日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
「帰去来の辞」のはずが。
昭和60年に滋賀県守山市に転居し、西大津、大津旧市内を経て今治で現役生活を終え、32年振りに故郷に帰還しました。
今後の生活拠点は神戸になるので、ホームページの表題も替えるべきところですが、南海道での暮らしは生涯忘れえぬほど濃密で、まだまだ書き足りぬことも多いので、表題変更はしばし凍結し、引き続き彼の地の麗しき思い出を綴ってまいりたいと思います。
恵方巻
私の子供の頃(昭和30,40年代)神戸市では「節分に恵方を向き、太巻を丸かぶりする民俗行事」はありませんでした。しかし、いつしか大阪から「丸かぶり」の習慣が徐々に浸透してきて、近年では伊予の僻村にまでその習俗が入ってきました。
「全国的年中行事」の先輩である「バレンタインデー」「ホワイトデー」がチョコレート屋の陰謀、「ハローウィン」が仮装屋の陰謀なら、「恵方巻」は寿司屋の陰謀でコンビニやスーパーが尻馬に乗ってはしゃいでいるように見えます。
太巻きは本来、程よい幅に切り、箸で食べるもので、手にもって丸かぶりするのは見栄えも悪く、上品とは言えません。また、普通のご飯と違い固く巻かれた太巻きは、かぶりついて、噛切るのに力がいるし、飲み込む時、のどに詰めるかもしれません。
正月に雑煮の餅をのどに詰めて病院に搬送される人のことが毎年のように報道されますが、丸かぶり中に太巻きをのどに詰めて救急車の御世話になった人も既にいるのではないでしょうか。
ところで、皆さんはどのイベントが次の「全国的年中行事」に昇格すると思いますか?私は「ディズニー方面」を主な発信源とする「イースター」のイベントが、2、3年中には「ハローウィン」並みにブレイクするような気がするのですが、いかがでしょう?
熊 麻 吉(くま あさきち)って誰?
台湾や中国に滞在する時、現地誌の「漢字のみで書かれた新聞広告」を読み解くことを何よりの楽しみとしています。
添付した写真の映画のタイトルにも、
①漢字の音をあてたもの「柯南(コナン)」②翻訳「蟻人(アントマン)」③音と翻訳の折衷型「侏羅期世界(ジュラシックワールド)」④翻訳を少し強調したもの「魔鬼終結者(ターミネーター)」などいろいろなパターンがあります。ところで、広告の中央にある「熊麻吉2」とはいったい何のことなんでしょう?
まあ、ポスターを見ればわかるように「Ted2」のことなんですが、なぜ「Ted2」が「熊麻吉」なのか?「熊」が名字で「麻吉」が名前でしょうか?いやいや、「熊のプーさん」のように「麻吉」の正体が「熊」なのかも知れません。
そこで、「麻吉」を「麻」と「吉」に分解して考えてみました。まず、「麻」は「麻布」として用いられた例があり、「吉」は「固く引き締める」という意味があるので、「吉」は「詰める」と同義語と解釈し、「麻吉」とは「麻」布に綿を「詰め」たもの=「ぬいぐるみ」
という仮説を導きだしましたが、いかがでしょうか?
こんな苦労をしなくても台湾人の方に聞けば、疑問も一瞬で氷解するんでしょうけどね。
エビフライの下賜
平成の初め頃、宮城県多賀城市の東北歴史資料館で東洋陶磁学会の大会があり、私もはるばる滋賀県から参加しました。
出席者は事前に弁当を予約していて、午前の研究発表が終わると、受付で引換券を出して、弁当を受け取り、食事場所に指定された会議室に集まります。
私も適当な席に座り、蓋を開けておかずをチエックしていると、隣に座った男性が「私はエビフライがあまり好きではないのですが、よかったら食べませんか?」と言われるので、御顔を見るとなんと尾張徳川家二十一代当主の徳川義宣氏でした。
義宣氏は徳川黎明会の会長や徳川美術館館長、東洋陶磁学会会長を務められた有名な陶磁器研究家で、大会にも参加されていたのです。
私は「よろしければいただきます」と言ってエビフライ2個を拝受しました。食事が終わると斜め前に座っていた女性の研究者が「殿様から直々にエビフライをいただくなんて、江戸時代なら大変名誉なことよ。家の誇りよ」と言います。
確かに江戸時代なら私のような軽輩が御三家の御殿様に御目見えして、何かを拝領する機会は絶対ないでしょう。
名古屋人のエビフライ好きはタモリ氏がかってに言っているだけですが、尾張の御殿様がエビフライをあまり御好みにならないとは!当時のことを思い出すと頬が少し緩んでしまいます。
セイタカ君(制多伽童子)とコンガラ君(衿羯羅童子)
この少年2人には彼らの本拠地で2回、旅行先で2回の計4回も対面しています。(※実は2人には他に6人御仲間がいて8人のチーム「八大童子」を結成しているのですが、今回御仲間のことは触れません)
昭和52年、彼らの本拠地「高野山霊宝館」で初めてお会いしましたが、その時の記憶はかなり薄れていて「セイタカ君」は頭にキノコが生えた「キノコの妖精」だとずっと思っていましたし、「コンガラ君」の記憶はまったく残っていません。
2回目は平成の初め頃、盛夏の奈良国立博物館で実施された戦後最大規模の「運慶・快慶展」でした。当日は大変暑い日で、木陰であおむけに寝転んでいる鹿や涼を求めて猿沢の池に浸かっている鹿もいました。
会場に入ると両巨匠の代表作がこれでもかというほど鎮座していましたが、一番印象に残ったのは東大寺の僧形八幡神像で、残念ながら少年たちの記憶はほとんどありません。
3回目は昨年の春、あべのハルカス美術館でした展示の中心が「八大童子」のオープン展示だったので、じっくり対面することが出来ました。意外だったのは背丈が1m程度と思っていたより低かったことです。
4回目はその夏、開創1200年の賑わいの真っただ中の「高野山霊宝館」で、すっかりおなじみになった2人に「よく会うね」と声をかけました。
ところで、「コンガラ君」はおとなしそうな顔をしていますが、やはり気が弱い少年なんだそうです。髪も前やサイドはかなりきつく巻いていますが、後ろは自然な内巻きで、まじめな女子高生のようです。
しかし、背中は素肌に幅広の襷をクロスさせた大胆な装いに、少し腰をくねらせて中々の艶姿をみせています。女人禁制の山中では人気があったでしょう。
「セイタカ君」は「まっかっかなお顔」に「ど派手なヘアスタイル」、「でっかいスカーフ」もきまっています。たぶんおしゃれな「おこりんぼ」なのでしょう。
サビキは魚を狂わせる
今治城の堀は釣り禁止なので外海では逃げ隠れしている魚も人目を気にすることなく悠々と泳いでいますが、中でも多いのがチヌで尺以上を何尾も数えることができます。
堀端のバス停でバスを待っていた時、食べていたパンをちぎってチヌの群れに投げてみました。すると1尾がパンの切れ端に近づいてしばらく見つめていましたが、そのうち鼻で何度かつついた後、咥えるとすぐに吐き出しました。
しばらくしてまた咥えましたが、吐き出します。3回目も咥えて吐き出し、4回目にしてようやく飲み込みました。パンを与えてから5分以上も経過していました。
私は「魚信があったら煙草を一服つけろ」というチヌ釣りの格言を思いました。なるほどチヌ釣りに早合わせは禁物なのです。
10月のある日、サビキ仕掛けで鯵釣りに出かけました。4時過ぎまでは、ぽつぽつだったのに、夕まづめを迎えると突如入れ食いになり、1時間ほどで21尾の五目釣りになりました。
中でも25㎝を超えるのチヌが3号のサビキに喰いついてきたのには、びっくりしました。あの慎重なチヌの同族とは思えない無分別さ、サビキには魚種を問わず魚を狂わせる恐るべき働きがあるようです。