日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
今年のベラは大きいぞ!
11月3日(祝)塩屋に釣行、釣果は3時間弱でクサフグも合わせて25尾、ベラは大半がキュウセンで、昨年は結構釣れていた磯ベラの姿がありません。
また、大型が多く18㎝を筆頭に16㎝越えが4尾も!
ハス(オイカワ)用の細いノベ竿を使うので、引きも強烈、中々水面に姿を現さず、釣趣は抜群です。
そろそろ、釣りシーズンも終盤ですが、残り少ない釣行が楽しみです。
釣行二題
春のシーズンは、鉛筆サイズのサバ横行(泳)?により、豆アジ釣りは超貧果に終わり、夏場は猛暑と野暮用で全く釣行できないという最悪の状況でした。
ようやく10月10日に塩屋防波堤に出かけたところ3時間弱でベラ17尾、チャリコ2尾という釣果、ベラの大半はキュウセンで、そのうち5尾は15㎝越えのよいサイズ。
10月23日は朝霧に進行、ここは景色が大変良く明石海峡大橋を渡る車や、海沿いの軌道を走るJRや山陽電車を眺める楽しみもあります。
釣果は、バリコ(アイゴの子)1尾、丸ハゲ4尾、ベラ16尾でした。ベラは小型多く、キュウセンは1尾のみ。
バリコは毒針があるので、逃がそうかと思いましたが、個体数が増えると藻場を食荒らし、磯焼けの原因となるらしいので持ち帰ることにしました。
巨像の沈降
・深夜の渋滞
大学を卒業した頃ですからもう40年以上前の話です。
東京からの帰り、東京駅バスターミナルから大阪行きドリーム号に乗車。
11:00過ぎ、出発したバスは、八重洲入口から首都高に入り、渋谷を経由し、用賀にある東京インターから、東名高速を西行するのですが、首都高に入りしばらくするとバスの速度が遅くなりやがて停まってしまいました。
それから、少し進んでまた停まるを繰り返し、渋谷の手前でようやく順調に走行し始めました。なんとこんな深夜に渋滞していたのです。
「異常だ。原因は首都圏の人口が多すぎるからだ」
と、何とも不安な思いがしました。
・南武線の混雑
平成の初め頃、武蔵溝ノ口駅から昼下がりの南武線に乗ると、どの車両もいっぱいでまるでラッシュ時の様な込みようです。
関西では昼下がりの国鉄は大抵ガラガラなので、衝撃を受け、
「これはだめだ、首都圏は人口が多すぎる」
と、やはり不安な気持ちがこみあげてきました。
東京で就職した友人から
「多摩や相模の山奥から私鉄に乗って都心を目指す電車は、始発駅で満員になり都心近くの駅では積み残しが出る」
という実態を聞いたことも。
昭和50年代に上京した折、山手線や京浜東北線の電車が10両もの長尺で走っているのを見て驚愕したものですが、現在は16両に増えています。
・弾丸富士登山
やはり平成の初め頃、友人4人で車に乗り、神戸を出発、交代で運転し、夕方「富士山五合目登山口」の「第3パーキング」に到着、夕方から徹夜で登山し御来光を見て下山、昼前くたくたになって「パーキング」に戻りました。
ところが車の所有者がまだ戻って来ません。おそらく土産屋で品定めをしていて遅れたのでしょう。
仕方なく車の外で待っていると子供連れの見知らぬ男が現れ標準語で、
「車を出されたらそこに入れさせてくれませんか?」
と尋ねます。
「いいけど、車はどこにあるの」
と、聞くと
「300mほど下ったところにある第10パーキングにあるので、すぐに取りに行きます」
と、答えます。遠目に見ると道路沿いに駐車場が何カ所もあり、かなり下のパーキングまで満車状態。
「ドライバーが戻ったらすぐ出しますけど」
男は、頷いて、
「子供に番をさせます」
と言い、
「取りに行っている間に車が出たら、場所取りをしていろ」
と命じて、車を取りに行きました。
首都圏の住民はレジャー先でも混雑に巻き込まれていることに同情ひとしおです。
・巨像の沈降
コロナ禍のニュースの度にスカイツリーを中心とした都心の俯瞰映像が放映されます。
まるでカイガラムシに占領された葉のように、白々とした緑の少ない無機質な町ですが、全国津々浦々から人間を吸い寄せ、人口を増やすことで繁栄を享受してきました。
しかし、小生が度々感じていた「都市の限界を超えた人口」が弊害及ぼす時がコロナ禍とともに到来。
首都圏では、検査体制が整わず、発熱外来もパンクし、救急車のやりくりがつかず、重症病床使用率も上昇、コロナの初期には、東京に行くのを敬遠したり、東京から来た人を忌避したりする状況まで生まれました。
草原を縦横無尽に歩き回り、飽食し、巨大化した像が、コロナの底なし沼にはまり、有利であった重量が不利に転じ、どんどん沈んでいく恐怖を初めて味わっている。
そんなように思えるのですが、いかがでしょう?
今年の初釣行
5月29日(日)晴天、フィッシングマックスのバナナフレーバーアミエビ「楽ちんサビキ」を持って、舞子にマメアジ狙いのサビキ釣に出かけました。
現地につき、釣座を構え、件の餌をチューブから「アミかご」に絞り出すとバナナとアミエビの匂いが合成された吐気を催すほど強烈な悪臭が漂います。
これならかなり集魚効果もあるだろうと期待したのですが、3時間余りで、金魚よりもはるかに小さなマメアジ2尾、イワシ1尾、やせ細った鯖2尾の貧果に終わりました。
例年、海水温の低い5月の初釣行は貧果が多いので、今後に期待しましょう。
好きなバス路線その4 京都市バス5系統 4
宝ヶ池 「修学院離宮道」を過ぎると、高校駅伝(男子)や全国女子駅伝で難所といわれる白川通を越える跨道橋の急勾配の登り降りがあります。
宝ヶ池は江戸時代築造の溜池ですが、周囲は現在公園になっており京都が舞台のサスペンスに度々登場。
またバス停前の「叡電宝ヶ池駅」から乗車すると、終点の「八瀬比叡山口駅」で比叡山上に至るケーブル、ロープウエイに乗り継ぐことができます。
花園橋 坂道を走り続けると国道の分岐点があります。この道は八瀬、大原、葛川、朽木を通り若狭上中に至る古道で、金ケ崎城の戦いで浅井長政の裏切りに会い京都に逃げ帰った織田信長軍団が通った歴史があり、若狭で取れたサバに塩をして一日かけて京都に運んだ「塩鯖街道」としても著名です。
上高野 岩倉大鷺町 さらに坂道を進み、遂に岩倉の高台にたどり着きました。ここの標高は94m、出発地点の京都駅前が28mですから、64mも登ってきたことになります。
岩倉というと「市内中心部で雪が降らないのに大雪だった」「同中心部で雪が解けたのに積雪がまだあった」「岩倉から降りてきたバスの屋根に雪が沢山積もっていた」
などの「寒さ伝説」の要因はこの標高差にあることが分かります。
国際会館駅前 京都国際会館は1966(昭和41年)に開館した日本初の国際会議場で1997年12月の世界温暖化防止京都会議(COP3)、2003年3月世界水フォーラムなど重要な会議が行われています。
また、高校駅伝(男子)や全国女子駅伝の折返し点は、国際会館の進入路に設けられています。
岩倉操車場前 いよいよ終点に着きました。ここから10分ほどかけて幡枝の医院まで歩きます。医院が開設した30年前は葱畑ばかりだったのにずいぶん住宅が増えてきました。
途中にある妙満寺は室町時代創建の古刹ですが、近年、日本で3番目に古い高麗仏画が収蔵品の中に確認されたことが話題になりました。
まとめ 一系統のバス路線の中に重要な史跡、文化財が山のようにあり、もう満腹です。多分、他の系統のバス路線も同様なのでしょう。
都の長い歴史の蓄積には脱帽する以外ありません。
好きなバス路線その4 京都市バス5系統 3
錦林車庫 西側の岡にへばりつくように立地する「京都市バス錦林車庫」は、元は市電の車庫でした。近隣にあるノートルダム学院中学・高校の衣替えは都の歳時記となっています。
浄土寺 浄土寺バス停の近くには浄土寺郵便局があり、随分前に局長がDJを勤めるラジオ番組を聞いた記憶があったので、改めて調べてみると、現在もラジオDJをされているようでした。
銀閣寺道 バス停から東に数分の東山山麓に超有名寺院がありますが、京都市東隣の大津市に25年も住んでいると「いつでも行ける」と足が遠のくせいか、一回しか訪ねたことがありません。
北白川校前 この辺りはバス停ごとに小さなスーパーやドラッグストアがあり、それらを利用する老人達たちの乗り降りが目立ちます。
京都市は市バスの敬老パス負担額が神戸市に比べて大変安く、利用する老人も多いようです。
しかし、市は財政赤字を少しでも返すために料金の値上げを計画しており老人で賑わうバスの光景もあと僅かかも知れません。
北白川別当町 琵琶湖岸の「大津市錦織」から比叡山の山頂近くの「山中町」を通り京都盆地の「北白川」に至る「山中越え」は、山科盆地回りより短時間で近江に移動できる古代から重要道。沿道には200㎏級関取ほどの巨大石造仏が道中の安全を静かに見守っています。
上終町 京都造形芸大前 一般の大学と違う際立つ個性の女子大生がバスを降りてゆきますが、不思議なことに男子学生は地味で個性を感じさせません。
また「上終(かみはて)」は難読地名として有名ですが、確かにこの辺りから沿道に京野菜畑が増え「都の外れ=洛外」に風景が変わります。
一乗寺木ノ本町 一乗寺下り松町 一乗寺清水町 平安時代創建で南北朝時代に廃絶した一乗寺を地名とするバス停が3箇所続きます。西側山麓には曼殊院、圓光寺、金福寺、詩仙堂などの名刹があり、いずれも紅葉の名所として知られています。
一乗寺下り松は昔から著名な街道沿いの松で現在は四代目。その名にちなんだ「一乗寺下り松の決闘」は宮本武蔵の決闘としては「巌流島」とならぶ著名なもので、萬家錦之助主演の武蔵が吉岡一門の総代とされた11歳の少年を最初に斃し、その後、門弟を斬って斬って斬りまくる映画が記憶に残っています。
修学院道 修学院離宮道 修学院は平安時代創建寺院ですが、中世には廃絶し、江戸時代(17世紀)後水尾上皇が跡地に離宮を造営しました。
桂離宮とともに江戸時代を代表する離宮で、その素晴らしい景観を鑑賞したいと思いながらもまだ訪れる機会がありません。
北山通を過ぎ、京都盆地に別れを告げると、バスは北山の高地に向かう坂道を登り始めました。(続く)
『好きなバス路線その4 京都市バス5系統』2
三条京阪前 鴨川沿いの川端通りを南下したバスは高山彦九郎が遥拝する川端三条交差点を右折、今は地下に潜った「京阪三条駅」もかつては、目の前の鴨川堤に建つ風流な駅でした。
ただ「京津線ホーム」のみ平成9年まで地上に残っていて「四宮行普通電車」が恐竜の断末魔の叫び声に似た悲しげな警笛とともに出発してゆくのを度々見かけました。
バス停近くの檀王法林寺には日本最古の招き猫伝説が伝わっているそうです。
東山三条 バスは三条通を東進します。通り北側に建つ有名仕出し店「辻留」の隣は長い間更地でしたが、ようやく建物が建ち始めました。
神宮道 東山通を過ぎ、しばらくして三条通り右折し、神宮道に入ると平安神宮の大鳥居が行く手に見えてきます。
岡崎公園美術館・平安神宮前 疎水を渡り、大鳥居をくぐると、左に国立近代美術館、右に改装された京都市京セラ美術館があります。此処を通る時はいつも、同館の市立美術館時代「エジプトミイラ展」の入場者列が館を二重に取り巻いていたことや印象派展で「印象 日の出」を初めて見たことを思い出します。
岡崎公園・動物園前 平安神宮応天門(正門)前まで進み二条通を右折すると、バス停の右手に京都市動物園の門が見えます。
岡崎法勝寺町 二条通を東に進むと立派な門構えの御屋敷が続く高級住宅地に同バス停はあります。
名前の由来は平安時代末期白河天皇が発願し、造営された「法勝寺」ですが、高さ80mの九重の塔を持つ巨刹も戦国時代には廃絶し、現在山号のみが地名として残っています。
南禅寺・永観堂道 二条通は白川通りに突き当るので、右折するとビッグネーム「南禅寺・永観堂」が並列するバス停があります。残念ながら両寺院ともバス停からかなり離れた場所にあります。
東天王町 バスは北山に向けて白川通を北上し、丸太町通りを越えると、道も4車線に広がります。西側には「法然」が隠棲した草庵が後に浄土宗大本山となった「金戒光明寺」が建ち、その北側には「うなずき弥陀」の異名をもつ、木造阿弥陀如来像が本尊の真如堂があります。
『好きなバス路線その4 京都市バス5系統』1
はじめに
花粉症治療や生活習慣病検査のため年数回訪れる医院が京都市北区幡枝町にあります。
以前は、JR京都駅から地下鉄国際会館駅まで進行し、京都バスに乗換え、医院前の「幡枝バス停」で降りていたのですが、近頃、JR京都駅から医院からやや遠い「岩倉操車場前バス停」まで、洛中・洛外を約1時間15分かけて北上する「5系統バス」の旅を楽しさにすっかりはまってしまい、地下鉄は縁遠くなってしまいました。
「5系統」の路線沿いには神戸と比べ物にならないほど多くの有名寺社、名所旧跡がありますので、バス停ごとのミニ観光案内をいたしましょう。
烏丸七条 JR京都駅烏丸口バスターミナルを出たバスはすぐ左折し、烏丸 通に入り「烏丸七条バス 停」(以下「バス停」省略)に近づくと 左手に東本願寺の巨刹が姿を現します。
烏丸六条 信者が乗り降りする「烏丸六条」を過ぎ「サン・クロレラ」本社ビルが南西角に立つ烏丸 五条交差点を通過。
烏丸五条 5系統の一部はここで右折し、五条通から河原町通りに回りますが、小生のバスはそのまま烏丸通を北上「烏丸松原」の近くには、以前在籍した調査会社の京都支店があり、祇園祭の宵山には窓から「保昌山」のお囃子が聞こえていました
四条烏丸 バスは四条烏丸交差点を曲がり四条通に入ります。この交差点は銀行が軒を並べる京都一の金融センターですが、祇園祭には長刀鉾、函谷鉾、孟宗山が交差点の周りに建つことで注目されています。 四条通を進み、四条河原町を左折し、河原町通を北上「京都市役所前」までがこの系統 一番の繁華街となります。
四条高倉 四条通は歩行者の利便性を考えて車線を一線減らし、歩道を広げたので、渋滞がひどくなると思っていたのですが、以前とあまり変わりません。
四条河原町 四条河原町交差点の東南角には阪急→丸井→エディオンと短い間隔でテナントが変わる落ち着きの悪いビルがあり、交差点を北に曲がり、四条通をかなり北上し蛸薬師に近くまで行ってようやくバス停があります。
河原町三条 店の入れ替わりの激しい河原町通りにあって三条河原町北東角に古書肆「京阪書房」が健在なのは嬉しいことです。
市役所前 河原町御池交差点北西には昭和2年建立クラシックな京都市役所本館があります。長い間耐震改修工事が行われていましたが、ようやく工事が終わり、囲いが外されていました。
同交差点を左折し御池通りを東に進み鴨川を渡ります。春は柳や桜が交互に続く並木に京洛 らしい風情があります。橋の向こうは洛外、路線は有名社寺を行脚するように進んで行きます。(続く)
酒は世につれ
コロナもだいぶん収まったこともあり、グルメ番組で見つけた日本酒バルを標榜する居酒屋の古風なガラス戸を開けて入店すると・・。
入口近くの透明冷蔵ケースには一升瓶が沢山並んでいるのですが、テーブルに着き「保有リスト」を見ると、近年「銘酒居酒屋」から足が遠のいている間に流行が変わったせいか、馴染みの銘柄が見当たりません。
ようやく「手取川」が見つかったので、注文すると女性の給仕が一升瓶とワイングラスを持ってきてほんの少しグラスに注いで戻って行きます。
ワイングラスで日本酒を飲むテレビコマーシャルもあるので驚きはなかったのですが、口をつけた時、思わず「あっ」と声が出ました。
かつての「手取川」とは全く違う桃のリキュールのような甘くフル-ティな味がしたからです。
「手取川」の風味が「フルーツ味」に変わってしまったなら他の銘柄はどうなんよ?
という疑問と、一杯の量が少ないことも相まって、試飲のようにたくさんの銘酒を注文したのですが、どれもこれも「軽くさわやか」で、多寡はあるものの「フルーツ味」を含むものばかりです。
「大将の嗜好によって選ばれたことを考えても時代とともに銘酒の味は変わるもんやなあ」と、感慨にふける内に、ふと遥か来し方のことを思い出しました。
それは昭和50年代のことですから40年以上前、友人といった九州旅行での出来事です・・。
山陽新幹線で朝早く大坂を発ち、午前中に九州に上陸、福岡県内の遺跡を見学し、夕方博多の安宿に着き荷物を降ろすと、早速近くの居酒屋に進行、カウンターに陣取り、生まれて初めて「焼酎の湯割り」を注文しました。
すぐに運ばれてきた湯割りのコップに口をつけると「まるで、輪ゴムを燃やしたような不快な臭い」がします。
あまりのことに飲むのをやめようかなとも思ったのですが、もったいないので、口で息をしながら飲み干しました。
さて、年は流れて、平成の初め頃、社会人となった小生は仕事で博多に出張し、今度は一人で居酒屋へ行き、耳学問で「ロックなら焼酎も臭くない」と聞いていたので、芋焼酎のロックを注文、恐る恐る口をつけると、臭みもなく甘い香りがします。
「これならいけるかも」と2杯目は湯割りを注文しましたが、悪臭は皆無。
念のため大将に「7~8年前に飲んだ湯割りは臭かった」と話すと、「臭い焼酎は昔の話で、最近は臭いものはなかとよ」との答え。
その後、東京で芋焼酎のブームがおこり「村尾」「森伊蔵」「魔王」のいわゆる「3M」の一升瓶に2万円以上の値が付いた頃、仕事で鹿児島に数か月滞在したのを幸いに、地元ならではの安値で三種を飲み比べましたが、いずれも香りよし、味よしで、臭みなし・・。
すっかり、焼酎が気に入った小生は、定年退職するまで、九州出張のたびに、いろいろな銘柄を注文したのですが、臭い焼酎に邂逅したことはありませんでした。
しかし、WEBで調べると昔ながらの臭い焼酎も鹿児島県内には僅かながら残っているそうです。
日本酒にも変わらぬ風味を守り続ける古風な蔵元がありますが、近年は、銘柄に発泡酒を加える蔵も目に付くようになりました。
思い起こせば、小生が成人し、酒が飲めるようになった時期は「灘酒(メジャー)の大海」の中に「地方蔵の手作り酒(マイナー)」がぽつぽつと現れはじめた頃で「越乃寒梅」を代表とする「高級銘酒百花繚乱」の夜明け前のような時代でした。
それから50年近くが経ち、焼酎、日本酒の銘柄も時代に合わせて変化しているのに普段「ぼー」としていて一向に気が付かなかった時代遅れの田夫野人の述懐はここらで終了といたしましょう。