日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。
今シーズン最後の釣行
おもしろうて やがて悲しき 地蔵盆
いつのまにかハローウィンが新たな暦日としてカレンダーに記載され、行事が僻村にまで浸透してきましたが、私の故郷では、内容の一部が似ている「地蔵盆」というお祭りが8月24日に行われます。
この日は朝早くから町内の地蔵さんに祭壇を設け、その前にゴザを敷き、上に日除けが取り付けられると、その下で子供たちは、「双六」や「ハンカチ落し」をして遊びます。おやつの時間になると「世話役の人」から御菓子やスイカをもらい、夜は大人も交じって花火や盆踊りをします。
また、別の町の地蔵さんを訪ねると、そこの「世話役の人」が必ず御菓子をくれるので、大黒さんの背負っているような大きな袋を持って遠い町まで遠征し、袋一杯の御菓子をもらって帰ってくる子供もいました。
私が小学生の頃(昭和30年代終わり~40年代初め)は、みんなが毎日御菓子が食べられるような時代ではなかったので、「地蔵盆」は子供達にとって最高に楽しいお祭りでした。
しかし、この夏休み最後の大イベントが終わると、「日中の日差しがなんとなく弱まり」「高い空にうろこ雲が現れ」「虫の音も高まってきて」急に秋の気配を感じるようになります。
多くの子供達は、残りの6日間で「溜まっている宿題」を必死に片付けると、「夏休みが終わってしまった悲しみ」を噛みしめながら始業式のために登校してゆくのです。
後生恐るべし
一時在籍していた博物館の小学生向けイベントの一つに「夏休み自由研究相談」がありました。初回実施前に想定していた内容は、
①「夏休み自由研究」をやりたいけれどもテーマが決まっていない子には、学芸員がテーマを探してあげる。
②テーマが決まって、実施している子の質問に答えたり、アドバイスをする。
の二項目で、当該館学芸員の守備範囲である「歴史」や「美術」の自由研究に限定して相談を行うことにしました。
8月初めの相談日、何人かの子供が親と一緒にやって来ましたが、そのうち3人は、専門家もびっくりのテーマで研究を進めていました。
さらに、新学期までまだ時間的余裕があるのに3人とも研究の骨子は出来ていて、当日は発表の予行演習をするつもりで来たようでした。
その自由研究の内容を簡単に紹介します。
①5年生男子 「宗派の本山の立地と教義の関係」
天台宗や真言宗は山上に本山があるが、両本願寺は町中にある。これは宗派の教義の違いがそうさせていると思うので、各宗派の関連本を読んで教義の違いを調べている。
②6年生女子 「消しゴムの生産と流通」
自分が文具店で買った消しゴムの生産と流通について調べたかったので、「文具店」→「問屋」→「船会社」→「中国の生産工場」全てを訪問し、聴き取りを行い、中国の生産工場の前で記念写真を撮ってきた。
*娘の願いを聞き入れ中国まで一緒に行ってきた父親の笑顔が印象的でした。
③5年生男 「県内城郭の石垣調査」
県内の城跡の石垣について調べ、石の組み合わせの様子を図にした。
*母親が「子供と一緒に城跡に行く内、私も城好きになりました」と嬉しそうに話していました。
さて、この3人以外に私が会った恐るべき小学生をあげると、博物館付属図書室の本を読みに来ていた5年生の女の子は、「源氏物語」全てを暗記し、次に「枕草子」の暗記に取り組んでいました。また、遺跡現地説明会の見学に来ていた5年生の男の子は、歩測(自分の歩幅の寸法を覚えておき、歩いた歩数によってA地点からB地点までの長さを測る方法)を覚えて城址の「縄張り調査」をしているそうで、自分で作成した「縄張り図」を幾つか見せてくれました。
「後生恐るべし、願わくば、この子たちが受験勉強や級友との人間関係などにより才能の芽を摘まれることなく、立派な研究者に育ってほしい」と思うばかりでした。
本場のキムチ
私の伯父は昭和40年代頃、小さな貿易会社を経営していて台湾や韓国によく出張しました。当時、高校生だった私が伯父の家に泊まった時「本場仕込みのキムチを作ったので食べてみろ」と言われたので、生まれて初めてキムチを食べましたが、やたらと辛くニンニク臭いだけの、大変まずい味でした。しかし、伯父の手前、吐き出すこともできず、我慢して飲み込みました。それから私は二度とキムチは食べませんでした。
昭和60年頃、初めて韓国旅行に行きました。当然、初日からいろいろなキムチが食卓に並びます。同行の皆さんは美味しそうに食べているので、私も大根キムチ(カクテキ)を恐る恐る口にしたのですが、意に反して、歯ごたえがよく、辛さとうまさのバランスが絶妙なのに吃驚しました。白菜や胡瓜のキムチも美味でした。
伯父は築地に魚を買い出しに行ったり、美味しいフグの見分け方を披露したりする美食自慢の人でしたが、本場と同じやり方で漬けたのに何であんなにまずいキムチができたのか?材料か?味付けか?キムチに関する嗜好が一般人と違っていたのか?
機会があれば、聞こうと思っていましたが亡くなられてしまったので、今では永遠の謎になってしまいました。
今治の生活(5) 今治の食材(果物編)
「はるみ」、「きよみ」、「せとか」と聞いて何を想像しますか? 県外の方はほとんどが「女性の名前」と思われるでしょう。では「紅まどんな」は?「紅芋」の品種でしょうか? いえいえ違います。これらはみんなミカンの品種です。この中で最も高額なのは「紅まどんな」で芦屋市のデパートでは、なんと1個1,500円で売られていました。
滋賀県にいた頃は、ミカンの品種といっても「温州みかん」「八朔」「伊予甘」「でこぽん」くらいしか知らなかったのですが、さすがはミカンの本場だけあって種類も豊富です。
そして、9月に「極早生みかん(青ミカン)」が店頭に現れてから、翌5月の「伊予晩甘」「夏ミカン」まで、町中にミカンの香りがあふれます。私は甘さ控えめで、「さくっとした」口触りの「はるみ」が好きです。また、今治沖の瀬戸内海に浮かぶ岩城島のレモンは一流レストランのシェフからも注文が来るブランドレモンとして有名です。
ミカン以外の果物では、甘くておいしい「菊間スイカ」が有名ですが、知る人ぞ知るのが「古谷(こや)の梨」です。今治市古谷地区でわずか20軒の農家が作っているブランド梨で、柔らかく、甘みが強いのが特徴です。生産量が少ないので市外の人にはあまり知られていませんが、贈答用にもされる高級梨です。
当地では他にもイチジク、枇杷、キウイ、柿などいろいろな果物が栽培されていますが、私は西条柿(細長い柿)を買ってきて、しばらく放置し、熟し切ったところをスプーンで掬って食べるのがなによりも好きです。
魚と同様、果物も種類が豊富で値段も安いので、今治は「フルーツ天国」と言ってもよいと思います。
愛媛の生活(4) 今治の食材(魚介類編)
海のない滋賀県から今治に来ると来島海峡に面した港町今治の海の幸の種類の多さには圧倒されるものがあります。その中で私が選んだ「ベストファイブ」を紹介します。
第5位「耳烏賊」胴が短く上の方に耳が付いている烏賊です。他の烏賊にはある板のような背骨がないので、さばくのに手間ががかかりません。煮ものや炒めもので美味しく食べることが出来ます。
第4位「鯛」来島海峡の急流にもまれた鯛は身がしまり、明石鯛や鳴門鯛などのブランド鯛に匹敵する美味しさです。
第3位「さわら」塩焼きは幕の内弁当の定番ですが、当地では刺身でも食べます。春の魚と言われますが、1・2月の「寒さわら」は、脂がのって味も濃く「白いトロ」と言っても過言ではありません。
第2位「太く長い鱧」なじみの居酒屋の親父の話では子供の頃、当地では鱧を食べる習慣はなく、現在も今治近辺で取れる鱧の95%は関西に出荷されるそうです。関西向けの鱧は(特に京料理の場合は)一切れが御椀に丁度入るぐらの小ぶりなものが喜ばれ、1.5m近くある太い大きな鱧は地元で消費されます。ところがこれが美味いのです。小ぶりな鱧に比べ、身の弾力が強く、コラーゲンもたっぷりで、食べ応えがあります。
第1位「まながつお」一般的には、みそ漬けを焼いて食べることが多いのですが、今治では生きのよいものは刺身で食べます。薄黄色のきれいな身で、とろけるように柔らかく、上品な甘さがあり、刺身の王者と言ってもよいでしょう。
どうです皆さん、食べたくなってきたでしょう。
恐怖の質問タイム
滋賀県の外郭団体の発掘調査部門や博物館部門にいた頃、小学生が遺跡や博物館の見学に来ると、職員の説明を一通り聞いた後、たいてい「質問タイム」があります。予どもゆえの先入観のなさと純粋さで物事の本質に迫るような厳しいことを聞いてくるので、答えに詰まり立ち往生することも多く、何時も早く終わればいいのにと思っていました。
湖北地方の山の中で古墳の発掘調査をしていた時です、小学生5・6人が先生に引率されて見学に来ました。古墳全体や出土土器の説明が終わると案の定「質問タイム」の始まりです。最初の質問「なぜ古墳は山の中にあるのですか?」で早くもしどろもどろになってきました。「平地は家や田んぼにするために山の中に古墳をつくります」「石室を作る大きな石が山には多いから・・・」とか、説明しながらどんどん自信がなくなって行くのが分かります。しかし、その後は「邪馬台国はどこにあるのか?」「埴輪の起源」などと、何とかかわせる質問だったので気持ちも落ち着いてきました。
しかし、私の日頃の行いが悪いからでしょうか、やっぱり、最後の男の子の口から出たのです。
「古墳はなぜ盛り上がっているのですか?」
聞いた瞬間、頭の中が真っ白になりました。「ああ、君、それを言ったら、もうおしまいや。‐古墳がなぜ盛り上がっているか?‐やて、その研究に取り組んだ考古学者が何人いると思うんや。でも、いまだ定説はないんよ。1000年に一人生まれてくるかもしれない天才考古学者でもその質問には的確に答えられへんわ。わーん(泣)」
質問の衝撃のあまりの大きさに「なんと答えたのか」だけではなく、「その日のその後の記憶」まで吹っ飛んで、消えてしまいました。これが私の経験した最も恐ろしい質問です。
最近の若者は海外に行かない?
3年前、会社で台湾に慰安旅行に行くことになり、参加者のパスポート所持の確認が行われました。すると所持者は40代以上の小父さん社員、小母さん社員ばかりで、「20代の社員のほとんどがパスポートを持っていない」=「外国に行ったことがない」という現実を知り、改めて驚きました。そういえば、最近結婚した若い同僚も新婚旅行先は国内でした。
私の頭が大量の毛で覆われていた昭和の終わりから平成の初め頃は、円高による工場移転やバブル景気による海外投資の拡大により、メーカーも商社も怒涛のように海外に進出しました。私の同級生で外国の支店や工場の駐在員になった人も多くいます。そうした時代の雰囲気に後押しされ多くの若者が日本を抜け出しましたし、新婚旅行先もほとんどが海外でした。
しかし、私は「今の若いもんはみんな内向きになりおって」と現状を悲憤慷慨するつもりは全くありません。「みんなが行くから自分も行こう」とばかりに大量出国した時代と比べると、今、そんな熱気はありませんが、きちんとした目的意識を持って海外に行く若者はいつの時代でもちゃんといるからです。
そして、中島みゆきの名曲「時代」の歌詞のように時代は回り、巡るものです。今の若者たちが老人になる頃は、怒涛のような海外進出が復活し、誰もが海外に新婚旅行に行く時代になっているかもしれません。
トトロと纏向遺跡
考古学を学んだ人や遺跡発掘に携わる人に「トトロ」好きが多いのは、サツキとメイの父親が大学の考古学研究室に勤めていることに親近感が湧くからではないでしょうか? 私も毎年のように放映されるテレビ放映は必ず見ます。
さて、姉妹の父親は沢山の専門書を持っていて、それらは度々画面に登場しますが、その中でも一番気になる本は『纏向(まきむく)』です。これは昭和51年(1976)桜井市教育委員会が刊行した桜井市纏向遺跡の発掘調査報告書で、B5判・2分冊・箱付き・幅約15cmの堂々たる体裁の(復刻版報告書を除くと)当時としては最も分厚い報告書でした。纏向遺跡は、邪馬台国の都の最有力候補とされ、毎年、発掘調査が実施されています。しかし、同書の文中では邪馬台国についてほとんど触れられず、弥生時代末から古墳時代初めの「遺構」や「土器」について重点的に報告されていました。
ところで、彼は住環境や言葉から関東の大学の研究者と考えられますが、何のために『纏向』を読んでいたのでしょうか? 上記のことから邪馬台国研究のために読んでいたと考えるには無理がありそうです。巨木に神が宿ることを子供に教えたり、トウモロコシの文字を見て超常現象に理解を示したりするなど「原始信仰」や「精神世界」に興味を持っているようなので、同書で報告されている弥生時代末から古墳時代初めの「まじない」や「まつり」に係る土器の項目を読んでいたのかもしれません。
『纏向』は当時の定価が2万円くらいしました。(今でも古書店では1万円くらいで売っています)私も大学生の頃は、欲しいけど、高根の花でした。同書の刊行時期と「トトロ」の時代設定(昭和30年代)とは合っていません。しかし、宮崎監督があえてこの本を映画に登場させたのは、その堂々たる風格と高級感が「大学の研究者が読むのにふさわしい本だ」と思わせたからではないでしょうか。
交尾二題
その①
昭和40年代、私が小学生の頃、実家に「チビ」という雌犬がいました。雑種でしたが鹿に似た愛らしい顔の美犬で、近所の雄犬に人気があり、フェロモンに引き寄せられた野良犬が、高さ2mで上に釘が植えてある塀を乗り越えて、乱入してきたこともありました。
ある日、脱走した「チビ」の大きな鳴き声が聞こえてきたので(チビは時々脱走しましたが、すぐ帰ってくるので家族は気にしませんでした)外に飛び出すと、驚いたことにチビと見知らぬ雄犬が、お尻をぴったり密着させて、一直線に「つながって」いました。チビは「つながって」いることが苦痛らしく「キャン、キャン」と悲しげに鳴いています。
「これは大変なことになった」と思い、丁度その場にいた近所の男の子に、チビの首を持ってもらい、私は雄犬の首を持ち思い切り引っ張りました。しかし、何度、引っ張っても抜けません。「水をかければ抜けるかもしれない」と思い、金ダライに水を汲んできて接合部にかけてから、引っ張りましたが、どうしても抜けません。
しかし、しばらくするとチビはこの状態に慣れたのか、鳴き止んでおとなしくなり、引っ張るのにも疲れたので、2匹をほったらかしにして家に帰りました。やがて、チビは雄犬と離れたらしく、夕方には戻ってきて、餌も普通に食べました。
私は、夜になり帰宅した父に、なんでチビが「つなぎ犬」になったのか聞きました。父は「それはくっつき病だ」と教えてくれたので、「病気だったのか、でも治ってよかった」と後々まで信じていました。
その②
滋賀県の財団法人に在職していた平成の初め頃、学校の夏休み中、当番日になると財団が主催する子供向け行事の手伝いに行くのが恒例となっていました。
ある日、同行事(この日、私は警備係をしていました)で職員が遺跡の説明をしているのに、全く無視して虫取りに熱中している5年生くらいの女の子がいました。女の子はバッタを2匹捕まえると1匹ずつ手に持って、お尻をぶつけたり、こすり合わせたりしています。私は興味が湧いてきて、女の子のところに行き「何をしているの?」と聞きました。すると「バッタに交尾させてるの」、「なんで交尾させるの?」「卵を産むところが見たいから」、「バッタの交尾のことは学校で教わったの?」「図鑑で見た」と淀みなく答えてくれました。
女の子と話した後、ふと「つなぎ犬」のことを思い出しました。私が子供の頃は大人でも「交尾」という言葉を使うのを恥ずかしがる「おぼこい」時代でしたが・・・。
それにしても、とーちゃん!! いくらなんでも「くっつき病」は、ないやろう!!
友達にもそう話してしまって・・・、ずっと後で赤面したよ、ほんまに!!