行幸啓の話 (その1)

・端 緒

 平成4年11月、旧蒲生郡安土町に「滋賀県立安土城考古博物館」がオープンしましたが、「運営」は「滋賀県教育委員会の外郭団体」が受託していて、「外郭団体」職員だった小生も同年度当該館に異動し、生まれて初めての博物館業務に取り組んでいました。

 開館記念行事も一段落つき、運営もペースに乗ってきた平成6年正月4日の「年頭式」で館長が「秋に行幸啓があるので、館員一同しっかり準備して、万事遺漏のないように」と興奮と喜びにあふれた顔で訓示したのです。

 小生は「天皇・皇后両陛下」がお出かけになることを「行幸」と言うと思っていましたが「行幸」とは「天皇」が御所を離れる時だけに使い「皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫」のお出かけは「行啓」という言葉をあてるため、天皇・皇后両陛下御揃いでのお出かけは、「行幸啓」という合成語を用いることをこの時初めて知った次第です。

 残念なことに件の館長は同年3月の人事異動で福祉施設に転出することが決まり「天皇・皇后両陛下に館内を御案内する栄誉」は儚く消えてしまいました。替わって着任した新館長は万事冷静な人で、行幸に向けての関連部局との打ち合わせや実地検証等の業務を自然体で淡々とこなしていました。

・準 備1

 秋になり「行幸啓日程」の公式発表が行われ、県内視察は10月26日から28日までの3日間で、博物館視察は2日目の27日午前中があてられることが周知されました。

 博物館の構内や沿道の清掃が盛んに行われ「行幸啓前日・当日」の「館長から平職員まで全員の業務分担」や「人員配置」も決定、主管課の県教育委員会文化財保護課や安土町役場の職員も参加する打ち合わせが何度も行われ、両陛下を御先導・展示解説を担当する館長も閑散時間を見計らって練習に励んでいます。

 「行幸啓」の1週間前になるといよいよ準備も本格化してきました。職員が退館する時には必ず守衛室のガードマンに声をかけ、その後職員駐車場の出入口に設置した「赤外線センサー」を職員が運転する「車や自転車」が横切る時、センサーが反応し、守衛室に設置した「ブザー」が鳴ることで、「職員が確実に構外へ出たこと」をチェックできるシステムが導入されました。

 主要道から分岐して水田の中を博物館の正門まで伸びてくる町道の両側には花が植えられたプランターが数メートルおきに置かれました。これは沿道の人垣が車道にはみ出さないための境界線代わりになるものです。

 県警の機動隊は博物館のすぐ近くにそびえる観音寺山と安土山の山狩りを始めました。3日前になると、全国各地から窓に鉄網のついたバスが何台も駐車場に到着し、降り立った各地の機動隊員も山狩りに加わりました。

 鑑識の腕章を巻いた警察官も数名やってきました。その中にひときわ背の低い女性が混じっていて、ベテラン課員は「彼女は滋賀県警で一番背の低い婦人警官ですわ。でもぴったりの仕事があるんです」と言い、マンホール内部のチェックを命令しました。

 構内は電柱がなく水道、下水管に加えて電線、電話線も地中下されていて、大小様々な点検・修理用のマンホールがあります。彼女はかなり小さなマンホールでも蓋を開け潜り込んで行き、しばらくして「ほこり」や「クモの巣まみれ」になって出てくると「最奥部まで行きましたが異常ありません」と報告、確認済のものは「蓋を少しでも動かすと色が変わる特殊なテープ」で封印します。

 20個以上のマンホールに出たり入ったりする姿はモグラのようでしたが、翌日は警察犬を連れて構内を回っていたので警察犬の係もやっているようです。