2015年

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

利休は生きていた その(1)-木像の磔-

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 科学の世界ではiPS細胞やらSTAP細胞?やら常識をゆるがす発見が相次いでいますが、文化系も負けてはいません。昨年の「茶の湯文化学会」において文教大学の中村修也教授は「千利休切腹の史料学的研究」という表題で衝撃的な発表を行いました。

 その、内容は「天正十九年(1591)二月二十九日に切腹したといわれている千利休は実は切腹しておらず、姿をくらましただけで、その後も生きていた」という驚くべき展開です。

 中村教授によると「都の公家の天正十九年二月二十五日・二十六日付日記」には「利休の木像が一条戻橋で磔にされたこと」と「利休は逐電(逃げて姿をくらますこと)したこと」のみが記されており、当時都に滞在していた伊達家の家臣が実際に見聞したことを記した手紙にも「大徳寺の山門上にあった利休の木像が秀吉の命により一条戻橋で磔にされた」とあるだけで利休自身切腹の記事はない。逆に「利休が天正十九年二月二十九日に切腹した」と記述するする文書は「信憑性が低い」としています。

 熊谷直実や荒木村重などの著名な武士は逐電しても、後に許されているので逐電した利休も後に許されたかもしれません。

 しかし、太閤の権威に負けず、「こびる」ことも「へつらう」こともなく、最後まで茶の湯の独自性を守り通して切腹したはずの利休が、生きていたとなると歴史が大きく変わります。逐電した利休はいったいどうなったのでしょうか。 (つづく)

釣りを始めた頃

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 小学校2~3年の時、父に須磨海岸に連れて行ってもらったのが始めての釣行でした

 須磨海岸に行くには国鉄灘駅(現JR、当時父は省線と呼んでいました)から電車に乗り須磨駅で降ります。駅は当時としては珍しい橋上駅で、まず北側階段を下り駅前の餌屋でゴカイを猪口に一杯買い、駅に戻り南側の階段を下りると、もうそこは海岸で、適当な場所に行き荷物を下ろし、釣座をつくります。

 仕掛けは、「先端にイチジク型の錘の付いた太い凧糸約1mにハリスが2本付いている」もので、これを頭の上で鎖鎌の分銅のように回し、タイミングを測って、手を離すと、遠心力で遠くに飛んでゆきます。錘が海に落ち着床するとゆっくり手で引き戻しながら魚信をとります。

 最初の頃は、投げ込みは父で私が引っ張るという具合でやっていましたが、その内、父は「6角形に面取りされた木製の投げ竿」と「オリムピック社製のスピニングリール」を買って来て使いだしたので、私は手釣りの仕掛けを譲ってもらい、遠くには飛ばないものの自分で投げ込んでいました。当時は船舶の廃油排出規制が不十分で海岸のあちこちには船が垂れ流した油の塊がありうっかり踏むととるのが大変でした。海水も濁っていてゴミが沢山打ち上げられていました。

 釣果は、朝から夕方まで頑張って十数尾程度で、最も多い魚は体長10~15㎝程の「テンコチ」でした。ぬめりがある上に首にとげがあり、大きな口で針を丸のみしてしまうので、釣れてもあまりうれしくありません。「キス」も小型しか釣れませんが「テンコチ」よりはましです。「カレイ」も10㎝程のミニサイズでしたがめったに釣れないのでかかると大喜びしました。

 父は戦前、祖父から釣りを習ったと言っていました。祖父は晩年、陶芸に打ち込んでおり、私が小学校3年生の時に亡くなったので、一緒に釣りに行ったことはありませんでしたが、私が生まれる前はよく須磨海岸に釣りに行ったそうです。しかし、釣り糸のもつれをほどくのが苦手で、釣行から帰ると「釣りをしているより糸をほどく時間の方が長い」と必ず同じ愚痴を言うので、家族は苦笑していたようです。

 当時の釣糸は昆虫由来のテグス(オオクスサンという蛾の幼虫から取る生糸のようなもの)で「水に漬けるともつれがほどけやすい」言われており、糸を海水に漬けてはもつれをほどいていたのでしょう。

 近年、神戸の海は大阪湾岸の下水道普及が進んだため、吃驚するほどきれいになりましたが、皮肉なことに水中の栄養分の濃度が下がり、漁獲高は減少しつつあります。

鉄道の話(3) エコ列車

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 新年 あけましておめでとうございます。

 12月は、世間の皆様よりはるかにゆったり暮らしている私にしてもそれなりに忙しかったようで、新作アップの間が随分開いてしまいました。久しぶりの拙文です。どうぞ、御笑覧下さい。

 

 先日、民放テレビのワイドショーで「衝突や追突の時、一番前の車両の危険度が高いので、電車はなるべく後ろの車両に乗った方が良いです」などと、のたまわっている交通評論家がいました。

 予讃線の昼間の「普通電車」や「普通気動車」は、大抵「1両編成ワンマン運転」なので、評論家氏の言う通りなら、列車の後ろにぶら下がればいいのでしょうか?こういう場合「(東京で)電車に乗るときは・・・・」と地域を限定して発言すべきで、とにかく都会中心の話しかできない人は困ったものです。

 なお、都会の人たちに申し上げますと「1両ワンマン普通」が「無人駅」に停車した時、乗客は「1両目後方の扉」から乗車し、整理券を取ります。目的駅に着くと運転手に乗車賃を払い、その「横の扉」から下車します。たまに走っている「2、3両編成の普通電車(気動車)」でも無人駅に停車する場合「1両目」の扉しか開閉しないので御注意下さい。

 さて、予讃線では夜更けになると驚くべき「普通電車(気動車)」が運行されます。なんと先頭車の車内灯だけ点灯し、後続車両は真っ暗なのです。そして、2両目への連絡通路は固く閉じられています。なぜこんな電車を走らせているのでしょうか?その理由として以下のことがあげられます。

①夜更けになると、翌朝のラッシュに備えるため車庫のある始発駅に車両を移動させる必要があるが、予讃線では夕方のラッシュ時以降、運行本数がぐっと減るので、始発駅に向かう「普通電車(気動車)」は必然的に多数連結車になる。

②夜更けなので、乗客は少なく、昼間と同じ1両で十分対応できる。

③2両以下を点灯・使用すると、照明の寿命が短くなり、床や座席も汚れるので、余分な車両はシャットアウトし、1両だけの使用で運行した方が合理的である。

 そんなわけで、「エコ列車」は今日も夜更けの伊予路をひっそりと走り続けています。

 

 

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