日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
阪神タイガースの歌(その1)
小生の中学校の副読本「神戸の産業」には、代表的な地場産業として「海運業」「造船業」「製鉄業」「ケミカルシューズ(人工皮革を用いた安価な靴)」「灘五郷の酒造り」の5つが記載されていて、その内の「酒造り」の項の「灘五郷が酒造りに適している」の理由としては、
①神戸市の北西に接する吉川町で日本一の酒米「山田錦」を作っている。
②ミネラル豊富で造醸に適した地下水「宮水」がある。
③高い技術を持つ職人集団「丹波杜氏」が伝統的な酒造りをしている。
④冬場、六甲山地から吹き降ろす寒風「六甲颪」が酒蔵を冷やし、酒造りに最適な環境になる。
の4つがあげられていました。この4項目は「酒蔵見物」の折案内人が必ず話す「定番」にもなっています。
さて、このことを思い出すと必ず湧いてくるのは、
「六甲颪は野球のシーズンオフである冬場に吹く風なのになぜ阪神タイガースの球団歌に採り入られているのか?」
という疑問です。
「これはストーブリーグの歌ではないか?」と考えていた時期もありました。昭和40年代、50年代のタイガースは、キャンプ、オープン戦では、そこそこ期待を持たせておきながら、公式戦に入ると「猫トラ」に変身、夏休みごろには「仔猫ちゃん」になってファンの期待を裏切る上、不祥事や内紛の多いすさんだチームでしたが、「ストーブリーグ」の頃になるとトレードがらみの特ダネがたびたびスポーツ紙の一面を飾り、シーズン中よりも目立っていたからです。
しかし、どうも判然としないまま月日が過ぎていったのですが、最近読んだ、気象の本の「六甲颪」の説明
「六甲颪」とは季節を問わず六甲山地から吹き降ろす強風のことであり、昭和57年、台風18号の通過時に吹いた「六甲颪」により、釣り船が転覆し、たくさんの街路樹が倒れた。
を読んで、「六甲颪」を正しく認識することが出来、長年の疑問も氷解しました。
そして、新たな認識のもとで改めて「球団歌」の歌詞を読むと、とてつもない強風である「六甲颪」に負けず颯爽と蒼天を翔る「日輪」こそがタイガースの象徴であることが分かったのです。
しかし、そうなると、「六甲颪」は「日輪」を妨げる敵なのですから、これを「球団歌の通称」とすることは「仮面ライダーのテーマソング」を「ショッカーの歌」というようなもので実態に合っていません。
「赤城の子守歌」や「人生劇場」等の名曲を作詞した大作曲家佐藤惣之助氏が「虎戦士」を「日輪」になぞらえ作詞したのですから、通称も「日輪」「日輪の戦士」「日輪の猛虎」などと呼ぶのが適当ではないでしょうか?
ところで、昭和20年代には「金星スターズ」や「大映スターズ」という「スター(恒星)」を名前に冠したチームがありました。「恒星」には「超新星」や「巨星」など「日輪」以上の大物が含まれますので、「日輪の猛虎」も名前負けしていたのですが、平成28年現在のプロ野球チームに「日輪」以上にパワーのある名前や愛称を持つチームはありません。と、思っていたらそうそう「ベイスターズ」がありました。しかし、「星」と言っても「湾の星(ヒトデ)」のようですから、「日輪」の敵ではなさそうです。(続く)
阪神タイガースの歌
一、六甲颪(ろっこうおろし)に 颯爽(さっそう)と
蒼天翔(そうてんか)ける日輪(にちりん)の
青春(せいしゅん)の覇気(はき) 美(うるわ)しく
輝(かがや)く我(わ)が名(な)ぞ 阪神(はんしん)タイガース
オウ オウ オウオウ 阪神(はんしん)タイガース
フレ フレフレフレ
二、闘志溌剌(とうしはつらつ) 起(た)つや今(いま)
熱血既(ねっけつすで)に 敵(てき)を衝(つ)く
獣王(じゅうおう)の意気(いき) 高(たか)らかに
無敵(むてき)の我等(われら)ぞ 阪神(はんしん)タイガース
オウ オウ オウオウ 阪神(はんしん)タイガース
フレ フレフレフレ
三、鉄腕強打(てつわんきょうだ) 幾千度(いくちた)び
鍛(きた)えてここに 甲子園(こうしえん)
勝利(しょうり)に燃(も)ゆる 栄冠(えいかん)は
輝(かがや)く我等(われら)ぞ 阪神(はんしん)タイガース
オウ オウ オウオウ 阪神(はんしん)タイガース
フレ フレフレフレ
ギザミ釣り(その3)
夏になり海水温が上がると、ギザミの活性も上昇、クイも立ってきて、時折50尾を超える大釣りもするようになりました。
竿は細身の寒バエ用なので、15㎝級でも中々水面まで上がってきませんし、25㎝以上の「磯ギザミ」がかかると満月のようにしなり、ギュンギュン糸鳴りがしてすごい迫力です。
こんなに面白い釣りなのにギザミを専門に狙う釣師は防波堤では小生だけ。大釣りしたポイントでも、翌週には魚が集まって来ていて、竿を出すと大漁ということも多々ありました。
とはいっても、やはり日によっては、魚信が遠く14~5尾で納竿することもあります。その日もクイが渋くギザミが中々針に乗らず、いつもはきれいになめとってゆく餌も少しかじって半分以上残していくような有様でした。
気分を変えようと早めにお昼のパンを食べて、新しい餌をつけて仕掛けを投じました。ゆらゆら沈んでゆく目印を見ていると手のひらにほんのわずかな違和感があったので、思い切ってカラ合わせしてみるとがっちりと魚が乗った手ごたえがあり、釣り上げると見事に「上口浅め」に針がかりしています。
この時は全身の力が抜けてしまうくらいの脱力感と落涙しそうなほどの感動を同時に覚え、「これこそ脈釣りの醍醐味だ」と叫びたくなりました。
小学生から釣りを始め、いろいろな釣りにチャレンジしましたが、ギザミ釣りを超えるほどの釣趣がある釣りはありません。この釣りを体験しただけでも今治に来た価値は十分あったと思います。(終わり)
ギザミ釣り(その2)
次の釣行では「寒ハエ」釣りに使う針「袖の2号」を使ってみましたが、全体の形が丸く、丈が短いため飲み込まれるか、喰い切られるかで、一針一尾以下という惨状。かといって「キツネの1号」に戻すと相変わらずの低率です。
ところが、ある日釣具屋で「サヨリの3号」という針を偶然見つけました。これは、ギザミ同様口の小さなサヨリ用で「袖の2号」より丈が長く細長い形をしています。硬度は「キツネの一号」よりも低く、曲がりやすいのですが、使ってみると、意外なことにその特徴がギザミの喰いつきをよくするようで、一挙に確率があがり、餌を取り放題だった「15㎝以下級」もうまくあわせると針に乗ってくるようになりました。
しかし、これで毎回大釣りかというとそういうわけにはいきません。油断して「あわせのタイミング」がほんの少しでも遅れると見事に餌をなめとってゆきますし、潮流や時刻、気温、日照、タナによって刻々と変わり、その日の「タイミング」が次回で通じることはまずありません。まったくもって、厄介な魚ですが、それゆえに釣趣は格別で、毎回ファイトを掻き立てられる相手でもあります。(その3に続く)
ギザミ釣り(その1)
「ベラ」のことを今治では「ギザミ」といます。今治港で釣れるのは「青、赤」の2種と石畳文様の「磯ギザミ」です。これらの口吻は小さいうえに上下の歯が突き出していることから、エサ取りが天才的にうまくチヌ釣りなどでは外道の代表として知られています。
今治に移住して初めて港の防波堤に釣行した時、釣れる魚種も仕掛けも分からなかったので、とりあえずキス狙いの投げ釣り仕掛けを遠くまで飛ばして引き釣りの開始しました。ところが、魚信もないままに餌をとられてしまい、たまに釣れても「キザミ」か「磯ギザミ」ばかりです。「それなら、これでどうだ」と針を「キツネ1号」に替えると少しは針に乗る回数が増えました。
そのうち投げそこなって近くに落ちた仕掛けにも「ギザミ」がかかったので、天秤をガン玉に替えて堤防の近くを探ぐると魚信があります。さらに足元でも魚信があるので、次の釣行では「6.4mの渓流竿」と浮釣り仕掛けを持参しました。
6.4mというと随分長い「渓流竿」と思われるでしょうが、関西では「寒ハエ釣り」といって冬場に川に立ちこんで「ハエ(オイカワ)」を釣ることが盛んに行われていて、その専用竿です。
防波堤は高く、電線もないので、丁度いい具合に竿を振れるのですが、クイがたってくると仕掛けを投入して「浮」が立つ前に餌をとられてしまいます。「これはだめだ」と思いカミツブシを大きくして「浮」を目印に替え脈釣りを始めました。
しかし、相手は名うてのエサ取りです「キツネの1号」をもってしても4~5回に1回しか針に乗りません。仕掛けの細かい調整を行うのですが、捕獲率が一向にあがらず、ストレスが溜まるばかりです。(その2に続く)
「帰去来の辞」のはずが。
昭和60年に滋賀県守山市に転居し、西大津、大津旧市内を経て今治で現役生活を終え、32年振りに故郷に帰還しました。
今後の生活拠点は神戸になるので、ホームページの表題も替えるべきところですが、南海道での暮らしは生涯忘れえぬほど濃密で、まだまだ書き足りぬことも多いので、表題変更はしばし凍結し、引き続き彼の地の麗しき思い出を綴ってまいりたいと思います。
恵方巻
私の子供の頃(昭和30,40年代)神戸市では「節分に恵方を向き、太巻を丸かぶりする民俗行事」はありませんでした。しかし、いつしか大阪から「丸かぶり」の習慣が徐々に浸透してきて、近年では伊予の僻村にまでその習俗が入ってきました。
「全国的年中行事」の先輩である「バレンタインデー」「ホワイトデー」がチョコレート屋の陰謀、「ハローウィン」が仮装屋の陰謀なら、「恵方巻」は寿司屋の陰謀でコンビニやスーパーが尻馬に乗ってはしゃいでいるように見えます。
太巻きは本来、程よい幅に切り、箸で食べるもので、手にもって丸かぶりするのは見栄えも悪く、上品とは言えません。また、普通のご飯と違い固く巻かれた太巻きは、かぶりついて、噛切るのに力がいるし、飲み込む時、のどに詰めるかもしれません。
正月に雑煮の餅をのどに詰めて病院に搬送される人のことが毎年のように報道されますが、丸かぶり中に太巻きをのどに詰めて救急車の御世話になった人も既にいるのではないでしょうか。
ところで、皆さんはどのイベントが次の「全国的年中行事」に昇格すると思いますか?私は「ディズニー方面」を主な発信源とする「イースター」のイベントが、2、3年中には「ハローウィン」並みにブレイクするような気がするのですが、いかがでしょう?
熊 麻 吉(くま あさきち)って誰?
台湾や中国に滞在する時、現地誌の「漢字のみで書かれた新聞広告」を読み解くことを何よりの楽しみとしています。
添付した写真の映画のタイトルにも、
①漢字の音をあてたもの「柯南(コナン)」②翻訳「蟻人(アントマン)」③音と翻訳の折衷型「侏羅期世界(ジュラシックワールド)」④翻訳を少し強調したもの「魔鬼終結者(ターミネーター)」などいろいろなパターンがあります。ところで、広告の中央にある「熊麻吉2」とはいったい何のことなんでしょう?
まあ、ポスターを見ればわかるように「Ted2」のことなんですが、なぜ「Ted2」が「熊麻吉」なのか?「熊」が名字で「麻吉」が名前でしょうか?いやいや、「熊のプーさん」のように「麻吉」の正体が「熊」なのかも知れません。
そこで、「麻吉」を「麻」と「吉」に分解して考えてみました。まず、「麻」は「麻布」として用いられた例があり、「吉」は「固く引き締める」という意味があるので、「吉」は「詰める」と同義語と解釈し、「麻吉」とは「麻」布に綿を「詰め」たもの=「ぬいぐるみ」
という仮説を導きだしましたが、いかがでしょうか?
こんな苦労をしなくても台湾人の方に聞けば、疑問も一瞬で氷解するんでしょうけどね。
エビフライの下賜
平成の初め頃、宮城県多賀城市の東北歴史資料館で東洋陶磁学会の大会があり、私もはるばる滋賀県から参加しました。
出席者は事前に弁当を予約していて、午前の研究発表が終わると、受付で引換券を出して、弁当を受け取り、食事場所に指定された会議室に集まります。
私も適当な席に座り、蓋を開けておかずをチエックしていると、隣に座った男性が「私はエビフライがあまり好きではないのですが、よかったら食べませんか?」と言われるので、御顔を見るとなんと尾張徳川家二十一代当主の徳川義宣氏でした。
義宣氏は徳川黎明会の会長や徳川美術館館長、東洋陶磁学会会長を務められた有名な陶磁器研究家で、大会にも参加されていたのです。
私は「よろしければいただきます」と言ってエビフライ2個を拝受しました。食事が終わると斜め前に座っていた女性の研究者が「殿様から直々にエビフライをいただくなんて、江戸時代なら大変名誉なことよ。家の誇りよ」と言います。
確かに江戸時代なら私のような軽輩が御三家の御殿様に御目見えして、何かを拝領する機会は絶対ないでしょう。
名古屋人のエビフライ好きはタモリ氏がかってに言っているだけですが、尾張の御殿様がエビフライをあまり御好みにならないとは!当時のことを思い出すと頬が少し緩んでしまいます。
セイタカ君(制多伽童子)とコンガラ君(衿羯羅童子)
この少年2人には彼らの本拠地で2回、旅行先で2回の計4回も対面しています。(※実は2人には他に6人御仲間がいて8人のチーム「八大童子」を結成しているのですが、今回御仲間のことは触れません)
昭和52年、彼らの本拠地「高野山霊宝館」で初めてお会いしましたが、その時の記憶はかなり薄れていて「セイタカ君」は頭にキノコが生えた「キノコの妖精」だとずっと思っていましたし、「コンガラ君」の記憶はまったく残っていません。
2回目は平成の初め頃、盛夏の奈良国立博物館で実施された戦後最大規模の「運慶・快慶展」でした。当日は大変暑い日で、木陰であおむけに寝転んでいる鹿や涼を求めて猿沢の池に浸かっている鹿もいました。
会場に入ると両巨匠の代表作がこれでもかというほど鎮座していましたが、一番印象に残ったのは東大寺の僧形八幡神像で、残念ながら少年たちの記憶はほとんどありません。
3回目は昨年の春、あべのハルカス美術館でした展示の中心が「八大童子」のオープン展示だったので、じっくり対面することが出来ました。意外だったのは背丈が1m程度と思っていたより低かったことです。
4回目はその夏、開創1200年の賑わいの真っただ中の「高野山霊宝館」で、すっかりおなじみになった2人に「よく会うね」と声をかけました。
ところで、「コンガラ君」はおとなしそうな顔をしていますが、やはり気が弱い少年なんだそうです。髪も前やサイドはかなりきつく巻いていますが、後ろは自然な内巻きで、まじめな女子高生のようです。
しかし、背中は素肌に幅広の襷をクロスさせた大胆な装いに、少し腰をくねらせて中々の艶姿をみせています。女人禁制の山中では人気があったでしょう。
「セイタカ君」は「まっかっかなお顔」に「ど派手なヘアスタイル」、「でっかいスカーフ」もきまっています。たぶんおしゃれな「おこりんぼ」なのでしょう。
サビキは魚を狂わせる
今治城の堀は釣り禁止なので外海では逃げ隠れしている魚も人目を気にすることなく悠々と泳いでいますが、中でも多いのがチヌで尺以上を何尾も数えることができます。
堀端のバス停でバスを待っていた時、食べていたパンをちぎってチヌの群れに投げてみました。すると1尾がパンの切れ端に近づいてしばらく見つめていましたが、そのうち鼻で何度かつついた後、咥えるとすぐに吐き出しました。
しばらくしてまた咥えましたが、吐き出します。3回目も咥えて吐き出し、4回目にしてようやく飲み込みました。パンを与えてから5分以上も経過していました。
私は「魚信があったら煙草を一服つけろ」というチヌ釣りの格言を思いました。なるほどチヌ釣りに早合わせは禁物なのです。
10月のある日、サビキ仕掛けで鯵釣りに出かけました。4時過ぎまでは、ぽつぽつだったのに、夕まづめを迎えると突如入れ食いになり、1時間ほどで21尾の五目釣りになりました。
中でも25㎝を超えるのチヌが3号のサビキに喰いついてきたのには、びっくりしました。あの慎重なチヌの同族とは思えない無分別さ、サビキには魚種を問わず魚を狂わせる恐るべき働きがあるようです。