咽郷雑記

 日々の出来事や写真、過去の小文、その他諸々を取り上げます。
 表題はホームページのタイトル候補だったのですが、咽(喉の上の方)、喉(喉の下、首のあたり)ということで落選しました。しかし因業に音が同じなので、わがままでかたくなな性格の自身にふさわしいと思い表題に復活させました。

月釜(つきがま)の正客 (その1)

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-今回は茶の湯の話なので、未経験の方のために専門用語に註を付けました-

 平成元年頃の話です。実家の近所に住んでいる知合いのOLさんから「御茶の先生が近くの神社の茶席で月釜(つきがま)を掛ける(註1)ので来てほしい、切符はただであげる」との誘いを受けました。当時、私はOLさんが通っている教室とは違う「茶の湯教室」に入門したばかりの初心者で、稽古に悪戦苦闘しており、本番の茶会はうんと先だと思っていたので、「月釜」と言う言葉にぐっと魅かれて出かけることにしました。「月釜」は「大寄せ」(註2で行われるので、当日、待合(註3に居合わせた人がその場で話し合って席順を決めます。しかし、このシステムこそが私の悲劇の原因になったのです・・・。

 さて、当日、玄関で案内をしていたOLさんに挨拶をして、受付で切符を渡すと、待合に指定された「控の間」に案内されました。そこにはいかにも茶の湯キャリアが長そうな、和服の中年女性7人が輪になって座わり、小声で「正客(しょうきゃく)」(註4の譲り合いをしています。私は輪から少離れて座りました。

 しばらくすると、受付の人が来て「前席が終わり近づきましたが、新たな御客様はは来られませんので、御席入りは8人でお願いします」と告げました。その途端、7人が一斉に私の方を向き「男の方が一人やから御正客お願いします」と言いだしました。

 私はびっくりして「私は茶を始めてまだ1年たたないんです。絶対無理です」と答えて、一番近くの人に「ぜひ御正客をお願いします」と頼みましたが、「いえいえ私はこのとおり腱鞘炎でございます。茶碗を落とすかもしれませんので、あきません」と包帯をした両手を突き出して見せ、他の人も「急な用事で中座するかもしれまへん」「今日は頭痛で」「風邪で」「あわてもので」などと口々に逃げ口上を述べたてます。

 その時でした、逃げ口上を言わなかった一番若い人が意を決した声で「私は大寄せで正客を2回続けてやりましたので、今回はお詰め(おつめ)(註5をやらせてもらいたいと思います」と発言しました。6人は急に黙って目を見合わせ、うなずき合ったところをみると発言者の「御詰め」就任はを認められたようです。

 そうこうするうちに、先席が終了し、御客がぞろぞろ退出してきましたが、正客はまだ決まりません。すると先ほど「頭痛で」と言っていた人がこちらへ来て「私が次客となってしっかりアドバイスするから頼むから御正客をやって下さい」と何度も頭を下げます。私は「どうかご勘弁を」と繰り返し辞退しましたが、今度は全員でこちらを向いて「御正客を」「「御正客を」の大合唱が始まりました。

 OLさんに助けを求めようと部屋の入り口から玄関周りを見回したのですが、肝心の時に姿がありません。時間は刻々過ぎていきます。とうとう大合唱に根負けして、「もうどうでもええわ、恥かいても」と思い、「私がやります」と宣言、正客で席入りすることが決まりました。(続く)

 

註1 寺や神社、公共施設などに付属する茶席で、定期的に行われる茶会のこと。「茶の湯」の一般普及が本来の開催理由ですが、実際、訪れるのは入門している人がほとんどです。亭主は抹茶各流派(表・裏千家、遠州流など)の先生が当番で行うことが多いのですが、煎茶の先生が亭主を行うこともあります。なお、亭主になって月釜を実施することを「月釜を掛ける」と言います。

註2 「広間を茶席とし、御菓子と薄茶一服が供される」という簡単な形式で行われる茶会のことです。参加希望者は事前に数百円の切符を買って、当日実施時間内に会場に出向きます。御客が一定の人数になると入室(席入り)して御茶をいただきます。切符を持った人が次々に来るので一日に何回も茶が点てられます。

註3 本来は席入前や中立(前席と後席の間)の時間を過ごす茶室とは別の施設の事をいいますが、「大寄せ」の場合、茶席と同じ建物の「控の間」を便宜的に「待合」として使うことが多いのです。

註4 茶席で最も上座(亭主の近く)に座る客のことで、客側のリーダーとして亭主の手前に作法通り対応し、タイミングに合わせて挨拶をしたり、茶道具や掛軸、茶花の名前や由緒を聞いたりする大変難しい役どころで、熟練者が行います。

註5 茶室で一番末席に座る客のことで御茶碗・菓子器を返したり、入口の開け閉めをしたりします。正客ほどではないのですが面倒な役どころです。

鉄道の話(4)一枚物の時刻表

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 中学生の頃(昭和40年代後半)夏休みに舞鶴市内の親戚宅に泊まりに行くと玄関に「西舞鶴駅と東舞鶴駅」の列車の発着を記した「一枚物時刻表」(写真参照)が貼ってあったのが、このタイプの時刻表の初見でした。昭和50年代に家族旅行で泊まった城崎温泉の旅館のフロント横にも同じ形式の「城崎駅時刻表」が貼られていて、その後も各地で見かけましたが、疑問に思っていたが2点ありました。

 ①どこで売っているのか?売っていないとしたらどこで配られているのか?

 ②どこが刊行しているのか?スポンサーはいるのか?

 見かけるたびに疑問を持つのですが、なぜか、いつも関係者に質問する機会を逸してしまうのです。しかし特に重要なことでもないので、調べることもなく、しばらくすると忘れてしまう。その繰り返しがずっと続いてきました。ところが今治に来たおかげで、疑問が一挙に解決する出来事に遭遇しました。

 まず①については、予讃線のダイヤが改正された当日の新聞に今治駅の「一枚物時刻表」が新聞広告と一緒に折り込まれていました。値段はただで、折込広告と同じ扱いでした。

 ②については、右上に「今治駅監修」と書かれていることからJR四国が刊行にかかわっていることは間違いありませんが、時刻表の中央部を見て下さい。そうです、スポンサーはタクシー会社だったんですね。確かに駅とタクシーはセットですもんね。

 タクシー会社がスポンサーということからでしょうか、JRと競合する長距離バスやフェリーの時刻表も堂々と掲載されています。しかし、タクシーと競合する路線バスの時刻表は、やはり掲載されていませんでした。

 私は前職の頃、仕事で日本各地に調査に出かけ、1か所に長期間逗留したこともありますが、新聞は取っていませんでした、今治に単身赴任して、初めて地方誌を購読し、

たまたまダイヤ改正があったので、長年の疑問が解決したというわけです。

大したことではありませんが、その夜はひっそりと祝杯をあげました。

                                                                                 一枚者時刻表(今治駅)


利休は生きていた その(2)-りきうのちやにて御ぜんもあかり-

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 逐電した利休は、早くも翌年、秀吉の前に現れます。文禄元年(1592)五月六日、朝鮮出兵のため肥前名護屋城(佐賀県)に滞在していた秀吉は大坂城の生母「大政所」に「きのふ、りきうのちやにて御ぜんもあかり、おもしろく、めでたく候」(昨日、利休の点てた茶を飲み、御飯をいただきました。相変わらず利休の手前は見事で、めでたいことです)という手紙を送っています。

 また、桑田忠親氏によると秀吉が京都所司代(京都市長のような役職)の前田玄以に同年の十二月十一日付で送った手紙が残っており「ふしみのふしんの事、りきうにこのませて、ねんごろに申つけたく候」(伏見城の建設については、利休に設計させることを念入りに命令するように)という内容が記されているそうです。

 利休が生きていたという証拠はこのように存在するのですが、「利休は秀吉に逆らって怒りをかい、切腹させられた」というドラマチックな話が間違って広く普及してしまったので、これら手紙は曲解されるか、無視されています。

 中村教授の発表は、この現状に大きな一石を投じたのです。

 -最後に名護屋城に呼び出された利休と秀吉の会話を私なりに想像してみました-

秀吉 やっぱり、おみゃーの茶じゃにゃーと旨くねえだがや。茶がうみゃーと飯もすすむでよ。

利休 えらいすいまへんでしたお粗末な点前で。実は殿下に御許しいただくのを待ってましたんや。

秀吉 伏見城の設計のことは前田からあらためて命令させるから、うまいことやってちょー。

   それから息子らのことも心配せんでええ。二・三年隠れてから出てきたらゆるしてやるでよ。

   「利休が太閤に逆ろうて、太閤の嫌いな茶碗ばかり使こうとる」とかいうやつが出てくると

   わしも太閤の体面ちゅうものがあるから困るでよ。

   そんな訳で理由をつけてちょっと隠れてもろうたけど、

   これからはちょくちょく茶を点てに来てちょー。

利休 いつでもお呼びください。ええお茶と茶道具を用意してすぐに駆けつけますさかい。

   -ちょっと猫語でしたかね?-

利休は生きていた その(1)-木像の磔-

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 科学の世界ではiPS細胞やらSTAP細胞?やら常識をゆるがす発見が相次いでいますが、文化系も負けてはいません。昨年の「茶の湯文化学会」において文教大学の中村修也教授は「千利休切腹の史料学的研究」という表題で衝撃的な発表を行いました。

 その、内容は「天正十九年(1591)二月二十九日に切腹したといわれている千利休は実は切腹しておらず、姿をくらましただけで、その後も生きていた」という驚くべき展開です。

 中村教授によると「都の公家の天正十九年二月二十五日・二十六日付日記」には「利休の木像が一条戻橋で磔にされたこと」と「利休は逐電(逃げて姿をくらますこと)したこと」のみが記されており、当時都に滞在していた伊達家の家臣が実際に見聞したことを記した手紙にも「大徳寺の山門上にあった利休の木像が秀吉の命により一条戻橋で磔にされた」とあるだけで利休自身切腹の記事はない。逆に「利休が天正十九年二月二十九日に切腹した」と記述するする文書は「信憑性が低い」としています。

 熊谷直実や荒木村重などの著名な武士は逐電しても、後に許されているので逐電した利休も後に許されたかもしれません。

 しかし、太閤の権威に負けず、「こびる」ことも「へつらう」こともなく、最後まで茶の湯の独自性を守り通して切腹したはずの利休が、生きていたとなると歴史が大きく変わります。逐電した利休はいったいどうなったのでしょうか。 (つづく)

釣りを始めた頃

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 小学校2~3年の時、父に須磨海岸に連れて行ってもらったのが始めての釣行でした

 須磨海岸に行くには国鉄灘駅(現JR、当時父は省線と呼んでいました)から電車に乗り須磨駅で降ります。駅は当時としては珍しい橋上駅で、まず北側階段を下り駅前の餌屋でゴカイを猪口に一杯買い、駅に戻り南側の階段を下りると、もうそこは海岸で、適当な場所に行き荷物を下ろし、釣座をつくります。

 仕掛けは、「先端にイチジク型の錘の付いた太い凧糸約1mにハリスが2本付いている」もので、これを頭の上で鎖鎌の分銅のように回し、タイミングを測って、手を離すと、遠心力で遠くに飛んでゆきます。錘が海に落ち着床するとゆっくり手で引き戻しながら魚信をとります。

 最初の頃は、投げ込みは父で私が引っ張るという具合でやっていましたが、その内、父は「6角形に面取りされた木製の投げ竿」と「オリムピック社製のスピニングリール」を買って来て使いだしたので、私は手釣りの仕掛けを譲ってもらい、遠くには飛ばないものの自分で投げ込んでいました。当時は船舶の廃油排出規制が不十分で海岸のあちこちには船が垂れ流した油の塊がありうっかり踏むととるのが大変でした。海水も濁っていてゴミが沢山打ち上げられていました。

 釣果は、朝から夕方まで頑張って十数尾程度で、最も多い魚は体長10~15㎝程の「テンコチ」でした。ぬめりがある上に首にとげがあり、大きな口で針を丸のみしてしまうので、釣れてもあまりうれしくありません。「キス」も小型しか釣れませんが「テンコチ」よりはましです。「カレイ」も10㎝程のミニサイズでしたがめったに釣れないのでかかると大喜びしました。

 父は戦前、祖父から釣りを習ったと言っていました。祖父は晩年、陶芸に打ち込んでおり、私が小学校3年生の時に亡くなったので、一緒に釣りに行ったことはありませんでしたが、私が生まれる前はよく須磨海岸に釣りに行ったそうです。しかし、釣り糸のもつれをほどくのが苦手で、釣行から帰ると「釣りをしているより糸をほどく時間の方が長い」と必ず同じ愚痴を言うので、家族は苦笑していたようです。

 当時の釣糸は昆虫由来のテグス(オオクスサンという蛾の幼虫から取る生糸のようなもの)で「水に漬けるともつれがほどけやすい」言われており、糸を海水に漬けてはもつれをほどいていたのでしょう。

 近年、神戸の海は大阪湾岸の下水道普及が進んだため、吃驚するほどきれいになりましたが、皮肉なことに水中の栄養分の濃度が下がり、漁獲高は減少しつつあります。

鉄道の話(3) エコ列車

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 新年 あけましておめでとうございます。

 12月は、世間の皆様よりはるかにゆったり暮らしている私にしてもそれなりに忙しかったようで、新作アップの間が随分開いてしまいました。久しぶりの拙文です。どうぞ、御笑覧下さい。

 

 先日、民放テレビのワイドショーで「衝突や追突の時、一番前の車両の危険度が高いので、電車はなるべく後ろの車両に乗った方が良いです」などと、のたまわっている交通評論家がいました。

 予讃線の昼間の「普通電車」や「普通気動車」は、大抵「1両編成ワンマン運転」なので、評論家氏の言う通りなら、列車の後ろにぶら下がればいいのでしょうか?こういう場合「(東京で)電車に乗るときは・・・・」と地域を限定して発言すべきで、とにかく都会中心の話しかできない人は困ったものです。

 なお、都会の人たちに申し上げますと「1両ワンマン普通」が「無人駅」に停車した時、乗客は「1両目後方の扉」から乗車し、整理券を取ります。目的駅に着くと運転手に乗車賃を払い、その「横の扉」から下車します。たまに走っている「2、3両編成の普通電車(気動車)」でも無人駅に停車する場合「1両目」の扉しか開閉しないので御注意下さい。

 さて、予讃線では夜更けになると驚くべき「普通電車(気動車)」が運行されます。なんと先頭車の車内灯だけ点灯し、後続車両は真っ暗なのです。そして、2両目への連絡通路は固く閉じられています。なぜこんな電車を走らせているのでしょうか?その理由として以下のことがあげられます。

①夜更けになると、翌朝のラッシュに備えるため車庫のある始発駅に車両を移動させる必要があるが、予讃線では夕方のラッシュ時以降、運行本数がぐっと減るので、始発駅に向かう「普通電車(気動車)」は必然的に多数連結車になる。

②夜更けなので、乗客は少なく、昼間と同じ1両で十分対応できる。

③2両以下を点灯・使用すると、照明の寿命が短くなり、床や座席も汚れるので、余分な車両はシャットアウトし、1両だけの使用で運行した方が合理的である。

 そんなわけで、「エコ列車」は今日も夜更けの伊予路をひっそりと走り続けています。

 

 

鉄道の話(2)「大垣夜行の思い出」

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 私は昭和50年代末から平成の初め頃、「自由席」なら東京まで「乗車券」のみで行ける「大垣夜行」をよく利用していました。

 おそらく、昭和58年頃だったでしょうか。土日の二日間、東京で開催された陶磁器の研究会の終了後、東京駅近くの居酒屋により一人で一杯やりました。11時過ぎにはほろ酔い気分で東京駅のホームに上がり、しばらく待っていると、おなじみの「165系電車」が入線してきます。

 当日は乗客が少なかったので、前から3両目の窓際に席を余裕で確保し、網棚に荷物を上げていると、泥酔した青年がふらふらと近づいて来て、私の隣に倒れるように座り、すぐに大鼾をかき始めました。私は、京都から神戸に終電で帰る時、熟睡して、終着駅の西明石まで行ってしまい、始発まで夜明かししたことがあるので、彼を起こして「どこでおりるか?」と聞くと、途切れがちの声で「茅ヶ崎」と答え、すぐまた大鼾です。

 その後もパラパラと乗車があり、席が8割くらい埋まったころ、定時になり、無事発車。これから朝まで東海道線をゆっくりと走ります。いつもならすぐ寝てしまうのですが、1時間以上睡魔に耐えて、「茅ヶ崎駅」到着直前彼を起こし、着くなり引きずるようにして電車から降ろしました。「さて、ゆっくり寝よう、でもその前にトイレ」ということで、トイレのある一番前の車両に向かうと、乗客も大分減って、座席で丸まって寝ている人もいます。

 ところが2両目の端まで来て1両目を見ると座席どころか床にも人が座っており、大変な混みようです、トイレの前にも3,4人が座り込んでいます。これでは、トイレに入る時、床の人に立ってもらわなければなりません。さらに、なんとなく「1両目に入って来て欲しくない」という車両内の空気も感じられたので、後ろの車両のトイレに行くことにしました。「それにしてもなんで、1両だけあんなに混んでいるんやろ?団体旅行かな?」と考えながらもトイレから席に戻るとすぐ 眠りに落ち、目が覚めたのは早朝で、西岐阜を過ぎたころでした。「1両目の乗客も少しは降りて、トイレ前の人も座席に座れただろう」と思い、再びトイレのために前に移動し、1両目を覗くと、そこには信じられない光景がありました。

 なんと1両目の乗客が「過激派」に変身していたのです。全員がヘルメットをかぶり、サングラスをかけ、顔の下半分はスカーフで覆っています。スローガンを書いたプラカードや横断幕もいくつかありました。途中では誰も降りなかったらしく、座席も通路もいっぱいのままです。私はUターンして急いで自分の席に戻りました。私の大学生時代(昭和51-56年)京都の「過激派」は何時も数人で、さみしげにデモを行っていたので、こんなにたくさんの「過激派」を見たのは初めてでした。多分、昨夜、一般人を装った「過激派」100人位が、東京駅で全員一斉に一両目に乗車し、床にも座り込み、車両を満杯にして、1両丸ごと占拠したのでしょう。そして、降車する直前に武装し、プラカード類を荷物からとり出したんだと思います。

 私は、関わり合いにならないよう、ずっと後ろの車両に移動して降車し、隣のホームの「姫路行き快速」に乗り換えました。「過激派」が大垣駅で降りたのか、乗り換えてどこかへ行ったのは不明です。

 何やら白昼夢のような思い出でした。

人気のケーキ店

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 最近、妻のお供で山本通りにある「食べログ神戸市内NO.1」のケーキ屋さんに行ってきました。土曜日の4時過ぎに店につきましたが、ショーケース全体の1/3ぐらいしかケーキが残っておらず、妻が食べたいと言っていた人気NO.1のケーキも有りません。

 店員さんに聞くと11時頃だとだいたい全部そろっているらしいのですが、夕方にはほとんど売り切れるそうです。そんな、話をしているはしからお客がどんどんやってきて、ケーキも飛ぶように売れてゆくので、妻もあわてて注文し、ようやく3個ゲットしました。

 ところで、私が在籍している社会福祉法人は、運用資金のほとんどが公的資金の給付で賄われています。以前いた発掘調査会社でも受注業務の大半が公共事業でしたし、さらにその前にいた滋賀県の外郭団体も発足当初は民間事業も少し手掛けていましたが、私が採用された頃には公共工事ばかりやっていました。つまり現在に至るまで私の給料は全て公的資金(税金)から出ているといっていいでしょう。

 私が納めた税金が一旦財務省に行き、還流されてきて給料になるわけですから別に恥じることもないのですが、私はこのケーキ屋さんのように、お上の世話になることなく、「己の才覚」と「腕一本」で、商売繁盛している人にはたいへん尊敬の念を持ちます。

 春秋の叙勲者を見ると議員や公務員が高位に叙されることが目立ちます。この人たちは経営上の不安要素(ライバル店の出現、材料の値上げなど)が顕在化して生活に不安をきたすことの多い「腕一本」の人たちに比べると、毎月必ず税金から給与を支出されるので、生活の不安を考えずに仕事に打ち込めます。

 「民と官の人間が同じ程度の業績で叙勲される場合、官は生活が安定している分をマイナスして、低位に叙するべきではないか」と私は常々考えるのですが、皆さんはいかが思われますか?

 さて、私は左端の円筒形のケーキをいただきました。見かけも美しく、甘さも丁度よく、評判にたがわぬ素晴らしい味でした。

購入したケーキ

購入したケーキ


私と京都(2) 京都人の苦楽はあれど続いてゆく生活

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 京都市内に住む友人は文具屋の3代目店主でした。4代以前は別の商いだったそうですが、室町時代以来の町衆だと言っていました。京都人は中々本音を喋らないのですが、ある宴会で泥酔し「京都の生活」について述懐されました。話の中で急に「神戸の話題」が出てきたのが意外で印象に残っています。彼は残念ながら数年後に亡くなられました。全ての京都人の生活が述懐と同じかどうかは分かりませんが、この町で代々暮らしてゆくことは、中々苦労が多いようです。

【述懐】

 市内から滋賀県に引越した時「都落ちした」「県民になった」と自嘲気味に語ったり、京都市周辺の農村を「郡部(ぐんぶ)」と呼んで見下す京都人がいます。外に対しては「京都は都で、他は全て田舎」という「気位」を持っている京都人は沢山いるのです。

 反対に内に対して、つまり「地元町内」に対しては「気位」より「気遣い」が大事です。自分の地位や立場に応じた行動を取ることに細心の注意を払い、年中行事や御祭、町内会の付き合い、買い物、学校、仕事など全てで世間の目を気にしながら、目立たず、隠れず、義理を忘れず渡世りしなければなりません。

 しかし、これらのことは親から子へ伝えられ、体にしみ込んでいるので、普段は無意識にこなしながら世間を渡っています。しかし手元不如意で年中行事や御祭りの寄付の工面が難しくなった時や町内の付き合いでトラブルが生じた時、仕事に疲れた時など、無性に神戸に引越したいと思うことがあります。

 神戸は、港町なので誰でもウエルカム、格付けもしきたりもなく、法律さえ守れば自由に暮らせる街です。窓から海が見るし、盆地ではないので風通しがよさそうだし・・・。

 しかし、体力や金力が回復し、付き合いのトラブルも解消されると、また元の日常生活の渦に巻き込まれ、何代も受け継いできた、京都の生活に戻って行くのです。心地いいような、悪いような、河の流れのように、とどまることなく過ぎてゆく生活に・・・。

滋賀県三大美味 その1鮒ずし

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 今治の美味については前に紹介しましたが、こちらに来る前に住んでいた滋賀県にも美味しい食材が沢山あります。中でも「鮒ずし」「近江牛」「鴨」は全国的に有名です。

 最初に鮒ずしについてお話ししましょう。鮒ずしは昭和60年代頃までは滋賀県の多くの家庭で漬けられていました。現場に来る作業員さんが弁当のおかずに「自家製鮒ずし」を入れてきて、分けてくれた時は「一緒に酒が飲みたいな」とか言いながら機嫌よくいただいていました。何かの御礼に鮒ずしを貰うことも多々ありました。

 しかし、材料のニゴロ鮒の漁獲減による価格の高騰、手間をかけて作る人の減少、食生活の変化などにより、鮒ずしを作る家庭は激減し、今では業者が作るものが一般的になりました。「鮒ずしの臭いはきつい」と言われますが、それは製造過程で雑菌が入るからで、業者の作ったものは品質管理がよいので「きつい臭み」はありません。しかし、ほのかな香りしかしない業者の鮒ずしは私には「お上品すぎて」頼りなく感じます。

 鮒ずしの価格は滋賀県ではそこそこですが、美食の都「京都」に運ばれると大変高価な酒肴になります。京都市内の大学に就職したばかりの友人と祇園の居酒屋に入った時、彼が「鮒ずしを注文する」といいだしました。メニューに値段はなく「時価」と書いてあるので、不安になり、強く引きとめたのですが、「初めてだし、どうしても食べる」と酒の勢いで注文してしまいました。出てきたのは向こうが透けて見えるような薄い切身五切!!、値段はなんと五千円!!!、1枚千円もしたのです。

 こんな高い鮒ずしは御免ですが、私は鮒ずしほど日本酒に会う酒肴はないと思います。日本酒はどんな辛口でも、かすかな甘みがあり、杯を重ねると口の中がべたついてきます。しかし、鮒ずしの強い酸味はそれをさっと消してくれるのです。鮒ずしが日本酒の風味をぐっと引き立ててくれることは間違いありません。

 ―冬の夜、「冷蔵庫に入れると中の食品全部に臭いが移ってしまうついてしまう」くらい強烈な臭いの「自家製鮒ずし」を肴に「白磁の杯」に「刈穂」を注いで静かに飲む―

 こんな幸福な夢をみました。夢で臭いがするかって? うーん、不思議なんですが、ちゃんとするんですね。ほんとに!!