堺市の思い出(1)

 大阪市内をJR阪和線や南海電車で南へ行くと大和川を渡り堺市に入ります。車のナンバーも「なにわ」から「和泉」になり、土地柄や方言も変わります。

 私は昭和56年に大学を卒業し、大学の先輩のいた滋賀県の埋蔵文化財発掘調査現場でバイト暮らしをしていましたが、翌年、短慮(これはいまだに治りません)が原因で現場から逐電し、逼塞していました。丁度その頃、堺市埋文にいた知人から電話があり、身の上話をしたところ、氏の紹介で堺市埋文のバイトに採用してもらうことになりました。

 最初は泉北ニュータウンにあった堺市教育委員会文化財課福泉分室に、実家から通い整理調査を手伝いました。翌年度には嘱託に採用され、昭和59年度末まで3年弱堺市に在籍しましたが、発掘現場担当、現説、発掘調査報告書作成はこの間に初めて体験しました。遺物実測技術を身につけたのも、自身の研究テーマを決めてカード作りに没入したのもこの頃です。

 堺市内には、メジャー級の四大遺跡(四ツ池遺跡、百舌鳥古墳群、陶邑古窯跡群、堺環濠都市遺跡)がありますが、当時は特に堺環濠都市遺跡の発掘調査が盛んでした。私はなんの変哲もない街の下から大量に出土する中国・朝鮮の輸入陶磁器や国産の唐津、楽、黄瀬戸、織部、志野などの「芸術的な陶磁器」にすっかり魅せられてしまいました。「陶磁器好き」はいまだに続いており、出土陶磁器を見ると実測したくなります。

 浮沈が激しく、回り道や混乱の多い私の人生ですが、埋蔵文化財調査の原点は堺にあったことは間違いないでしょう。