鉄道の話(2)「大垣夜行の思い出」

 私は昭和50年代末から平成の初め頃、「自由席」なら東京まで「乗車券」のみで行ける「大垣夜行」をよく利用していました。

 おそらく、昭和58年頃だったでしょうか。土日の二日間、東京で開催された陶磁器の研究会の終了後、東京駅近くの居酒屋により一人で一杯やりました。11時過ぎにはほろ酔い気分で東京駅のホームに上がり、しばらく待っていると、おなじみの「165系電車」が入線してきます。

 当日は乗客が少なかったので、前から3両目の窓際に席を余裕で確保し、網棚に荷物を上げていると、泥酔した青年がふらふらと近づいて来て、私の隣に倒れるように座り、すぐに大鼾をかき始めました。私は、京都から神戸に終電で帰る時、熟睡して、終着駅の西明石まで行ってしまい、始発まで夜明かししたことがあるので、彼を起こして「どこでおりるか?」と聞くと、途切れがちの声で「茅ヶ崎」と答え、すぐまた大鼾です。

 その後もパラパラと乗車があり、席が8割くらい埋まったころ、定時になり、無事発車。これから朝まで東海道線をゆっくりと走ります。いつもならすぐ寝てしまうのですが、1時間以上睡魔に耐えて、「茅ヶ崎駅」到着直前彼を起こし、着くなり引きずるようにして電車から降ろしました。「さて、ゆっくり寝よう、でもその前にトイレ」ということで、トイレのある一番前の車両に向かうと、乗客も大分減って、座席で丸まって寝ている人もいます。

 ところが2両目の端まで来て1両目を見ると座席どころか床にも人が座っており、大変な混みようです、トイレの前にも3,4人が座り込んでいます。これでは、トイレに入る時、床の人に立ってもらわなければなりません。さらに、なんとなく「1両目に入って来て欲しくない」という車両内の空気も感じられたので、後ろの車両のトイレに行くことにしました。「それにしてもなんで、1両だけあんなに混んでいるんやろ?団体旅行かな?」と考えながらもトイレから席に戻るとすぐ 眠りに落ち、目が覚めたのは早朝で、西岐阜を過ぎたころでした。「1両目の乗客も少しは降りて、トイレ前の人も座席に座れただろう」と思い、再びトイレのために前に移動し、1両目を覗くと、そこには信じられない光景がありました。

 なんと1両目の乗客が「過激派」に変身していたのです。全員がヘルメットをかぶり、サングラスをかけ、顔の下半分はスカーフで覆っています。スローガンを書いたプラカードや横断幕もいくつかありました。途中では誰も降りなかったらしく、座席も通路もいっぱいのままです。私はUターンして急いで自分の席に戻りました。私の大学生時代(昭和51-56年)京都の「過激派」は何時も数人で、さみしげにデモを行っていたので、こんなにたくさんの「過激派」を見たのは初めてでした。多分、昨夜、一般人を装った「過激派」100人位が、東京駅で全員一斉に一両目に乗車し、床にも座り込み、車両を満杯にして、1両丸ごと占拠したのでしょう。そして、降車する直前に武装し、プラカード類を荷物からとり出したんだと思います。

 私は、関わり合いにならないよう、ずっと後ろの車両に移動して降車し、隣のホームの「姫路行き快速」に乗り換えました。「過激派」が大垣駅で降りたのか、乗り換えてどこかへ行ったのは不明です。

 何やら白昼夢のような思い出でした。