垂水区と須磨区(その2)

 垂水区は、播州平野の西端にあたりますが、六甲山地の東端に繋がっていることから土地の傾斜がきつく、そこに刻まれる塩屋谷川、福田川、山田川などの河川はいずれも全長10km以下と短く、河口以外は海食崖が続いているので、水稲耕作に適した耕地は河口のごく狭い沖積地と川に両岸の細長い土地だけです。

 しかし、そんな小河川の一つである「福田川」河口西の海食崖の上に全長194m、県下最大、全国でも41位の大きさを誇る前方後円墳「五色塚古墳」が築造されています。

 「同古墳」に隣接して直径70mの円墳「小壺古墳」があり、周辺にもいくつか小古墳があることから、この崖の上は古墳築造の適地とされていたようです。

 「古墳の大きさ、数はそれを支える近辺の生産力の大きさを反映している」という「学説」がありますが、福田川流域の狭い平地の農業生産力がこの大古墳と古墳群を支えているとはとても思えませんし、農業生産の担い手が住んでいた集落遺跡も同川流域では確認されていません。

 ところで、日本書紀には「仲哀天皇の子である麛坂(かごさか)皇子、忍熊(おしくま)皇子が神功皇后を殺害するために淡路から石を運んで作った偽陵が播磨の赤石(明石)にある」という逸話が記載されていて「五色塚古墳」がその偽陵に比定されています。

 また、市内では摂津の国にあたる灘区から東灘区に続く海食崖の上にも西に全長110mの「西求女塚古墳」真ん中に全長68mの「処女塚古墳」東に全長80mの「東求女塚古墳」が並んでいますが、六甲山地の南麓にあたるこの付近の地形は、垂水区以上に土地の傾斜がきつく、河川も急峻で耕作地はごくわずかです。

 海上からみると「五色塚古墳」も「三古墳」も海食崖の上にそびえたっていてすぐ見つけることができるので「これらの古墳の築造された場所」と「近辺の生産力」の関係は特になく、海上から見て目立つことが、古墳立地の決め手となったのではないでしょうか?

 なお、「三古墳」には「一人の処女(おとめ)と結婚しようと争った二人の男と処女の墓である」という言い伝えが万葉集に記載されています。

 目立つ古墳は、海上を通る船の航路の目印や距離の目安とされ、時代を経るにつれて「偽陵伝説」や「悲恋伝説」がそこから生まれてきたのかもしれません。

 整備が進み、ほぼ築造時の姿に再現された「五色塚古墳」は、垂水区有数の観光資源になり、ゆるキャラも誕生し、年に何回もイベントが行われています。