神戸の市街地の北側を東西に連なる六甲山脈は、西端の須磨浦公園(須磨区)あたりまで来ると「海になだれ込む崖」となって途切れてしまうので、市街地を平行して西に進んできた「国道2号線」「JR緩行線」「JR急行線」「山陽電鉄線」の車や列車は「崖」を削って造られた「東西方向の狭い雛壇」の上を肩を寄せ合うように通り過ぎて行きます。
そのままさらに西に進み「垂水区」に入ると、地形が「播州平野西端の台地」になるので、西の彼方まで見渡せる景色になりました。
さて、「律令制度」により定められた「古代の地域区分」は、国の中心である畿内(摂津、河内、和泉、山城、大和)と、遠方の(七道)に分けられていて、神戸市は「東灘区」から「須磨区」までが「畿内の摂津国」それより西の「垂水区」「西区」は「山陽道の播磨国」で、その境は「須磨浦公園」の西端にある「境川」がそれにあたるそうです。
百人一首に撰ばれた源兼昌の歌「淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬ須磨の関守」の「須磨の関」は、現在「山陽電鉄須磨駅」の裏手の「関守神社」がその「旧跡」と言われていますが、ここに「関所」が存在したという確証はありません。
ところで、東に目を転ずると、「畿内の東部」にある山城(京都府南部)と「東山道の西端」にあたる近江国(滋賀県)の境にも「逢坂の関」と言う関所が設けられていました。
同関所は都のすぐ近くにありながら、出境すると「東山道」の辺境ということで、東へ向かう旅人が立ち止まって都を偲び、旅の無事を祈る場所として有名でした。
「百人一首」にも著名な三人の歌人(「蝉丸」「清少納言」「右大臣藤原定方」)が読んだ「逢坂の関(逢坂山)の歌」が撰ばれています。
「須磨の関守の歌」は百人一首撰歌の中で「神戸市内の旧跡」が舞台となった数少ない例でありながら、読み手は「生没年不明」で「残された歌も少ない」地味な歌人で、「逢坂の関グループ」には知名度で圧倒的に負けているのが残念です。