空となり、木之元町ではワイパーを最強にしても前がよく見えないくらい激しい「しまけ」(時雨のこと)になりました。
同乗の館長が「次は雪かな?」と言うと運転していた課長が「結構寒なってきたんで、次は雪になりますやろ」と答えます。
さらに南下して虎姫町に入る頃に「しまけ」は止みましたが、姉川の橋の上から、うっすらと雪化粧した伊吹の頂を雲間に見た時「お山に三日雪が降れば、里に雪が降る」ということわざをふと思い出しました。(この項終わり)