日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
愛媛の生活(4) 今治の食材(魚介類編)
海のない滋賀県から今治に来ると来島海峡に面した港町今治の海の幸の種類の多さには圧倒されるものがあります。その中で私が選んだ「ベストファイブ」を紹介します。
第5位「耳烏賊」胴が短く上の方に耳が付いている烏賊です。他の烏賊にはある板のような背骨がないので、さばくのに手間ががかかりません。煮ものや炒めもので美味しく食べることが出来ます。
第4位「鯛」来島海峡の急流にもまれた鯛は身がしまり、明石鯛や鳴門鯛などのブランド鯛に匹敵する美味しさです。
第3位「さわら」塩焼きは幕の内弁当の定番ですが、当地では刺身でも食べます。春の魚と言われますが、1・2月の「寒さわら」は、脂がのって味も濃く「白いトロ」と言っても過言ではありません。
第2位「太く長い鱧」なじみの居酒屋の親父の話では子供の頃、当地では鱧を食べる習慣はなく、現在も今治近辺で取れる鱧の95%は関西に出荷されるそうです。関西向けの鱧は(特に京料理の場合は)一切れが御椀に丁度入るぐらの小ぶりなものが喜ばれ、1.5m近くある太い大きな鱧は地元で消費されます。ところがこれが美味いのです。小ぶりな鱧に比べ、身の弾力が強く、コラーゲンもたっぷりで、食べ応えがあります。
第1位「まながつお」一般的には、みそ漬けを焼いて食べることが多いのですが、今治では生きのよいものは刺身で食べます。薄黄色のきれいな身で、とろけるように柔らかく、上品な甘さがあり、刺身の王者と言ってもよいでしょう。
どうです皆さん、食べたくなってきたでしょう。
恐怖の質問タイム
滋賀県の外郭団体の発掘調査部門や博物館部門にいた頃、小学生が遺跡や博物館の見学に来ると、職員の説明を一通り聞いた後、たいてい「質問タイム」があります。予どもゆえの先入観のなさと純粋さで物事の本質に迫るような厳しいことを聞いてくるので、答えに詰まり立ち往生することも多く、何時も早く終わればいいのにと思っていました。
湖北地方の山の中で古墳の発掘調査をしていた時です、小学生5・6人が先生に引率されて見学に来ました。古墳全体や出土土器の説明が終わると案の定「質問タイム」の始まりです。最初の質問「なぜ古墳は山の中にあるのですか?」で早くもしどろもどろになってきました。「平地は家や田んぼにするために山の中に古墳をつくります」「石室を作る大きな石が山には多いから・・・」とか、説明しながらどんどん自信がなくなって行くのが分かります。しかし、その後は「邪馬台国はどこにあるのか?」「埴輪の起源」などと、何とかかわせる質問だったので気持ちも落ち着いてきました。
しかし、私の日頃の行いが悪いからでしょうか、やっぱり、最後の男の子の口から出たのです。
「古墳はなぜ盛り上がっているのですか?」
聞いた瞬間、頭の中が真っ白になりました。「ああ、君、それを言ったら、もうおしまいや。‐古墳がなぜ盛り上がっているか?‐やて、その研究に取り組んだ考古学者が何人いると思うんや。でも、いまだ定説はないんよ。1000年に一人生まれてくるかもしれない天才考古学者でもその質問には的確に答えられへんわ。わーん(泣)」
質問の衝撃のあまりの大きさに「なんと答えたのか」だけではなく、「その日のその後の記憶」まで吹っ飛んで、消えてしまいました。これが私の経験した最も恐ろしい質問です。
最近の若者は海外に行かない?
3年前、会社で台湾に慰安旅行に行くことになり、参加者のパスポート所持の確認が行われました。すると所持者は40代以上の小父さん社員、小母さん社員ばかりで、「20代の社員のほとんどがパスポートを持っていない」=「外国に行ったことがない」という現実を知り、改めて驚きました。そういえば、最近結婚した若い同僚も新婚旅行先は国内でした。
私の頭が大量の毛で覆われていた昭和の終わりから平成の初め頃は、円高による工場移転やバブル景気による海外投資の拡大により、メーカーも商社も怒涛のように海外に進出しました。私の同級生で外国の支店や工場の駐在員になった人も多くいます。そうした時代の雰囲気に後押しされ多くの若者が日本を抜け出しましたし、新婚旅行先もほとんどが海外でした。
しかし、私は「今の若いもんはみんな内向きになりおって」と現状を悲憤慷慨するつもりは全くありません。「みんなが行くから自分も行こう」とばかりに大量出国した時代と比べると、今、そんな熱気はありませんが、きちんとした目的意識を持って海外に行く若者はいつの時代でもちゃんといるからです。
そして、中島みゆきの名曲「時代」の歌詞のように時代は回り、巡るものです。今の若者たちが老人になる頃は、怒涛のような海外進出が復活し、誰もが海外に新婚旅行に行く時代になっているかもしれません。
トトロと纏向遺跡
考古学を学んだ人や遺跡発掘に携わる人に「トトロ」好きが多いのは、サツキとメイの父親が大学の考古学研究室に勤めていることに親近感が湧くからではないでしょうか? 私も毎年のように放映されるテレビ放映は必ず見ます。
さて、姉妹の父親は沢山の専門書を持っていて、それらは度々画面に登場しますが、その中でも一番気になる本は『纏向(まきむく)』です。これは昭和51年(1976)桜井市教育委員会が刊行した桜井市纏向遺跡の発掘調査報告書で、B5判・2分冊・箱付き・幅約15cmの堂々たる体裁の(復刻版報告書を除くと)当時としては最も分厚い報告書でした。纏向遺跡は、邪馬台国の都の最有力候補とされ、毎年、発掘調査が実施されています。しかし、同書の文中では邪馬台国についてほとんど触れられず、弥生時代末から古墳時代初めの「遺構」や「土器」について重点的に報告されていました。
ところで、彼は住環境や言葉から関東の大学の研究者と考えられますが、何のために『纏向』を読んでいたのでしょうか? 上記のことから邪馬台国研究のために読んでいたと考えるには無理がありそうです。巨木に神が宿ることを子供に教えたり、トウモロコシの文字を見て超常現象に理解を示したりするなど「原始信仰」や「精神世界」に興味を持っているようなので、同書で報告されている弥生時代末から古墳時代初めの「まじない」や「まつり」に係る土器の項目を読んでいたのかもしれません。
『纏向』は当時の定価が2万円くらいしました。(今でも古書店では1万円くらいで売っています)私も大学生の頃は、欲しいけど、高根の花でした。同書の刊行時期と「トトロ」の時代設定(昭和30年代)とは合っていません。しかし、宮崎監督があえてこの本を映画に登場させたのは、その堂々たる風格と高級感が「大学の研究者が読むのにふさわしい本だ」と思わせたからではないでしょうか。
交尾二題
その①
昭和40年代、私が小学生の頃、実家に「チビ」という雌犬がいました。雑種でしたが鹿に似た愛らしい顔の美犬で、近所の雄犬に人気があり、フェロモンに引き寄せられた野良犬が、高さ2mで上に釘が植えてある塀を乗り越えて、乱入してきたこともありました。
ある日、脱走した「チビ」の大きな鳴き声が聞こえてきたので(チビは時々脱走しましたが、すぐ帰ってくるので家族は気にしませんでした)外に飛び出すと、驚いたことにチビと見知らぬ雄犬が、お尻をぴったり密着させて、一直線に「つながって」いました。チビは「つながって」いることが苦痛らしく「キャン、キャン」と悲しげに鳴いています。
「これは大変なことになった」と思い、丁度その場にいた近所の男の子に、チビの首を持ってもらい、私は雄犬の首を持ち思い切り引っ張りました。しかし、何度、引っ張っても抜けません。「水をかければ抜けるかもしれない」と思い、金ダライに水を汲んできて接合部にかけてから、引っ張りましたが、どうしても抜けません。
しかし、しばらくするとチビはこの状態に慣れたのか、鳴き止んでおとなしくなり、引っ張るのにも疲れたので、2匹をほったらかしにして家に帰りました。やがて、チビは雄犬と離れたらしく、夕方には戻ってきて、餌も普通に食べました。
私は、夜になり帰宅した父に、なんでチビが「つなぎ犬」になったのか聞きました。父は「それはくっつき病だ」と教えてくれたので、「病気だったのか、でも治ってよかった」と後々まで信じていました。
その②
滋賀県の財団法人に在職していた平成の初め頃、学校の夏休み中、当番日になると財団が主催する子供向け行事の手伝いに行くのが恒例となっていました。
ある日、同行事(この日、私は警備係をしていました)で職員が遺跡の説明をしているのに、全く無視して虫取りに熱中している5年生くらいの女の子がいました。女の子はバッタを2匹捕まえると1匹ずつ手に持って、お尻をぶつけたり、こすり合わせたりしています。私は興味が湧いてきて、女の子のところに行き「何をしているの?」と聞きました。すると「バッタに交尾させてるの」、「なんで交尾させるの?」「卵を産むところが見たいから」、「バッタの交尾のことは学校で教わったの?」「図鑑で見た」と淀みなく答えてくれました。
女の子と話した後、ふと「つなぎ犬」のことを思い出しました。私が子供の頃は大人でも「交尾」という言葉を使うのを恥ずかしがる「おぼこい」時代でしたが・・・。
それにしても、とーちゃん!! いくらなんでも「くっつき病」は、ないやろう!!
友達にもそう話してしまって・・・、ずっと後で赤面したよ、ほんまに!!
滋賀県の思い出(3) 県職員は偉い
20年くらい前の話です。
滋賀県内の農家に遺跡所在確認などの聴き取りに行くと「隣村にいた県職のAさんの山に塚があって、どうの、こうの・・」などと返答されることがありました。
同じ返答でも県職員以外の人が話に登場する時は、職業については触れられないこともあります。しかし、県職員は最初から「県職の某」という肩書付で呼ばれていました。県民の「県職員は偉い」という認識は強かったのです。
県職員は一度採用されるとリストラも県外への転勤もなく、ボーナスも毎年あり、年休も取りやすいことから、農家の長男が多く、他府県出身の職員で養子に入った人も結構いました。未婚女性の県庁でのアルバイトは花婿探しと言われて、応募が多く狭き門でした。滋賀県には大企業の工場は沢山あるのですが、本社はほとんどなく、国立機関も少ないことも、県職員の地位を引き上げていました。
そんな偉い県職員中でも特に偉いのは県立高校の教員です。教員は、一般の県職員とは身分や給与制度が違うので「自分達は別格だ」という意識が特に強く、そんな教員にプライドを傷つけられることが多い「県立高校事務室」に異動を希望する人は、まずいません。
知合いの県立高校の事務員も「教員は電話を取らないので、何時も電話番をしないといけない」「呼出してもでない時は、遠くまで探しに行かねばならない」、「お互い先生付けで呼び合い、偉そうにしている」などとよくこぼしていました。
ある職員が2回も県立高校事務室に異動になった時、職員組合が団体交渉で「県職員を県立高校事務室に何度も異動させないように」という要求を出したこともあります。
今では、県民の県職員に対する意識は、少しは変わったでしょうか?
医者・歯医者の思い出(1) 歯医者に行きたい
私は小さな頃から医者や歯医者に行くのが大好きな変わった子供でした。理由は簡単で医者に行くと甘い飲み薬をくれるし、歯医者に行くともっと楽しいことがあったからです。
港の方にあるH歯科医院には、祖父と一緒に近所の停留所から市電に乗って行きます。私は乗車すると、すぐに靴を脱いで座席に正座し、外を眺めていました。市電は40分くらい走ると栄町一丁目の停留所に着き、降りて少し南に歩くと、海岸通に面した「商船ビル」が建っています。このビルは大正11年に建てられた7階建ての立派なビルで、1階ロビーには、指針がメトロノームのように動く扇型の表示板が上にあり、内扉が篭状のクラシックなエレベーターが3基ありました。
エレベーターに乗り、4Fで降りて、天井が高くてとても広い廊下を進み、H歯科医院のドアを開けると、そこには衝立と上に帽子フックのついた外套かけがありました。その奥の待合室で、革張りの立派なソファーに座ってしばらく待ち、歯科衛生士のお姉さんに呼ばれると、治療室に入ります。
診療台に座ると前の大きな窓から、波止場に出入りする船を眺めることが出来ましたし、貨物列車を引く蒸気機関車が、通りの向こうの臨港線をカンカンと鐘を鳴らしながらゆっくり通り過ぎて行くのを見たこともありました。もちろん歯を削ったり、抜く時は、景色どころではなく、恐怖で身を固くしていていましたし、痛みがひどく大泣きしたこともあります。しかし、治療が終わると祖父がビル1Fの喫茶店「海」か、三宮の「ドンク・パーラー」に連れて行ってくれるので痛みはすぐ忘れました。
注文は「海」ではミックスジュース、ドンクでは(ウェファースとサクランボの載った)アイスクリームと決まっていましたが、どちらもめったに口に入らない贅沢品でした。
帰りの市電では、また靴を脱いで座席に正座し、外を眺めながら元の停留所まで戻り、家に着くと、もう次に診療日を心待ちにしていました。
鉄道の話(1) 思い出の蒸気機関車
私は生粋の「鉄男」ではありませんが、寝台列車や地方の鈍行に乗るのが大好きなので「乗り鉄」の資質はあるかもしれません。子供の頃は普通の男の子と同じように蒸気機関車が大好きでしたし、電車に乗る時は一番前に立って景色を見ていました。今回は私の鉄道初体験を御披露いたします。
私が物心ついた頃なので、昭和30年代の後半期、自宅に近い東灘貨物駅では貨車の入れ替えに蒸気機関車が使われていたので、私が「機関車が見たいと」父にねだると自転車の後ろに乗せて連れて行ってくれました。
普通は貨物駅北側引込線の奥にある小さな機関庫にSL(多分C11だったと思います)2両が並んで停まっていましたが、貨物駅に出てきて汽笛を鳴らしながら貨車の入れ替作業を行っていることもたまにありました。
当時、伊丹にいた叔父のアパートに行くと、客車を引いたSLが福知山線を走ってゆくのをベランダから見ることが出来ました。SLは身近にいたのです。
しかし、昭和39年の東京オリンピックの頃を境にSLは阪神地区から姿を消して行き、45年の万博の頃、舞鶴の親戚の家へ遊びに行った時、北吸駅近くの踏切で貨物列車を引くSLを見かけたのが、SL定期列車を見た最後になりました。
愛媛の生活(3) 愛媛県は郷土愛にあふれています
愛媛新聞や愛媛県内の地方局が東京や世界で活躍する郷土の英雄に関する報道を行う場合、長友佑都(西条市出身)、松山英樹(松山市出身)のように名前と出身市町が必ずセットで紹介されます。また、県外の出来事を伝える時でも、取材対象者が県内出身者であれば、同じように出身市町が紹介されます。
愛媛県に引越してきた頃、愛媛新聞で「高知市で事故、県人大けが」という見出しを見たことがあります。最初は県人(けんと)という人が事故にあったのかと思ったのですが、よく読むと「県人」とは愛媛県人のことで、「愛媛県在住の人が高知市に行って、事故にあい大けがをした」という意味でした。
私は愛媛県に来る前、滋賀県に28年住んでいましたが、びわ湖放送や大手新聞の滋賀版(滋賀県には愛媛新聞のような地方誌はありません)で「県人」という単語は見た記憶がありません。
愛媛県では東京製作のテレビ番組であっても、県内が舞台になる時は、新聞のテレビ欄や地方局の番宣で必ず事前告知を行います。愛媛県人の郷土愛は並大抵ではありません。
「君が代」を翻訳して下さい
2006年8月、インドネシアのバンテンで実施された日本とインドネシアの共同遺跡調査に2週間ほど参加しました。帰国が近づいたある日の夕食後、インドネシア側の協力者であるインドネシア国立考古学センターの技師の皆さんと片言の英語で雑談をしていました。
その時、技師の1人から「日本の国歌は何というのか?」という質問がありました。「KIMIGAYOです」と答えると「歌って欲しい」と希望されたので、歌いました。するとさらに「歌詞の意味を教えてほしい?」と聞かれました。その時初めて「自分は君が代の内容を理解していなかった」ことに気づきました。
だからといって「全然分からない」と答えるのも日本人として「随分恥ずかしいことだ」と思い、頭をひねっているとあやふやな記憶ですが「巌(いわお)は、さざれ石からできた堆積岩ではなかったか」ということを思い出したので、さざれ石が巌になり、苔は生えるまでの過程を想像し、以下のようにまとめました。
①小さな石や砂(さざれ石)が川の流れに乗って下り海や湖に堆積する
②マグマが上昇してきて熱により変性し堅い石の層になる
③地震や地殻変動により地表に露出する
④雨によって浸食されたり、崩れたりして大きな塊、つまり巌になる
⑤やがて巌に苔が生える。
このことをつたない英語で身振り手振りを交えて説明し、最後に「最初から最後まで100万年ぐらいかかりますが、そのくらい長く天皇の命が続くことを希望するというのが、KIMIGAYOの歌詞の意味です」と言って締めくくりました。
皆さんには何とか歌詞の意味を理解していただいたようでしたが、今度は「この歌は何年前につくられたのか?」と聞かれました。「この歌が出来たのは平安時代の初め頃ですから今から1200年くらい前です」と答えると、質問者は「さすが日本はすごい!そんな昔から地質学の知識を持った人がいたのか」と感心しました。他の皆さんも頷いています。
「あれ! うーん? なにか少し違うような気がするんですが?? まあ君が代の主旨は天皇の長命を願うことなので、たとえ話がが少しずれてもいいことにしましょう」と自分を納得させました。
帰国して、早速さざれ石と巌について調べると案の定「過程①②」が違っていました。君が代に出てくる巌は正式には「石灰質角礫岩」という名称で、「石灰岩が水に溶けてさざれ石の間に入り、凝固して形成される」というのが正解で、形成過程でマグマの熱は必要なかったのです。また、きちんとした英訳文があることも分かりました。