時雨を急ぐ紅葉狩り

 中学校の時、国語の授業で初めて接した古文テキストは謡曲「紅葉狩」でした。冒頭の謡「時雨を急ぐ紅葉狩り」の一文が気に入り、舞台となった信州戸隠に行って時雨に煙る紅葉をぜひ見たいと思いながら、実現しないまま不惑を走り抜け、知命を少し過ぎた頃、秋の白川郷を訪れる機会がありました。

 当日は朝からしぐれていたので「もしかしたらあの謡のような景色が見られるかもしれない」と期待しつつ、紅葉の名所「白山スーパー林道栂の木台駐車場」まで車を走らせました。到着すると早速展望台に行ったのですが、時雨が霧雨に変わったため全く眺望がききません。

 少しでも景色が見えないかと目を凝らして下を眺めていると、突然強風がおこり、霧が吹き上がってきて、あっという間に展望台全体を包んでしまいました。駐車場の車どころか、近くにいた人の姿も見えなくなったので、動くに動けず、不安なまま立ちつくしていました。

 そのまま長い時間がたったような気がしましたが、実際は4・5分くらい過ぎた頃でしょうか、風に乗った霧が上空に抜け去ると、錦繍というにふさわしい見事に紅葉した山々が目の前に浮かび上がってきたのです。

 ああ、これこそが私が何年も「見たい、見たい」と願っていた本当の「時雨を急ぐ紅葉狩り」でした。今まで各地の紅葉に見とれたことはあります。しかし魂を揺さぶられるほど感動したのはこの時が初めてで、私にとって一生忘れることのできない体験となりました。