月釜(つきがま)の正客 (その1)

-今回は茶の湯の話なので、未経験の方のために専門用語に註を付けました-

 平成元年頃の話です。実家の近所に住んでいる知合いのOLさんから「御茶の先生が近くの神社の茶席で月釜(つきがま)を掛ける(註1)ので来てほしい、切符はただであげる」との誘いを受けました。当時、私はOLさんが通っている教室とは違う「茶の湯教室」に入門したばかりの初心者で、稽古に悪戦苦闘しており、本番の茶会はうんと先だと思っていたので、「月釜」と言う言葉にぐっと魅かれて出かけることにしました。「月釜」は「大寄せ」(註2で行われるので、当日、待合(註3に居合わせた人がその場で話し合って席順を決めます。しかし、このシステムこそが私の悲劇の原因になったのです・・・。

 さて、当日、玄関で案内をしていたOLさんに挨拶をして、受付で切符を渡すと、待合に指定された「控の間」に案内されました。そこにはいかにも茶の湯キャリアが長そうな、和服の中年女性7人が輪になって座わり、小声で「正客(しょうきゃく)」(註4の譲り合いをしています。私は輪から少離れて座りました。

 しばらくすると、受付の人が来て「前席が終わり近づきましたが、新たな御客様はは来られませんので、御席入りは8人でお願いします」と告げました。その途端、7人が一斉に私の方を向き「男の方が一人やから御正客お願いします」と言いだしました。

 私はびっくりして「私は茶を始めてまだ1年たたないんです。絶対無理です」と答えて、一番近くの人に「ぜひ御正客をお願いします」と頼みましたが、「いえいえ私はこのとおり腱鞘炎でございます。茶碗を落とすかもしれませんので、あきません」と包帯をした両手を突き出して見せ、他の人も「急な用事で中座するかもしれまへん」「今日は頭痛で」「風邪で」「あわてもので」などと口々に逃げ口上を述べたてます。

 その時でした、逃げ口上を言わなかった一番若い人が意を決した声で「私は大寄せで正客を2回続けてやりましたので、今回はお詰め(おつめ)(註5をやらせてもらいたいと思います」と発言しました。6人は急に黙って目を見合わせ、うなずき合ったところをみると発言者の「御詰め」就任はを認められたようです。

 そうこうするうちに、先席が終了し、御客がぞろぞろ退出してきましたが、正客はまだ決まりません。すると先ほど「頭痛で」と言っていた人がこちらへ来て「私が次客となってしっかりアドバイスするから頼むから御正客をやって下さい」と何度も頭を下げます。私は「どうかご勘弁を」と繰り返し辞退しましたが、今度は全員でこちらを向いて「御正客を」「「御正客を」の大合唱が始まりました。

 OLさんに助けを求めようと部屋の入り口から玄関周りを見回したのですが、肝心の時に姿がありません。時間は刻々過ぎていきます。とうとう大合唱に根負けして、「もうどうでもええわ、恥かいても」と思い、「私がやります」と宣言、正客で席入りすることが決まりました。(続く)

 

註1 寺や神社、公共施設などに付属する茶席で、定期的に行われる茶会のこと。「茶の湯」の一般普及が本来の開催理由ですが、実際、訪れるのは入門している人がほとんどです。亭主は抹茶各流派(表・裏千家、遠州流など)の先生が当番で行うことが多いのですが、煎茶の先生が亭主を行うこともあります。なお、亭主になって月釜を実施することを「月釜を掛ける」と言います。

註2 「広間を茶席とし、御菓子と薄茶一服が供される」という簡単な形式で行われる茶会のことです。参加希望者は事前に数百円の切符を買って、当日実施時間内に会場に出向きます。御客が一定の人数になると入室(席入り)して御茶をいただきます。切符を持った人が次々に来るので一日に何回も茶が点てられます。

註3 本来は席入前や中立(前席と後席の間)の時間を過ごす茶室とは別の施設の事をいいますが、「大寄せ」の場合、茶席と同じ建物の「控の間」を便宜的に「待合」として使うことが多いのです。

註4 茶席で最も上座(亭主の近く)に座る客のことで、客側のリーダーとして亭主の手前に作法通り対応し、タイミングに合わせて挨拶をしたり、茶道具や掛軸、茶花の名前や由緒を聞いたりする大変難しい役どころで、熟練者が行います。

註5 茶室で一番末席に座る客のことで御茶碗・菓子器を返したり、入口の開け閉めをしたりします。正客ほどではないのですが面倒な役どころです。